二章 💘‬

1.✒️✉️



──彼がこの部屋を後にしてから数分後




よくよく考えてみたら、『監視』の仕事なのに『引きこもり』して部屋で仕事してるってどういうこと?と


その連絡先の番号を暗記しながら、あの可愛い顔の『佐渡』という男の言葉に疑問を持っていた。

















電話番号は何とか覚えたけれど、それを繋ぐ端末を、私は持っていなかった。




というか、ケータイを含めて財布もカードも、家の鍵すらも何もかも、あの鍵のかけていない家に置いたままだ。


無防備にもほどがあるけれど、あの日、あの飛び降りたい衝動に負けた私はそんなことまで考えられる余裕なんてなくて、この身一つで歩道橋まで一直線だったのだ。


まさに猪突猛進もいいとこ。


何も盗られていなかったらそれこそ奇跡である。




まぁ、家の中を見た瞬間に、既に泥棒が入った後なんじゃないかなんて考えられるくらいの荒れようではあると思うけれど。


というかその場合、支払い滞納で私が居ないことに気付かれて捜査とかされているんだろうか……。




……。


………………。





私の帰る家、まだちゃんと存在してるのかな?




そこまで考えた所で、私はなんという選択をしてしまったんだと後悔の念に苛まれて頭を抱える。


今まで、考えてこなかった……いや、考えたくなかった。


だってったらすぐ出られると思って、そればかり考えて来て、いつの間にか2ヶ月以上も過ぎてたんだもの。


あのぐちゃぐちゃした部屋はまさに事件現場じゃないか……私が暴れたってだけなんだけど。




まず家がまだ存在するか調べて、最悪……あの電話番号にかけて、家が決まるまで置いてもらおう。


この家を出たら、ここにはもう、戻って来れないから。




『出ていくのは自由だけど、そうしたらここはオートロックだから、戻って来れないからね』


『君へ与えるチャンスは、この一度きりだから、よく考えて』




そして私はもう、彼を殺す理由もなくなり、『加害者』に繋がる接点を持ったから。











──この部屋から、出なければいけない。











ただ、そうすぐに切り替えられもしない。


体調の問題もあるし、体力がない分、そこは重要。


睡眠をちゃんと取れた日の後がいい。




……それに、ユラとすぐに離れるのも……名残惜しくて。


汚い女の考え方だろうか。


でもせめて、ユラの風邪が治るまでは、面倒見てあげたい。


少しでも返せるものがあるなら、返してから……ここを出て行く。




まだ『支払い』は全然終わってないけれど、もしここを出て行ったら仕事を探して、それで、あの男に電話して、間接的に渡してもらおう。






仕事……出来るものがあるだろうか……。


念の為、次に薬を貰った後、出て行こう。


薬が切れたら、脳の中がムズムズと痺れるような気持ち悪さの『離脱症状』が出る、それは飲み忘れで体験済みだ。


だから私は薬を欠かせられない。


頭がおかしくなりそうになる、あの離脱症状は。




医者に通うまでの期間は延ばしたいし、薬を見せれば医者も何が処方されてるのかわかるだろう。



スマホは解約とか、止められたりとか、されているだろうか。


そしたら通信手段は公衆電話……それでもお金はかかるから財布の中身次第だ。


本当にギリギリなら生活保護も視野に入れて……もしかしたら、こんなに動けない症状のものなら障害年金とかも、申請できるのだろうか?そこは詳しくない。


けれどきっとすぐに貰えるわけじゃないから、それは後回し。




着々と計画を立てて行くものの、それをメモして持ち歩けるものが欲しかった。






その時、廊下を歩く音が聴こえてくる。


誰か帰るのか、私のところに来るのか……。


扉の向こうで足跡が止まることなく過ぎ去ろうとした時、私は部屋のドアに駆け寄って、扉を開いた。




「びっ……くりしたわ。あかねちゃん、どうしたの?」




そこにいたのは、お姉さんだった。


ちょうど扉を過ぎたところで、驚かせてしまったらしい。


胸に手を当てて心を落ち着けようとしている。




「ご、ごめん。あの……紙、とペン、欲しくて」


「紙……お手紙とか?ノート?」


「!!……うん、手紙、書けるやつほしい」


「私、昼食の準備で出掛けるだけだから、一緒に買ってきちゃうわね」


「あ、ありがとう!」




こんなにすんなりと買ってきてもらえることを了承されてしまったけれど……よくよく考えたら私はお金を持っていない。


……お姉さんにキスするわけにもいかないだろうし、どう払おう?


というか『支払い』のそれはあの男が特殊なだけで、他の誰にも適用されないだろう。


なんて思った時には既にお姉さんはこの家を出て行ってしまっていて、気付くのが遅かった。




……それも後で、佐渡さんを通して渡してもらうことにしよう。






名刺を言われた通りトイレに紙を流した私は、その後ゼリーを少し食べてから薬を飲んだ。


それから電子書籍に手を伸ばそうとしたけれど、胸がざわざわとして落ち着かなくて、伸ばした手を止める。


あの男が、風邪だっていうから……気になって仕方がないんだ。




意識から遠ざけようとすればするほど、気になってくる。


なんで?どうして?今この場所にアイツは居ないのに。


まさか私、心配してるの?


風邪を?風邪くらいで?




けれど彼の体が触れていた時、すごく、熱かった。


少し汗ばんでいて、吐息も熱くて……それなのに私は、寒くもなんともなくて。




――まるで守ってもらったかのような、そんな気持ちになってしまっていて。




ダメだダメだ、頭の中がすごくピンク色してる。


何これキモイキモイ、私の感情?


