第一章 魔女の宿敵 ③

          *           *


 エルヴィンは夜半過ぎに帰ってきていたらしく、翌朝、玄関ホールに使用人達が集まっていた。

 使用人はこの規模の屋敷としては少なく感じられる。偉そうに腰に手を当てたエルヴィンを前に皆動きを止め、緊張した面持ちで整列している。


「今日から三週間ほど、領地の城に行ってくる」

(……は?)


 ネリは小さく口を開けた。

 この国の貴族の半分ほどは領地と公都の二つに屋敷を構える。どちらを主にして住むかは仕事の内容による。エルヴィンのように公都で仕事をしている場合、領地の管理をするのには少し遠方に赴くことになる。だが、ベルンツィヒは小さな公国であったので、移動に何十日もかかるということはない。しばらく領地で過ごしてくるのだろう。


 その間エルヴィンから情報を引き出すことはできないわけで、ネリの予定より最低でも三週間はここに長くいることになる。自然とネリの眉根が寄った。エルヴィンは眉根を寄せた妻には一切視線をやらず、執事に出発に際しての相談をしている。

 マーラがネリをちらりと見て、エルヴィンに何か言おうとしたが、鋭い目でじろりと一瞥して冷たい声で「何か文句があるのか」と黙らせた。屋敷の主人というより軍隊の隊長、あるいは魔王の点呼にしか感じられない。ネリは貴族の屋敷のことなど知らないが、これが普通ならなんと窮屈なものだろうと思う。


「治水の問題が生じているのなら仕方ない。ここ半年以上視察もしてないからこの機会にいろいろ済ませてくる」


 エルヴィンが執事と話すそんな声が聞こえてきた。それは確かに必要な仕事ではあるだろう。しかし、結婚直後、未だ妻との会話もろくにない状態で平然とそうする態度には腹が立った。どうしても、自分ではなくソフィーが嫁いだ場合を考えて同情してしまう。


「あ、あの……!」


 エルヴィンがこちらにまっすぐ向かってくるそれに、声をかけようとした。

領地なら普通は妻を伴って行くものではないのだろうか。今声をかけなければ三週間もあとになると聞いては焦らずにいられない。


「そこをどいてくれ」

「え、はい」


 なんとなくその冷たい圧に負けて素直に避けてしまった。

 エルヴィンはこちらを見もせずに、早足でさっさと出かけていった。

 ネリの屋敷への三週間以上の滞在が決定した瞬間だった。



 魔王の不在中、ネリは何か見つけられないかと、屋敷内を探索することにした。


 屋敷には使用人が点在して働いていたが、数が少ないのであまり見かけない。そして、使用人は大体が高齢だった。今も一人、大階段の手すりを腰の曲がった老婦人が掃除をしていたが、ペースが恐ろしく遅い。時々腰を押さえている。屋敷はなんだか全体的に薄暗く、どんよりしていて活気がなかった。

 しかし、活気のない屋敷は人目につかないように出入りするのはたやすかった。

 地下と屋根裏は使用人達の仕事場や居室らしいのでやめて、マーラと見なかった三階に上がる。扉はほとんど使われていない客室のようで、中に入ることなく通り過ぎた。部屋数ばかりは無駄に多かったため、ネリは途中からうんざりしてきた。


 何番目かに開けた扉は子供部屋だった。おそらく、エルヴィンが幼少期に使っていたのだろう。ところどころ埃が積もっていた。ほかには同じように埃の積もった育児室と勉強部屋、子供向けの書庫があったくらいで、発見はなかった。

 今度は二階に降りて気になっていたエルヴィンの書斎へと入り込む。幸い鍵はかかっていなかった。しかし入ってみても、机と棚と、そんな当たり前の家具が整然とあるばかりでさほど使われている形跡がない。


(つまらない奴の暮らす部屋だわ……)


