真相と真意・三

 青蝶に教わった窮奇を元の浩宇に戻す方法。

 それは、窮奇の牙をへし折ること。しかしどの道、窮奇の操る風を一瞬でも止めなければ、近付くことさえ困難だ。

 教えたあと、青蝶は「ほっほ」と笑い声を上げる。袖から転がり出した宝玉を月鈴の目の前でかざしてみせた。


「宝玉を使うがよかろう。それで、きゃつの風は一瞬止まる。その隙に牙をへし折ればよかろうよ」

「……信じていいんだな?」

「対価はしっかりといただくからの。対価がもらえぬのならば、この話はなしじゃ」


 どのみち、体力自慢の空燕ですら、風に阻まれてまともに戦えてはいないのだ。ならば、答えはひとつだ。

 月鈴は彼女から宝玉を受け取ると、それを握った。


「……使わせていただく」

「使えば、それと同時に対価はいただく。それでよかろう」

「わかっている」


 風はだんだん強くなり、屋敷の扉も徐々にミシミシと音を立てはじめた。これ以上放っておいたら、館が壊れる。

 窮奇を後宮に放ったら、既に理性を失っているのだ。いったいどれだけの宮女や宦官が犠牲になるかわかったもんじゃない……そろそろ朝の支度の時間なのだ。外で働きはじめている人々が一斉に犠牲になれば、屍兵にするためにさらわれた宮女たちの比ではなくなってしまう。

 月鈴はもらった宝玉を、そのまま窮奇に投げた。


「風よ止まれ……あなたは、元に戻るべきだ…………!!」


 それは空燕の言うように残酷なことかもしれない。月鈴の行いは傲慢なことかもしれない。使命と天秤にかけるほどの恋を失ったというのに、なおも生きろと、罪を償えということは、むごたらしいことかもしれない。

 だがそれでも、月鈴は納得ができなかった。


(彼を可哀想だと同情するのは簡単だが……それなら、なにも知らずに魂を抜かれた陛下たちは可哀想じゃないのか……! 本当にいただけで魂を抜かれた宮女たちは可哀想じゃないのか……! なりたくてなった訳じゃない屍兵たちは……可哀想じゃないのか……!!)


 情緒が育っていない。そう揶揄される月鈴ではあったが、寺院で修行を積み、出家してきた人々、泊まりに来る商人たちと対話をして、憐憫に対しては人一倍敏感であった。

 だからこそ、彼女は簡単に自分の想いを手放すことができたのだ。


(あなたは同情に値する……故郷を返して欲しいという感情だけは、どんなものも替わりになんてできないだろうから……それでも、私はあなたを心の底から許すことはできない。私の気持ちも一緒に失ってあげるから、あなたは恋を失っても生きていて)