今まで感じたことのなかった温かさと、知らない感情の湧き起こる恐怖感。


このまま飲み込まれてしまわないだろうかと、私の心が拒絶する。




怖くなったら、どうすればいいんだっただろうか……。




『こうやってずっと、君の意識を俺でいっぱいにすれば解決するね』




ダメだ、あの男の策略に引っ掛かっている気がしてならない。


私は頭を抱えて項垂れた。




あの男への好意……たぶん少なくとも好意であるこの感情を、自分で受け入れられない恐怖。


その恐怖から逃げようと、彼が言った通りの対策法としてユラのことを考えて思考を逸らそうとしても、ユラのことで恐怖しているんだから、意味が無い。


怖さが増すだけだ。




そもそもなにがこんなに怖く感じるのか?


前付き合っていたクズ男相手には、こんな風にならなかったはずだ。




ユラは……安心、する。


少なくとも抱きつかれても拒絶出来なくなってくるほどには、受け入れてしまっている。


けれど、同時に怖い。


攻められて、受け入れてしまうことが怖い。


受け入れたくなる自分の心が、怖い。




──その直後に、あのクズ男のように拒絶されたら、私は、私は……きっと耐えられない。






呼吸が浅くなり、息苦しさを感じる。


──あ、くる。


その予兆を感じて、私は動けなくなる前に立ち上がった。




──彼の元に


ユラの元に行けば、治まるだろうから。


彼は風邪を引いてるけど、でも同じ空間にいるだけできっと楽になれるから。




私は扉を開けて、彼の寝床へ向かった。







手足が震えてくる。


最近、朝が少し寒いから……だと、思いたいけれど、無理がある。


またあの過呼吸が起こりそうだから……。


風邪をひいているユラを私の部屋まで呼び付けるような事態にはしたくない。




震える手でそのドアノブに手をかけ、開く。


そこにいたのはユラだけではなかった。


佐渡さんもいる。


可愛い顔の佐渡さんが、少し目を見開いてこちらを見ている……けれどそんな顔も可愛い、悔しい。




彼の隣に可愛い人がいる、悔しい。




──私は男相手に何を考えてるの?


思考がおかしい?


彼を取られたくない?


でも相手は男なのに?


そんな『気』なんてきっとないだろう、相手に?




──その彼よりずっと近くにいたい。




「……あかね、おいで」




じっとその可愛い顔を凝視していた私に、そう彼の……ユラの声が届く。


その声に導かれるように視線を移せば、起き上がろうとする彼の姿。




「まって、寝てて、いいから、そのまま、で、大丈夫、だか、ら」




呼吸の荒れる私に、可愛い顔が眉を顰めるのを視界の端に捉え、それから私はゆっくりとユラのベッドに近付いた。




床に座ると、頭をベッドにもたれかける。


呼吸が苦しい。


その頭の上に、感じ慣れた感触が乗り、柔らかく撫でてくれるそれに深く安心してくる。




頭の中が混乱して、苦しい。


彼と一緒に居たいのに、彼と一緒に居ることが苦しくなる。


彼と一緒に居るのが苦しいのに、この苦しみを鎮めてくれるのは彼しかいない。




頭がおかしくなりそうだ。


混乱から涙が一筋、流れ落ちる。




「あかね、床寒くない?ベッドの中入って来ていいよ」


「……え、ちょっ、待てお前ら、ここでもイチャつく気?」


「緊急事態でしょ、これ」


「ゆー、そんな感じで昨日も仕事放り出したの?」


「おいで、あかね」


「うわ、また無視」




頭を撫でる手が止まり、ベッドに1人分の空間を作ってくれるユラ。


そこに入るか少し悩んだけれど、頭より背中をポンポンと優しく叩いて欲しくて、体を起こしてその空間に入り込む。




すっぽりとその腕の中に入れば、昨日のように優しく背中を、一定間隔で叩いてくれる。




「うわ、ゆーのドヤ顔拝める日が来るとは思わなかった……」


「可愛いでしょう?あげないよ」


「いらねぇし……本当によくわかんない関係だね」




やはり、第三者から見てもこの関係はよくわからないのだろうか。


当事者ですらわかってないから、そりゃそうか……。




いつかこの関係に名前がつく時が……いや、ない、ないから、そんな日来ないから。


……ていうかどや顔って何?




「それで?その『美人』がなんだって?」




そう急に話を振った彼に、一瞬頭の中が真っ白になる。




「……『美人』?あぁ、さっきの続き?だからゆーがいないとダメなんだってさ」




ユラが、いないと……ダメ?




「あぁ、それならすぐ行くし……夜でもいいけど」




夜……?


まって、何の話してるの?


夜?夜に『美人』の所に行くの?


何しに行くの?何する気なの?




ユラを見上げるけれど、その視線は佐渡さんの方に向けていて、こちらを向いてはくれない。




「ずっと見てるから心配するなって言っといて」


「ほんとに見れてんの?この状態で?」


「『あの子』もいるから大丈夫でしょ?」




『あの子』?『あの子』って誰?


見てるって何?『あの子』とさっき話してた『美人』は別の人?




「いるけどまだ学生だし……限界あるよ」




学生?学生の子と……何?え、何?


どんな関係?




彼の服をきゅっと掴んで引っ張る。


なんの話をしているのか全く見えてこないのが、とても不安で、なぜか必死になって理解しようとしていて。




「ねぇ、もしかして俺、とんでもない茶番に付き合わされてない?」




そう、佐渡さんの呆れ混じりの声が聞こえた直後、見上げていた先のユラがふっと笑ってから、こちらを見下ろす。


……茶番?とは?




目を細めてにやりとした笑みを向けて来る彼に……何か企みがあった上で話されていたことにようやく気付いた。





「ユラ……?」


「可愛い……ちゃんと嫉妬してくれた?」


「……………………は?」




頭を撫で回されて、背中にある腕の力がギュッと強まる。


嫉妬?