 ネリは失礼な感想を抱いた。

 エルヴィンの寝室にも勝手に入ってみたが、やはりろくに物が置かれておらず、秘薬管理局の関係の書類なども一切見当たらなかった。仕事場に全部置いているのかもしれない。

 外に出て、近くまで行って見た別棟の書庫は重い錠前がぶら下がっていた。


 屋敷はどこもかしこも生きた人間の生活感がなく、十年前に使われていた場所に今来たような印象だった。古ぼけた豪奢な屋敷も、薄暗い中働く使用人達も、まるで、自分達が死んだことを知らない幽霊達が静かに生活を送り続けているかのような物悲しさがあった。もしかしたらそれはずっと屋敷にいる人間には麻痺して感じられないものかもしれない。外から来ると蓄積された陰鬱さは異常に映る。



 二日かけて屋敷を念入りに見まわったネリは、結局何も見つけることができず、具合が悪いと言って私室にこもるようになった。もとより屋敷にそこまでの情報があるなんて期待はしていない。エルヴィン本人に直接探りを入れるしかないだろう。


 そうしていると屋敷の生活は驚くほどすることがなかった。

 魔女の小屋では毎日畑の世話と、秘薬の研究をしていた。ネリはいつか秘薬の取引禁止がなくなることを信じ、その日までに一人前の魔女になることを目指していた。薬草やハーブ、時には毒草や動物の一部や特殊な菌なども組み合わせて作る秘薬は何百、何千と組み合わせがあり、様々な薬があった。効力も調薬する魔女によって違うし調薬のたびに改良もできるので終わりがない。そのほかにも洗濯や食事の用意は自分でしなければならなかったし、母がいた頃からしていた薬学や語学、歴史の勉強も続けていた。

 この屋敷では生活のためのやることもなく、畑の世話も研究も何もできない。ネリはここ三日ほど、何もせず他人の姿でぼんやりとしていた。


 こんなところまで来たが、そもそも本当に自分の求める情報はあるのだろうか。

 初めて母を捜す手がかりが掴めるかもしれないと意気込んで来たが、退屈と広すぎる部屋の中で、ネリは虚無感を覚えた。

 自分はなぜこんなところで、会いたくもない人の帰りを毎日待っているのだろう。

 こんなことをしても、母はもしかしたらもうどこにもいないかもしれないのに。


 森の中の一人きりの生活から突然、周りに人がたくさんいる貴族の生活に入り込んだネリは、人が周りにいる中での孤独感のほうが寂しいことを知った。

 やるべきことがあり気は急いているのに何もできない状態に精神が疲弊していく。

 バレたくないので、一日も早くここを出たいのに。待つしかできない。

 おまけに屋敷の雰囲気は幽霊の居住のようで、ネリからもじわじわと覇気が奪われていく。時間の流れが酷く緩慢に感じられる。エルヴィンが出ていってからまだ二日だというのに、もう何十日もここでこうしている気がする。苦痛だった。


 ぼんやりと身を起こし、姿見の中に見慣れない女性がいるのを見た瞬間、ぞっとした。

 自分は───魔女のネリは、どこに行ってしまったのだろう。


 そもそも魔女のネリが存在することを知っている人間はとても少ない。母がいなくなれば、急に消えてしまっても誰も気づかないような存在だった。ネリだけがそれを、魔女のネリが生きて存在することを知っているのに。

 自分によって自分の存在が消されたような、言いようのない不安が急激に胸を埋めた。

 魔女のネリに戻りたい。知らない屋敷にいたくない。泣きそうな気持になった。


 ふいに母の声が脳裏に甦った。


『ネリ、また勝手に調薬したの?』

 ───うん、すごいでしょう。

『魔術よりも、きちんと一人で生活するための方法を学んでいくのが先よ』

 ───どうして? お母さん、わたしは魔女なのに。


 魔女なのに。魔女でありたいのに。

 自らの姿でいられないのは、とても不安になる。ずっと他人の姿でいると自分が誰だかわからなくなる。


 ネリはふらふらと部屋を出て、静かな廊下を目的もなくぼんやりと歩いた。長い廊下沿いの窓の前に立つ。窓からは、少し離れた市街の屋根がいくつか見えた。

 こんなことするんじゃなかった。ここを出たい。こんな屋敷にいたくない。今すぐに小屋にもどってしまおうか。そうして、今まで通りの生活を続けながら母の帰りを待つのが一番いいのではないだろうか。そんな衝動が押し寄せる。