 無色透明の宝玉は、勢いよく風を巻き取っていった。その中に、月鈴の想いも絡め取られていく。やがてそれは、空の青に月の光を弾いた、素晴らしい色へと変わっていった。

 風が、治まる。


「……月鈴、お前さんなにをやったんだ?」

「あなたが対価を支払えないというから、私が支払っただけだ」


 いつもよりも固い口調の月鈴に、一瞬空燕は目を凝視させたが、次の瞬間それらを見届けている青蝶のほうに視線が飛んだ。


「……貴様、月鈴になにをした」

「わらわが相手をしてやってもかまわないが、折角止まった風だ。早いこと牙をへし折らなければ、また風が戻るぞ?」


 そのにこやかな反応に、空燕は「ちっ」と舌打ちしたあと、大きく足を踏み出して、窮奇へと近付いた。


「本当に窮奇の牙を折ればいいんだな!?」

「ああ、それで浩宇は元に戻るはずだ! ……私は彼はやはり、きちんと処罰を受けるべきだと思う」

「そうか」


 それ以上は空燕はなにも言わなかった。

 窮奇は風が止まってもなお、前脚の爪は鋭く、一旦棒で弾いて捌かなければ、爪のひとかきで皮膚が抉れるところであった。


「グワァァァァ!!」

「やはり……獣であったら強いな!」

「私が彼を食い止めるから、あなたはその隙に牙を折って!」

「いや、口に青竜刀を突っ込むよりも、棒のほうがまだ浩宇が無傷で生き残る勝算は高い! 囮は俺がやる!」

「……すまない!!」


 窮奇はなおも嘶き声を上げる。その声で耳がビリビリし、体が痺れたように感じるが、それでも空燕は青竜刀を横にして、必死に窮奇の咆哮と爪を防いでいた。

 窮奇は重いのだろう。その重さで空燕の足下の床が、ミチミチと音を立ててやがて砕け、彼の足を埋めてしまう。

 それに脂汗を滲ませながらも、空燕は必死に受け続けていた。


「月鈴! 今の内に……!」

「わかっている!」


 空燕の青竜刀を構える肩を借り、月鈴は空燕越しに窮奇の口の中に棒を突っ込んだ。

 最初は喉を突き、それに窮奇は「キャンッ!」と悲鳴を上げる。

 そのまま窮奇の腹目掛けて、空燕は青竜刀の柄を使って殴り上げ、大きく持ち上がったところで、月鈴は一気に力を込めて棒を凪いだ。

 牙は固い、根元ががっちりとしていて、抜くこと自体はできない。それを彼女は、全体重を使って棒を操る。棒全体に、彼女の体重分の負荷がかかる。


「いいから……折れろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………!!」


 パキンッ……という音と一緒に、人の指と同じくらいの長さの牙が、へし折れた。


「ギャァァァァァァァァァァァァァァ…………!!」


 その絶叫たるや、今度こそ耳を貫通して体の平衡感覚が失われる錯覚に陥る。

 やがて、館内を暴れ回った窮奇の体がみるみる萎んでいき、毛皮が失われていく。やがて、長い髪の裸体の宦官が姿を現した。それに黙って空燕は、自身の方服の上着を脱ぎ捨て、彼に被せる。


「うううう……どうして、どうして助けたんですか…………」

「お前さんがやったこと、誰も許した訳じゃない。後宮内は混乱に陥っていたし、陛下が昏睡状態になって枕を泣き濡らして暮らしている者が大勢いるからな。だが。それでも兄上はお前さんを許すだろうさ。お前さんの罪は決して許されないが、お前さん自身は許される。あとは、きちんとお縄に付け。裁きを受けろ」


 浩宇は黙りこくって、ただ空燕のかけた上着の裾を掴んでいた。

 一方の月鈴は、自身の持っている宝玉の色を困って眺めていた。


「結局この宝玉は……」

「これこれ。わらわにそれを寄越さぬか」


 青蝶は手に入れた宝玉を見て、コロコロと笑い声を上げた。


「これを手に入れるために、わらわは方士をしているようなものじゃからのう」

「……結局これは? これが窮奇の風すらも吸い取ってしまったが」

「ああ。対価に合わせて発動する宝玉じゃ。命をひとつ対価にするならば、命ひとつ分の願いが叶えられる。ひとつの願いを叶えるために、なにも対価を払わぬというのは、いささか興醒めじゃからのう」


 そう言って青蝶が宝玉を袖に入れたところで、青竜刀の切っ先が彼女の首筋についた。しかし青蝶は動揺ひとつしない。


「……月鈴になにをした?」

「なに、そなたが対価を支払わぬと言うから、そちらから対価をいただいたまでよ。浩宇は晴れて人に戻れた。そなたも大切なものを失わずに済んだ。万々歳であろう?」

「ふざけるな」


 空燕が切って捨てる。


「そもそも貴様が後宮内を荒らし回ったのが全ての発端であろうが」

「おかしなことを申すな? わらわは雇われたことをしたまでよ」

「貴様には方士としての矜持がないのか!?」

「ほっほ……方士は俗世から外れて暮らす身。たまの俗世を面白おかしく暮らして、なにが悪いと?」

「貴様……っっ!」


 とうとう我慢ならなくなった空燕が、彼女の首筋に当てた青竜刀を力任せに振り下ろそうとしたが。


「やめろ空燕」


 月鈴がふたりの間に割り入った。

 青蝶がにやにやと笑う中、空燕は月鈴には滅多に見せない、虫の居所の悪さで眉間に皺を寄せた怒りの形相のまま固まる。


「月鈴……だが、お前さんは大切なものを奪われただろうが。それで浩宇が元に戻り、めでたしめでたしか? 違うだろう」

「違わないだろう。私が望んだのだから。たしかに浩宇は残りの人生、刑罰で終わるかもしれない。ここで殺してやったほうがまだましだったのかもしれない。それでも……私は彼が少しでも償いをせずに死んで終わるのが嫌だったんだ。私のことは気にしないで欲しい」