嫉妬……とは?


いや、嫉妬の意味はわかる。


ヤキモチのやつ。


なんか、好きな人を取られたくなくて、怒っちゃうやつ。




でも私がそんな、怒ったりとか、なくない?


全然嫉妬なんかしてないし。


してなんてないし。




プクッと頬を膨らませると、またくすくすと頭上から笑う声が聴こえてくる。




「してない」


「じゃあなんでそんな不安そうな顔してたの?」


「……してない」


「俺の服、ギュッと掴んで見上げてきてたのに?」




気付いてたのに気付いてないフリしてたの……!?


なにを期待してるのか全くわからないけれど、私は断じて嫉妬なんてしていない。むっ。




「うわ、だだ甘……」




背後からそんな声が聴こえて、そういえばこの一連の流れを見られていたなと思い返すと、また羞恥心を煽られる。


彼の言った通り、この一連の流れは『茶番』だったんだろう。




「でもほら、そっちに気取られてたおかげで、呼吸戻ってるよ?」




どうやら彼曰く、私の注意を他に向けて呼吸を整える為の茶番だった、らしい。




「ユラ……性格悪い」


「今の会話を性格悪いと捉えるってことは、あかねにとって不快な感情が湧いたってことでいい?」


「………………性格悪い」


「はいはい、悪態つく語彙力がなくて可愛いね」




頬を擦り寄らせ、またゴリゴリと頭部に擦り付けられる。


なんなんだこの男、子供扱いしやがって。むっ。




そんな光景を見たからか、はぁ、とため息が後方から聴こえ、可愛い顔の佐渡さんがため息を付いているのを感じる。


呆れられているのか。




「心配しないでよ、仕事関係の話してただけだから」




佐渡さんの声がそう伝えてくるけれど、アレが仕事関係の話なんかに聴こえない。


どんな言葉のマジックだ、ていうか『美女』と『あの子』って誰だ。




「心配なんて、なにも、してないけど」


「ん?俺があかね一筋だってちゃんと伝わってること?」


「~~~!!違くて!!どうでもいいってこと!」


「え?じゃあさっきの解説しなくてもいいってこと?」


「…………」




意地か、欲か。


私はその瀬戸際に立たされていた。




知りたくないわけがないじゃない、変に気になるような言い回ししてきたのはそっちじゃない。


このままモヤモヤしたまま夜を迎えるの?え?何それ拷問?


だからと言って認めたくない、ここまでくるともう意地との闘いである。




私はなけなしの知識からどう言いくるめれば意地を守りつつ話を聞けるのか思考を巡らせたけれど、残念なことに何も浮かばなかった。




私が必死に知恵を絞りだそうと奮闘しているのに、クックックッと笑う振動が彼からダイレクトに伝わってきていて、とてもとても悔しい。


音出してないからって隠せてない、全然隠せてないよ。




「じゃあ、キスしてくれたら教えてあげる」


「は?」


「ほら」




そう言って顔の前に差し出されたのは、手の甲。


まさか……まさかここにキスしろというのだろうか。




「風邪ひいちゃってるから、口はやめとくね」


「お前ら人前で何しようとしてんの?」


「そっちには見えないんだからいいでしょう?あかね、ほら」




その手の甲が迫ってきて少し腰を引くけれど、もう片方の腕が引き寄せて来て、逃がしてくれない。


しばらくその手の甲と睨み合っていたけれど、口でお願いするよりはマシか、と思って……軽く、一瞬だけ、そこに口付けた。




「敬愛」




そう呟いた男を見上げると、幸せそうな瞳と視線が絡まる。


……敬愛?とは?




「手の甲へのキスの意味」




ふっとまた笑うその笑みに、私の顔にまた熱が集まるのを感じた。


待って、キスの意味?


キスって場所によって意味があるの?


それが敬愛だったってこと?


え、今の無効でしょ?


させられたんだから無効だよね?




パクパクと口を開いて閉じてを繰り返して混乱する私の額に、キスが降ってくる。


また、この男は、甘ったるい空気全開で私を包んでくる。


それがまた苦しいというのに、この雰囲気にハマっていく自分も、心の隅にいる。




「戯れはこの辺にしておこうか。『美人』の話だったね。ちゃんと話すよ」


「俺すげぇここから逃げ出したい」


「もうちょっと待ってよ、今説明するところだから」




そう言って私の頬に手を当てたユラは、その艶めいた唇を開く。




「俺がいないと、ターゲットの誘導の仕方がわからないから、落とせないんだってさ」


「……落とす?」


「今、ハニートラップやってる美人だけどヘタレな奴がいてさ、めんどくさいんだよね。わかるよね?ハニトラ。一回してきたもんね?」


「……」




それは、記憶から消し去りたい事実だった。


記憶から消し去りたいのにこの男、まだ覚えていたし、ぶり返してきやがった。


しかも人前で。




「でもそれで……夜、行くの?」


「部屋から繋げるだけだよ。様子見ながらその子と仲間に指示送って、落として捕まえて吐かせる」


「……部屋から?」


「俺は顔は出さないからね。殺されちゃうから」




ということは、その美人とも直接会うことはしないということなんだろうか。


緊張していた体が、少し和らぐ。




「殺しに来てくれるのは、あかねだけで十分」




その言葉は物騒なのに、なんだか自分が特別扱いをされているような気持になって……胸がギュッと締めつけられた。


「じゃ、じゃあ『あの子』っていうのも、仕事の?」


「今育ててる後輩の子がいるんだよ。まぁ学校行ってるから昼間は繋げられないけど、その子も有能だよ。他にも何人かいて、交代で24時間誰かしらと繋げられるようになってる。俺はその統括」


「……怖い仕事の偉い人……?」


「間違ってはいないけど、俺怖い?」




そのくすくす笑う声は、全然怖い人なんかには見えなくて。


けれど時々、怖いと感じる場面は、確かにあって。




「ゆーは人操っちゃうから怖ぇよな」


「そんな簡単に自由自在に、人の心は動かせないよ。洗脳なんて以ての外、いくつも条件を満たせないと外側から解かれていったりするからね、難しいよ」




彼は、洗脳は難しいというけれど……私は確かに洗脳されたような記憶がある。


敵意を湧きたてられて、この男に向けるよう仕向けられた、あれは洗脳ではなかったの……?




