後宮なりきり夫婦録

石田空

方術修行の最中に

 雲仙国うんせんこくの後宮。

 皇帝のための箱庭では、妃の元に皇帝のお渡りがあれば、厳粛に待つこととなる。

 先にお渡りがあると通達のあった妃は頬を染めて寝所の支度をしていた。

 やがて、皇帝の来た合図の、小さな鈴の音がちりんと鳴った。


「お待ちしておりました、陛下」


 そう深々と頭を下げた。しかし。

 沈黙が続く。普段であったら、妃にねぎらいの言葉のひとつかける方だというのに、様子がおかしい。


「あのう……陛下?」


 返事はない。

 やがて妃は気付いた。皇帝の目に、光が宿っていないことに。あらぬ方向を見て、おぼつかない足取りで歩き、やがて。寝台に倒れた。

 妃は慌てる。


「陛下? 陛下?」


 思わず妃は声をかけ、彼の肩に触れ、思わず体を跳ねさせる……いくら服を着込んでいるとはいえども、これだけかちこちに固まった体躯なんて触ったことはない。まるで鉄の棒でも仕込んだかのように、体は強張ってしまっている。

 なによりも彼は、視点が全く定まっていない。妃のことすら、見ていないのだ。

 とうとう妃は悲鳴を上げた。


「誰か、誰か来て! 陛下の様子が…………!!」


 本来であれば、妃に皇帝の渡りがあったというのはめでたい話。終始妃の館に厳粛ながらも歓喜の空気が流れるはずなのに、その日は緊迫感で押し潰れる夜となってしまった次第であった。


****


 方術ほうじゅつ修行の寺院が存在している。

 方術とは、方士ほうしの道を究めるために行うもの。体術、錬丹術、気功術……それらを極めれば仙人として天に昇れるとされ、方士たちはそれぞれ厳しい修行を行っていた。


「はあ……!!」


 カンカンカンと音が響いていた。

 長い棒を持ち、ひと組の男女が打ち合っている。

 ひとりは長い髪を乱雑に縛った男であり、方服から覗く腕の太さ、手足の長さで、棒をまるで体の一部のように巧みに操って相手に打ち込んでいた。

 一方は、同じく方服を着込んだ女であった。長い髪は下のほうでひとつにまとめている。背丈は男よりも頭ふたつ分は小さいものの、棒の打ち込み具合には勢いがあり、手足の長さの差をものともせず、互いの打ち合いは拮抗していた。


「なあ……俺に手紙が来ているから、読みに行きたいからそろそろ打ち込みはおしまいにしないか?」

「はあ? 今は修行の時間だ。なに甘えたことを言っている。終わってから読めばいいだろう」


 互いに話しながらの打ち合いだが、打ち込みの速さはちっとも乱れることがない。なによりもこれだけ激しく打ち込めば、髪の一房でも乱れそうなものだが、ふたりとも綺麗な髪型のままだった。しかし、額からも腕からも、汗の玉はポロポロと溢れている。


「そんな意地悪言うな、月鈴げつれい。実家からだからな、あまり無下にできんのだ」

「……空燕くうえん。あなたは捨てられたのではなかったのか?」


 月鈴と呼ばれた女は、少しだけ気遣わしげな声をかける。しかしその割には打ち込みの速さは落ちることがなく、むしろ的確に鳩尾、頭、首を狙うものだから、空燕は苦笑しながらもそれらを躱し続けなければいけなかった。


「俺もそう思っていたさ。しかし……人まで呼んで返事を待っているからなあ」


 そう言って空燕は、月鈴の棒を避けながら、ちらりと背後を指し示した。

 そこに立っていたのは、どう見ても方士志願者とは思えぬような、仕立てのいい服を着た人であった。月鈴が視線を送った途端に、慌てた様子で頭を下げた。

 月鈴が少し困ったように眉を顰めたところで、空燕は彼女の棒を捌ききってから、彼女の喉元打ち込むか打ち込まないかのところで、棒を止めた。月鈴の動きもピタリと止まる。

 勝敗は決したのだが、月鈴は納得のいかない顔で彼を睨んだ。


「今のはなしだ」

「すまんすまん。一度手紙だけ読んだら、すぐに鍛錬に付き合うから」


 そう言いながら、手拭いで汗を拭いてから、空燕は使者らしき者の元まで寄っていった。

 月鈴が空燕を気遣っていたのは他でもない。彼は先代皇帝の息子……本来ならば皇子だったからである。

 よくある話とはいえど、彼の祖父……つまりは母方の父が死に、空燕には後ろ盾がなくなった。後ろ盾のない皇子ほど死にやすいものはなく、結果として皇位継承権を放棄した上で寺院に入れられたのだった。