「……月鈴」


 月鈴からは、時折見せる湿度が一切失われていた。それに空燕は少しだけ視線を彷徨わせたが。ようやく黙って青竜刀を治めた。

 そして館の扉に手をかける。


「兵を呼んでくる。今回の首謀者を引き渡すために」


 そう言って館を出て行った。


****


 月鈴と空燕が、窮奇と化した浩宇と対峙している頃。

 馬車が大きな音を立てて進んでいた。


「急いでください!」

「花妃様、いくらなんでも無茶です!」

「わたくし、静芳に別荘の護衛を任せましたのよ!? 彼女だけにこのような行いを……!」


 妃の身分ともなれば、後宮を出るのは骨が折れるが。

 花妃は仮病を使って「療養のために別荘に行きたい」と、ほぼ強行して山茶花館へと向かっていた。

 山茶花館には陛下たちが眠っている。もしかしたら、泰然以外の陛下が起きるかもしれないし、起きないかもしれない。

 山茶花館の主である秋華はどう思うかもわからないが。

 もし起きない場合は、陛下を愛した妃として共に泣き、出家するしかあるまい。もし起きた場合は、共に喜びたい。

 こうして花妃は、実家から「別荘の護衛が怪我人多数だから増やして欲しい」と手紙を送ってから、馬車を走らせていた次第であった。

 空燕からの助言の通りに、別荘に護衛を送っていたが、やはりというべきか怪我人多数、死傷者多数とさんざんなことになっていた。


「これは……」

「……正規軍の仕業ではありませんね。このような戦い方、訓練を受けたもののやり方ではございません」


 殺された護衛兵の殺され方はおぞましく、花妃も目を伏せそうになったが。もし静芳に頼んでここに援軍を派遣しなければ、自分の陛下もこうなっていたかもしれないと思ったら、ここを守ってくれた兵士にも感謝せねばなるまい。

 花妃は彼らの目を閉じさせていると。


「花妃様……!」


 花妃の送った援軍と一緒に、彼女の一番頼りにしている侍女の静芳が顔を出した。


「静芳……怪我はない? 昨日はひどい有様だったのね」

「私は無事です。秋華様たちも、ここで働く侍女たちも皆無事です」

「そう……陛下たちは?」

「全員、コンコンと眠ってらっしゃいます」

「そう……」


 もし、月鈴と空燕を信じるのならば、今日彼が目を覚ますはずなのだが。

 今すぐに泰然の元に走り寄りたい気持ちを堪えて、花妃は「失礼します」と山茶花館に声をかけた。


「此度の襲撃の無事、誠にお喜び申し上げます。わたくし、泰然陛下の妃の花妃と申します。皆様に差し入れを持って参りましたの」


 そう言うと、ここで働いていた侍女たちは慌てた様子でやってきた。

 全員目に隈ができて、ひどい有様であった。


「なにがありましたの?」

「はい……昨晩の方士襲撃の事件で、生き残った護衛兵の皆さんの手当てをしてらっしゃったので眠れていないんです。交替を申し出たのですが、『山茶花館のことはこちらの管轄ですので』とおっしゃられて……」

「それはそうね……」


 いくら山茶花館が後宮の別荘とは言えども、後宮からは独立した場所だ。後宮のいち妃の侍女が出てきてしまったらいろいろ政治的問題になってしまうのだから、応じることもできないだろう。

 なれども、差し入れに関してはここの主である秋華が許してくれた。


「ありがとうございます花妃様……おかげで皆もやっと食事休憩が取れます」

「いえいえ……しかし護衛兵の負傷が激しいのでしたら、お医者様を呼ばなければいけませんね?」

「医者は既に手配しているのですが、さすがに夜間に呼び出す訳にもいかず……」


 ここは全体的に薬と酒のにおいが漂い、それに加えて昨日の負傷者の血のにおいまでする。その状況で必死に治療に当たっていた侍女たちに、せめてもと花妃は、秋華の許可を取った上で、差し入れを必死で食べている侍女たちに静芳の淹れたお茶を振る舞った。

 医者が来るまでの間だけでも、彼女たちを休憩させられればと、花妃や秋華が気を遣っているときだった。

 ギィー…………という扉が開く音がした。


「……ここは、山茶花館か?」


 痰が絡んだ、通りのよろしくない声だったが。その声を知っている者たちが息を飲む音を立てた。


「へい……か……」


 花妃はポロリと涙を溢した。そのまま彼女は走り寄っていく。

 そこで立っていたのは白い着物の美丈夫であった。空燕とよく似た顔に背丈だが、彼のほうがずっと眠り続けていたせいで、体中の肉が落ちて痩せてしまっている。

 花妃が抱き着いたときも、彼の細さにますます彼女は泣きじゃくるのだ。


「……泣くな。そなたの泣く顔は、あまり見とうない……」

「陛下……あなたが目覚めるのを、お待ち申しておりました……」


 その姿に、どこからかすすり泣きの声が響く。侍女たちのほとんどは泰然に惹かれていたのだから当然だ。

 それをほっとした顔で、羨ましそうな顔で、秋華は眺めていた。


「本当に……よかった」


 彼女の陛下は起きなかったが、既にそのことは方士たちから聞かされていた。

 だが、それでよかったのだ。

 もし陛下たちが一斉に起きれば、国は間違いなく誰が現皇帝かで、国が割れてしまう。秋華たちは既に後宮での争いから一線を引いた身。

 ただ、彼のひと目会いたかった。

 それだけはずっと、秋華の心残りである。

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