「俺が使ってるのは、その人個人の気持ちを尊重した誘導。簡単に動かせない人は俺でも動かせないよ。あくまで行動に対して返ってくる確率が高いものを選んでいってるだけだから」


「それでも十分怖いけどな」




確率……を使っている、らしい、ユラ。


それってきっと、並みの知識量じゃ出来ないし、学校でも習わない。


確率なら失敗もある、人によっても変わってくるんだろう。


私のように流されやすい人が、その誘導に乗りやすいってだけ……。




「ユラは……私のこと、落ちるように誘導してる……?」




信用、し始めてる。


その気持ちからは逃げられない。


けれど私の気持ちがどこまで本当の自分の気持ちなのか、それとも誘導されたり錯覚させられたりして作り上げられたものなのか……私には区別がつかない。


本人に聞くのもおかしい話かもしれない。


嘘を……つかれたら、それこそ、この質問に意味なんかなくて。




また不安になる。


この気持ちは、本当に私の気持ちなのだろうか。


近付けば近付くほど、同時に起こるこの恐怖は、一体何なのか。




「誘導が全くないと言ったら、嘘になるね。振り向いてもらう為の努力は、誰でもすることでしょう?」




柔らかな笑みが、私の瞳に真っ直ぐ向けられる。


誰でも……確かに、努力は、誰でもするかもしれない、けど……。




「それにあかねは、警戒していて全然心を開いてくれないじゃない。誘導されてると思う?」


「……それは、信用できない、からで」


「あかねが俺たちのことを信用できないのは、自分を信用出来ていないからだよ。そこは俺の問題じゃなくて、あかねの中の問題」




真っ直ぐに向けられた瞳は、外されることなく、私を射止め続ける。


信用できないのは、私の中の問題だと……。



私が、自分を信用していないから……?




「なに、それ」


「別にあかねが悪いとか、責めたい訳では無いんだけどね」




そう前振りをして、ユラはゆっくりと目をつむる。




これから何を言われるのか、責められるような気持ちになるような事を話されるのかと思うと、また体が緊張する。


怖い、けれど、ユラの言葉はいつも私の本質を突いてくる。


痛いけれど、少しずつ、教えてくれる。


私の知らない、私のことを。




「あかねは、人を信用できないんじゃなくて、人を信用する自分を、信用できないんだよ」


「……その違いがよくわからない」


「つまり、自分のことを信じられない人は、他人を信じられない。自分を疑ってる人は、他人のことも疑う。ありもしない『嘘』や『裏切り』も推察する」




自分のことを信じられない人は、他人を信じられない……。


『嘘』や『裏切り』も推察する……?




私が人に、ユラやお姉さんにも心を開けないのは、それは相手が原因てわけじゃなくて、自分の中に原因があるから、ということだろうか。




「その考え方が根付いていると、ありもしない事実を思い込んで、苦しむこともある。頭の中で作り上げられたことに不安になる」


「そんなこと……」



ある……?


いや、今まで自分が事実だと思っていたことが本当の事なのかどうかなんて、いちいち考えたことはなかった。


人の気持ちは、その人にしかわからない。


それを推測で作り上げて、1人で不安になることは、思い返してみれば、よくあることだった。




不安の正体が、自分の中で作り上げられたものかどうかなんて考えたことがなければ、それが本当のことなのかも確認しようがない。


自分で気付いていないのだから。




この人が、ユラがいつか私の気持ちを裏切るかもしれない。


ユラが嘘を付いているかもしれない。


私がユラに応えたら……離れていくかもしれない。




今まで考えて来たこと、一つ一つに疑念を抱く。


果たして本当に、ユラは私を裏切る気でいるのだろうか?