 ネリは知らず、屋敷の陰鬱にあてられて覇気を失おうとしていた。

 

 ───パシン。

 

 ぼんやりした無気力に呑み込まれそうになったネリの顔面に軽い衝撃が走った。


「いった……なに?」


 ネリの顔から小さなボールがポトンと落ちた。どうやらこれが顔面に衝突したらしい。


「うわっ……まずい」


 小さな声が聞こえてそちらを見ると、見慣れない少年が走ってきた。

 歳の頃は七歳か八歳くらい。黄味が強めの金色の髪にはしばみ色の瞳、表情からすでに活発さが滲み出ているが、身なりのよさからして貴族の少年だろう。間違いなく今ネリの顔にボールをぶつけた犯人だが、どこから入ってきたのだろう。


「ごめんなさーい! 大丈夫?」


 少年が慌てた顔でネリの近くまできたのでボールを拾って渡した。


「大丈夫よ」


 少年はネリの顔を覗き込んで安心したように大きく息を吐いた。


「お姉さん、エルヴィンはどこにいるか知ってる?」

「彼は今日ここにいないわ」

「えー、そうなんだ。……じゃあもう帰るのかなぁ」


 そう言ってからネリの顔を見てへへ、と笑った。


「ちょっと迷っちゃったから、大階段まで連れていってよ」

「いいわよ」

 

 ネリと少年は屋敷のかなり端にいた。手を繋いでしばらく行くと、階段前に出た。


「もう大丈夫。ありがとう!」


 少年はにっと笑って手を振った。そうして、あっという間に走っていってしまった。

 少年は急に現れて、急にいなくなった。なんだったのだろう。まるで幽霊みたいだったけれど、ネリは白黒で死人だらけの世界の中で、久しぶりに生者に会った気がした。

 そうして、なんだか少し元気が出た。


 頭の中にまた、母の声が蘇る。


『大丈夫。魔術なんて使わなくても植物は育てられるし、お掃除だってできるし、ご飯も作れるでしょう。落ち着いてやれば、あなたはなんでもできるわ』


 どうしてって───わたしの娘だもの。


 そう言って笑う母の顔が、まるでついさっき見た光景のように鮮やかに浮かんだ。

 ネリには目的がある。そのためにこんなところに、別人の顔でいる。絶対に諦めたりしない。母のゆくえを突き止めてみせる。


 ネリは生きている少年を見て、自分の生気も取り戻したような気持ちだった。

 下手に動いてバレたらどうしようだとか、そんなことばかり気にしていた。でもこのままこうやって他人の顔でひきこもっていたら『魔女のネリ』が死んでしまう気がする。

 正体がバレることを気にしていたら何もできない。なんなら、バレてもいい。母と同じ場所にたどり着けるかもしれない。そのほうが『魔女のネリ』が死ぬよりずっといい。


 そもそも自分は元来そこまで悲観的ではなかったはずだ。母がいた頃は特に、お転婆で困らせていた。一人になってからだって、ずっと前向きにやってきていた。

 こんなに弱気な気持ちになるのは、きっと全部この陰気な屋敷とあの男のせいだ。薄汚れた屋敷と、まずい食事と主人の陰気な顔。それらが全部悪いんだ。そう思ったら腹が立ってきた。まずはこの陰気な屋敷の生活環境を改善する。使用人達とも仲良くなって、エルヴィンの情報をどんどん聞き出してやる。

 ネリは静かに奮起した。

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