点と点が結び付く。


それはまだ起きていないことで、ユラの言う通り、『嘘』や『裏切り』を勝手に推察しているだけ、なんじゃないだろうか。


勝手に推察して、勝手に不安になって、勝手に怖がって離れたくなっているだけ、なんだろうか。




「……そんなこと、あったかも」


「まず、気付けたことがあるなら、十分だよ」




柔らかく頭を撫でられ、褒められているような気持ちになって、心がほかほかとしてくる。


まだ不安が完全になくなったわけじゃない、そんなに簡単に考え方なんて変えられない。


けれど、一つ一つ思い返して気付いていくと、確かに不安と一緒に『憶測』があったような気がする。





「あかねは自分を信じられていないんだよ。自分のいい所も悪い所も、それが自分だとそのまま受け入れるってことが出来ていない」




ゆらりゆらり、まどろみの中のような心地良さの中で、撫でられながら私の知らない私の話を聞いて行く。


いい所も悪い所も、そのまま受け入れる……。


自分の悪い所まで受け入れるなんて、良くないんじゃないかと思うし、怖いと思うし、甘ったれているように感じる。




受け入れるって状態が本当にいい事なのか、今の私にはわからない。


自分の気持ちを変えていくことも、怖く感じる。


それで悪いように転がって行かないだろうか。


いや、人に殺意を向けていた時点で善悪がもうぐちゃぐちゃにはなってるんだけど……これまでのことを思い出すとちょっと死にたくなる。




そんな殺意を向けていたはずの人に、私は極限まで甘やかされている。




「悪い所は、受け入れちゃダメじゃない……?」


「それを見て見ぬふりしてたら、同じ間違いを繰り返すよ。繰り返さない為に受け入れて、切り替えるんだよ」


「……許されないことじゃない」


「誰が許す許さないを決めてるの?決めるのは自分じゃなくて、害を受けた人。それだけのことだよ」




許すか許さないか、決めるのは自分ではない。


私は……誰に、なんの許しを求めているんだろう。


なぜ自分を自分で、許せないまま、生きて来ていたんだろう……。




「それにね」




そう、彼は言葉を続ける。




「自分が信じられない人って詐欺に会いやすいから、損ばかりするんだよ」




「ね?」なんて彼が向けた視線の先には、佐渡さんがいる。




「あー、そうだね。俺の場合は詐欺してるわけじゃないけど。自信が無い奴って凄く扱いやすくて、簡単に情報も吐いてくれるよ。責任感がないからかな」


「責任感……」


「言われたことをする奴ばっかりだから、指示した奴に責任擦り付けて自分は見逃してもらおうとすんの。滑稽でしょ?」




くくっと笑う佐渡さんを見ていると、この人は敵に回したくないな、と感じる。


ユラまで少し、笑っている振動が伝わってくるし。


ターゲットって人に、少しだけ同情する。




「犯罪者にも扱われやすい奴でいたいなら、そのままでもいいと思うけど?いい様に利用されるのなんて嫌じゃない?」


「……それは凄く嫌」




犯罪に巻き込まれやすいかどうかまで関わってるなんて、そこまで考えたことは無かった。


身近にそこまで犯罪が溢れていたわけでもなくて……いや、なんなら自分も殺人未遂で犯罪者といえば犯罪者に入るんだろうけど。


だからといって、他の犯罪に巻き込まれたいかといえば、それは嫌だと思う。




「利用されやすい人間になる程、裏切るし裏切られるような人間関係も作りやすくなるし、それでどんどん人間不信になっていく」


「格好のカモって所だね」


「え……なにそれすごく嫌」




つまり、自分を信じられず、いい所も悪い所も受け入れられないうちは、私はカモになりやすいまま、ということか。


それだけじゃなく、自分が裏切る側に回ることまで……そんなこと、意識したこともなかった。


でも確かに、こちらが裏切られてると思い込んで相手を避けるということは、逆に相手側から見たらこちらが裏切りの行為をしている様に見えるということ。




それはつまり……被害者意識が加害行為を生む場合がある、ということ。




そう気付いてしまうと、自分を変えないといけないような気になってくる。


それに、利用されてポイはもう、うんざりだ。




彼はまた優しい瞳を向けてくる。


ゆるりゆらりとしたその雰囲気のまま、優しく教えるような口調で、その言葉を伝えてくれる。






「付き合う人は自分で選ばないと、信頼できる人と巡り会えないよ」






それは、私がずっとずっと苦しめられてきていた問題の、答え、だった。




信頼できる人と巡り会いたい……いや、もう巡り会っていたのかもしれない。


それを裏切られる怖さに負けて拒絶してきたのは、私だ。




そして今、信用したいけど心の底から信用仕切ることの怖い相手が、すぐ目の前にいる。


その、まどろみの中でたゆたうような心地良さに包まれた中で、流されないように、微かに足掻き、抵抗し、それなのに流されたい気持ちが強くなっていく。




それはユラが、ユラだから。


ユラは私を、何かに利用したりなんかしない。


悪意を持って、私を使おうとなんてしていないから。


馬鹿みたいに甘やかして、ドロドロに溶かしてきて、それなのに時々私の痛い問題を突いてきて、そしてまたドロドロに甘やかす。


まるで、存在自体が麻薬。




これが本当に犯罪者相手にうかうかと付いてきていたとしたら……学ばずにまた、いい様に使われていた未来もあったのかもしれない。


ユラがユラだから、預けられる。


ユラがユラだから……信じられる相手になって欲しいと願う。


例えそんな関係が築ける日が来たとしても……この『復讐』の為に、離れることには、なってしまうだろうけど。




ユラを裏切る行為に、なってしまうだろうか。


けれど、それでも私は、愛していたあの子を忘れる事なんて出来ないから。


ごめんなさい、ユラ。


胸の奥が、ズキリと痛んだ。




「でもさ、ゆー」




痛みを感じていた心から、そのふと投げかけられた佐渡さんの声に、意識が向く。




「人を信じられないのに、人の言葉は信じるって、なんか変じゃない?」





――そこは、言われてみれば私もおかしいなと思った。


自分を信じられなくて、人を信じる自分を信じていないのに、人の言葉だけは信じて真に受けて、利用されるなんて。


それも変な話だなと思った。




矛盾しているように感じるそれは、自分自身が起こして証明してきた事でもある。


現にこの家に来ることになったのも、ユラの言葉に流されたからだ。




私は人の言葉にすぐ流されて、後悔する。


人を信じない癖に、人の言葉は信じる。


ちぐはぐだ。




私も佐渡さんの疑問に乗っかって、ユラに尋ねる。




「他人の言葉を信じてるなら、その人を信じてるってことじゃないの?」


「人の気持ちを信じることと、言葉だけを信じることは、目的が全然違うんだよ」


「目的……?」


「その特定の人自身を信じることは、その人に頼って頼られて、助け合って生きていくために必要なこと」




頼って、頼られて、助け合って生きる……。




私には今まで、そんな相手はいなかったから、それがどんな関係なのか、うまく想像が出来ない。


けれど、いつも助けて貰っていて、その人を助け返したいと思う気持ちは……今ならなんとなくわかる。




「その一方で、人の言葉だけを信じるのは、責任逃れの為」


「責任逃れ……って、さっき佐渡さんが話してたような?」


「……そう。自分の責任じゃなくて、指示した人の責任だって擦り付ける為の口実。それはその人を信じているっていうことにはならないよね」




責任、逃れ……。


そう言われてしまえば、酷く胸が苦しく感じた。


私が酷く無責任な生き方をしている、ということでもあるから。


でもまぁ、事実、なのだけど。




「別に悪いことじゃないよ。人を頼ることも、人を心から信じられないことも。でも、それは自分を苦しめる材料なんだよ」


「ユラの話は……なんだかすごく、刺さる。痛い」


「それは自分を責めすぎなんだよ、あかね」




彼は私の頬に手を添えて、緩い力で上に向ける。


その視線に絡め取られると、目を細め、首を傾げて笑う彼にまた、心臓を鷲掴みにされる。




「俺は責めてないって言ってるよ?事実と気持ちを切り離して、考えて」


「なにそれ難しい……」




ドキドキ脈打つ心臓の奥で、ズキズキ痛む、罪悪感。


この気持ちを切り離すなんて、どうやれというのか。




ユラは責めてないと言う、けれど本当は責められているんじゃないかと『推察』してしまう。


これが自分の中で作り上げられた、事実とは別の気持ち。


そしてそこから湧き出してくる不安。


「ところで」




ズキズキと罪悪感に苛まれている中、彼が話題を変えるような前振りをすると。




「いつから『佐渡さん』て呼ぶようになったのかな?」




変わらぬ笑顔を向けられているのに、背筋がヒヤリとした。


はっ……呼んでしまっていた、つい、うっかり。


いや、別に人の名前呼ぶくらい良くない?普通じゃない?なんて思うのに。




「俺には2ヶ月と2週間と3日も待たせておいて、そいつのことは丸一日経たずに、もう呼んでいる仲なの?」




「ん?」と顔を近付けてくる彼から逃げるように、後ろを振り返って佐渡さんに助けを求めようとするけれど。


彼は体を左右に揺らして「俺はまだ呼んでないから、その人のことー」なんて言って、ユラから逃げようとする。




確かに呼ばれた記憶はないけど、私だけ責められるのは酷くない!?


ていうか出会ってからの日数、数えてたの!?




「あかね」


「ふぁい!?」




ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、頭の中はぐるぐると、その言葉で埋め尽くされている。


別に謝るようなことでもないのに。


いつも通りに笑っているのに声だけは威圧的で、本当にこの人の考えていることは読めない!!




「今日初めて、会ったんだよね?」


「あの……なんでそんな、怒ってるの?」


「怒ってなんてないよ。ただちょっと嫉妬心に塗れてるだけで」




それつまり怒ってるってことなんじゃない!?


心狭い?


いやでもいつもは空のように心が広いのに、急に狭くなるのなんで?


ていうか名前、呼んだだけなのに……。




「ゆー、ホントにどハマりしてるよね、その人に。名前教えなかった自分のせいなのにさ」


「追い出されたくなかったら黙れ」


「落差激しいんだよ」




一瞬、佐渡さんに見せたその鋭い瞳に、慣れていない私はビクリと肩が上がる。


けれど、佐渡さんは少しも態度を変えていない。


ユラのこの態度にも、慣れているということだろうか。




「どうしたの?あかね」




再びこちらに向けられた視線の中には、さっきまであった鋭さは見えない。


どこに引っ込んだ……?


そんなすぐに切り替えられるもんなの?




「これは……あんた、ゆーからもう逃げられなさそうだね」


「……??」




そうは言われても、私はここから逃げる気は満々だし、彼もきっとこの部屋を出ることを止めない。


それは最初に言われたことだし、私には監視の目もなくて、家の中を自由に歩き回れる。


外へ出ようと思えば、いつでも出られる。


一応ある靴の置き場も、確認してあるのだ。


逃がす気がないなら、靴くらい隠されてるはずなのでは?




見上げた先にある笑顔は、動揺のひとつもなく私を見下ろしていて、そっとまた額に口付けられた。


また甘い雰囲気が醸し出されつつあるこの部屋の扉の奥から、足音が聴こえてくる。


ノック音の後に姿を現したのは、お姉さんだった。




「あ、ここにいた、あかねちゃん」




どうやら私を探していたようで、その片手には便箋と長細い箱が持たれていた。


また急に不機嫌さを出してくるユラが、「なに?」とお姉さんに言葉をかける。




「あかねちゃんに頼まれたもの、届けに来たのよ」


「……あ」




そうだ、私、計画をメモするものが欲しくて、お姉さんに頼んだんだった。


紙ならなんでもよかったけれど、どうせなら持ち歩けたり、私が持っていても説明のごまかしの効くものがいいと思って、手紙を選んだ。


ユラの腕の中から出て起き上がり、お姉さんから便箋と長細い箱を受け取る、けれど。




「この箱、なに?」


「書くものよ」


「……え?」




その箱を開けると、中には淡いピンクの多機能ペンが一本、入っていて。


でも待って?安いペンはこんなにしっかりとした箱には入っていないはずだと思うんだけど。


せいぜいビニール袋……なんなら袋にすら入っていないものまであることを、私は知っている。


数百円でこのレベルのものは買えないことを、知っている。






──デジャヴ


そう、私は思い出した。


この2人が……姉弟であることを。




「これ、いくらかかった?」


「あ、心配しないでね?それでも一万円くらいのものだから」


「私が知っているペンの値段より0が二つ多いんだけど!」




この姉弟の金銭感覚どうなってんの!!?


一万円で心配するなって……どういうこと!?


もっと上があるってこと!?




困った瞳を佐渡さんに投げかけるけれど、やれやれというジェスチャーだけされて終えられた。


呆れるということは、この金銭感覚が狂っていることを佐渡さんも認めているってことだよね?




「あかね」


「なんなの……」


「コイツにキスはしないでね?」




ユラはユラで変な心配をしているし……。


それはさっき私も出した結論ではあるけども、確かに私もさっきまではキスで『支払い』なんてユラしか受け取らないだろうと思っていたけれど。


じゃあ何ならお姉さんに返せるというのだろうか。




「……キス?」


「今のはスルーしてお願い」




お姉さんは頬に手を当てて悩む仕草をするけれど、わからなくていい、そのまま忘れて欲しい。




「そんなことより、人にポンポン貢いじゃダメだって教わってこなかったの……?」


「……?貢いでいるつもりはないのよ?ただ──」


「プレゼントしたかっただけというならデジャヴでしかないんだけど」


「……プレゼントじゃいけない?」




私は頭を抱えて項垂うなだれた。


この2人に欲しいものを要求するのは今後やめよう、と。




そうじゃなければ、私はここを出ていくまでに一体何万円貢ぎ込まれることになるのだろうか……いつかここからいなくなる私にそんなにお金を遣わないで頂きたい。


損にしかならないじゃないか。




頭を抱えている私をよそに、ユラも起き上がって私の受け取った便箋と、淡いピンク色をしたボールペンを眺める。


すると「そうだ」と呟きを吐き出す声が耳元でしてきて……待ってだから耳元で話さないでくすぐったい。


私がいつものように首をふりふりとしてそれを振り払おうとすると、腹部にその腕が巻き付いてきて、いつの間にか抱え込まれていた。


その体は、やはり熱い。


大人しく寝ていられないのだろうか。




……だから、今日はスキンシップが激しいんだってば。


ナチュラルに当たり前のように触れてこられると困る。


こちらはもうそんな簡単に拒否できなくなっているんだから。


これ以上気持ちを掻き乱してこないでほしい、離れにくくなる。




「あかね、せっかく便箋があるなら、そこにネガティブな気持ちを書き出してごらん?」




そう言って彼はこめかみ辺りに頬を当ててきて、またごりごりと頬擦りする。


いや、だからそれ痛いんだって。


慣れ始めてきている自分がいるけれど。




「あかね聞いてる?」


「耳元で話すなって言ってんでしょ。……書くってなにを」


「あかねが不安に思っている気持ち全部。湧き出してくる感情そのまま全部書いてごらん。何日でも、何時間でもかけて、思いつく限り全部」




突然こいつは何をまた言い始めているんだと思ってユラに目を合わせる。


感情をそのまま全部紙に書けと言う、彼。




「なにそれ、何の為に?」




けれど、それにどういう意図があるのか、私には想像もつかない。


ユラが言うのなら……何かしらの効果はあるのかもしれないけれど。




気持ちを紙に書いて、何になるというのか。


それだけのことで、何が変わるというのか。


変に思い出すようなことをするともっと怖くなったりしないんだろうか?




「案外ね、自分の外側に気持ちを吐き出しちゃった方が頭の中がすっきりして楽になるんだよ」


「……嘘?」


「ほんと。あかね、カウンセリングって何するかわかる?」




また急に、この人は別の話を持ち出してくる……。




カウンセリングは……学校でもスクールカウンセラーさんとかはいたけれど、話したことはほとんどなかった。


何をするのかと言われれば、話しているんだろうとは、思うけれど。


詳しくはわからない。




一応、私とお姉さんの関係も、カウンセリングに近い、気もする……。


それと同じ感じなのだとすれば。




「……話してるとか、相談とか?」


「うん、間違ってはない。なんでそれが医療として使われているのか、考えたことはある?」




カウンセリングが、医療で使われる理由?




そう、例えば私とお姉さんの場合……そんなにたいした話しはしていない。


というか、無言のことすらあった。


けれど、お姉さんは無理に話しを続けることも無く……それを不思議に思いもしていたけれど、変な緊張をすることもなかった。




「……わからないけど、なんか普通の人と違う」




他の人とは違うけれど、うまく言葉に出来ない。


ただ……何を話しても彼女自身の気持ちとして返されることはなく、私がどう感じたかを繰り返すことが多かった気がする。




他の人と比べないで、起きたことを客観視するようにと言われることも、あった。


けれど具体的に、どうしたらいい、こうしたらいいというアドバイスはあまりない。


考え方自体を、受け取り方を、教えてくれているような、そんな感じ……。




「例えば、自分が凄く辛いと思った悩みがあるとして、それを否定されていたら話せなくなっていくよね?」


「……うん」


「でも、カウンセリングしている間は、どんな辛かったことも、自分の汚いと思うことも、話していいんだよ。他の誰にも話せないことを話していいし、否定もされない」




辛かった話も、自分の汚い話も……否定されない?


いや、普通は否定されるようなことだろうと思う。


けれど確かに、お姉さんには、自分の話したことを否定されたことはなかった。




ほんの少しだけ気持ちを見せた時、『あなたはそう考えているのね』って、受け入れられた。


他人の言葉でそう返されると、不思議と『あぁ、私はそう思っているのか』と、すとんと肩の荷が降りた事は、今でも覚えている。




ユラもそうだ、私の気持ちを決して否定しない。


どんなに凶器を振りかざしても、どんなに暴言を吐こうとも、どんなに彼に敵意を向けようとも。


それを丸ごと受け入れられてしまうと、私の中の狂気が、失せていくんだ。




受け入れられてしまうと、それで満足してしまうんだ。




「だから犯罪者に対してや心身症、災害後のケアや依存性まで、幅広く利用されている。もちろん悩みの重さ、軽さも関係ない。人の悩みの重さは、人には測れないからね」




それが、カウンセリングなのだと。


確かに、犯罪者にまでカウンセリングが有効なのだと聞かされてしまうと、そんなレベルの話まで聞いて貰えるのかと、話すことのハードルが下がる、気がする。



軽い悩みでもいい……それは学校にカウンセラーさんがいるように、子供たちの中での些細な悩みでも……いや、悩んでる当人からしたら些細なんかではないのかもしれない。


大人から見て些細だと思うようなことでも、自分の子供時代の頃は大した事だった悩みも、沢山あったはずだ。




どんな人にも年齢も性別も関係なく、大小関係なく、悩むことはある。


仲のいい人には話せないようなこともあるだろう。




けれど、カウンセラーさんは自分に関係する誰でもない、第三者の何も知らない人。


自分を知らない人だからこそ話せることもある。


悩みを話せる人は、悩みごとに立場や関係性でも変わってくるんだ。




「カウンセリングは人対人で話すから、時間や場所を決める必要がある」




ユラはそう言って、私の手の中にある便箋に触れる。




「けれど紙に対しては、時間も場所も自分の自由に決められるし、否定もされず、そこにただ言葉が綴られていく」




そこで、便箋の話に戻って来たらしい。




……確かに手紙は、言葉を話さないけれど。


少し気が引ける部分もある。




「……自分の書いた気持ちが形に残るのは、ちょっと」


「頭の中から吐き出せるなら、書いた紙を処分しちゃってもいいんだよ。捨てるのも燃やすのも。水に溶ける紙に書いてトイレに捨てて文字通り水に流すってのもいいね」




くすくす、彼は綺麗に笑う。


確かにその場合、文字通り気持ちを水に流してしまえる。




「もちろん日付を書いて残しておくのもいい。日記とかね。あかねは1年前の悩みを細かく覚えてる?」


「1年前……っていうと……」




1年前は……クズな男と、まだ関係は持っていたかな、という程度で。


細かくいつどんな悩みをこの頃していたかなんて、覚えてなんかいない。


確かにあの頃も、強く悩んだり不安になったりすることは、あったはずなのに。




「悩みなんて、8割9割、そんなもんだよ。1年どころか1ヶ月前のことですら覚えてなかったりする。そう思うと悩んでいる時間が勿体なくない?」


「無駄な時間を過ごしたと思うのは、なんか嫌……」


「頭の中でぐるぐる悩むから時間が奪われる。それを吐き出して終わるなら、時間の節約になる」


「時間の節約……」




本当にそうなのか?というのは、まだ試していないことだからわからない。


けれど、そんなもんで悩みが消えてしまうものなんだろうか。


それで気持ちが楽になるのなら、試してみたい。


お姉さんからせっかく頂いた便箋と、このペンで。




……たくさん書いたら、元くらい取れるだろうか?




「結構書いたり話したりしているうちに、頭の働きが良くなって解決することもあるしね」


「そんなもんなの?」




悩みってそんなもんなんだろうか。


言葉にすれば、無くなるくらいのものなんだろうか。




「形に残したくないなら、独り言でも、動物や植物に向けてでも、カメラの前で撮っても、形は自分のやりやすい形でいいよ。でも書く方がオススメ」


「なんで?」


「じっくり読み返しながら、言葉を選べるから」




読み返しながら、か。


言われてみれば、話しながらだと言葉にしたものって消えてなくなってしまう。


言葉や表現を間違えたものだって、その時に気付かなければ、その後に確認のしようも無い。




「人に伝えるような感じで、自分のペースで書いていってごらん」




見上げた先、ユラの優しい瞳と、私の視線が交差した。


ユラも、書いたり話したりしていた悩みが、あるんだろうか。


そしたらその当時の……ユラの気持ちとか、なにを考えていたかとか、わかるものが残っていたり、するんだろうか。




日記……か。




「ユラも、それしてたの?」


「今でも書いてるよ」


「ずっと?」


「ずっと。あかねのことも書いてる」


「……それは」




書かないで欲しいような、でもちょっと読んでみたい、ような……。




「二人も書くの?」




私はお姉さんと佐渡さんに視線を移す。


お姉さんは優しく微笑んでいて、佐渡さんは首を傾げていた。




「業務報告って含まれる?」


「そんな日記みたいな業務報告書いてるの?」


「バカとかアホとか多いからさ、けっこー愚痴書いちゃうんだよね」


「それ大丈夫なの?」




仕事として、そんなんでいいんだろうか?


ユラに向けて問いかけると、「外に情報が漏れるよりずっといい」らしい。


私の知らない世界だ、難しそう。


というか、愚痴を書いても怒られないのかな?


すごい組織だな。




「私もね、その……それ、エクスプレッシブライティングとか、筆記開示って言われる手法なんだけどね、書く時間を決めて書いたりしているの」


「……これ名前ついてるの?」




え、なんか書くだけなのに難しい言葉が出てきたんだけど。


書くだけなのにそんな名前付いてるの?


英語?海外でも使われてるってこと?




それをユラが、簡単に説明していたってこと……?




「難しいやり方とかは一旦置いておいて、まずは書く癖を付けていこう。紙が終わったらまた買ってくるからね」


「……とりあえず、その場合、1000円以内のもので、お願い」




そんなユラに真っ先に頭の中に浮かんだことは、金額のことだった。


もう私に高いものを貢がないで欲しい。

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