 既に兄が皇位を継いだために、空燕も方術修行に精を出し、兄が死んだときにでも弔いの言葉を投げられればと思っていたが。

 空燕は使者から差し出された手紙を読み、彼らにひと言ふた言伝えてから、もう一度月鈴の傍に寄っていった。


「月鈴、嫁に来ないか?」

「はあ?」


 気難しい彼女の目が吊り上がったのに、空燕はにこやかに言う。


「私が方術修行しているのは、あなたも知っているだろうが」

「そりゃ知ってるさ。お前さんは俺より才能があるしなあ。体術だったら負ける気はしないが、錬丹術も、方術も、お前さんになかなか勝てた試しがないし」

「それがどうして嫁取りになる? そもそもあなたも私も出家している身だろうが」

「ところがなあ……実家から、還俗してこいと通達があってな」


 それにますますもって月鈴は顔をしかめた。

 皇族の還俗勧告なんて言われたら……そんなもの、次の皇位を継ぐために他ならない。


「……私はあなたの妃にはなれないぞ。おめでとう。心よりあなたの治世がよいことを祈る」

「待て待て待て待て。勝手に俺を皇帝なんかにするな。ちょっと話を聞け」

「それならば、何故私に嫁に来いと?」

「順を追って説明するから、ちょっと待て。このことは今使者に確認したところだ」


 先程なにやら使者に言っていたのを思い出した月鈴は、ようやく黙って空燕を見た。


「それで? 還俗するのに皇位に着かないと言うのは、意味がわからないが」

「……先に、現状の首都の話をしておく。現在、うちの兄上が皇位の座についているが、その前の兄上、更にその前の兄上が立て続けに昏睡状態に陥った」


 本来、皇位は一子相伝である。通例ならば皇帝の子以外には継承権が存在せず、たとえ皇弟であったとしても、継承権は生まれないが、例外として後宮にひとりも子に恵まれなかった場合は、繰り上がりで皇位に着くことがあった。

 空燕の父が死去したあと、兄が皇帝になった……そこまでならいいが、その兄が子を成す前に昏睡状態に陥ったために、急遽次兄が皇位に着くこととなった。

 しかしその不可解な昏睡状態は、長兄だけで終わらなかった。


「長兄、次兄……そしてこの間、とうとう三兄まで昏睡状態に陥ってな。さすがにおかしいってことになったんだが、これだけ代替わりが隙間なく続き、後宮の入れ替えも続いたら、よそに雲仙国が弱っていると知らしめるようなものだ。弱った宮廷が、俺と兄上がよく似ているのをいいことに、俺を影武者として後宮に送って、こうも昏睡状態が続くのか調べてこいと言ってきたんだよ」

「……それは」

「なにぶん、倒れた兄上たちを医者が診たが原因がわからない。となったら後宮になにかがあるんだろうと踏んでも男が立ち入って捜査ができないと来たものだ。それで出家した俺のことを思い出したから、方術使えるんだったら死ぬことはないだろうと話が回ってきたんだ」

「空燕、あなたは方術が下手ではないか……」


 医者では見立てることができないものだとしたら、妖怪変化か呪いの仕業と考えるのは妥当な判断ではあるが。妖怪変化や呪いを祓う術である方術な下手な方士が出かけていったところで、罠だとわかる場所に自らのこのこ出かけるようなものだ。危険が過ぎる。

 空燕は手を合わせた。


「この通りだ、月鈴。一緒に行ってくれないか?」

「……要はあれか。空燕は陛下の影武者として、私は陛下の新しい妃として、後宮に入って、連続昏睡事件を調べろと言うことか?」

「別に俺が方士だから、死にはしないだろうという安直な話じゃないぞ? 俺と兄上は顔の造形が似ているから、もしかしたら兄上を昏睡状態に陥らせた人間が釣れるんじゃないかという話だ」

「それは囮ではないか……」


 月鈴はなにか言いたげに唇をぱくぱくとさせたが、やがてきゅっと結んだ。


「……駄目か?」

「いいえ。わかった。参ろう。弟弟子が死んでは目覚めが悪いしな。ただ、私は妃としての作法は学んだ覚えがない」

「ああ、その辺はこちらが人を出すから、それは任せてくれたまえよ」

「……わかった。師父に話をつけてくる」


 そう言って、月鈴は礼儀正しくお辞儀をしてから、寺院の本院に向かっていった。

 その生真面目な態度に、空燕は苦笑を浮かべたまま、髪を引っ掻いた。


「……本当に頭が硬いな、月鈴は」


 正直、空燕は生まれ育った首都に帰るのは気が進まなかった。後ろ盾のない跡継ぎ争いをしたくはなかったし、昏睡状態の兄たちが助からなかった場合、間違いなく自分に玉座が回ってくる。そんな味方の全くいない首都で玉座が回ってきたところで、死にに行くのと同じだ。

 そもそも方士を還俗させて嫁にするというのは、皇帝的にはよろしくない。信仰を宮廷に持ち込むことは、雲仙国では大変嫌われているからだ。

 月鈴を娶りたくば、方士同士として求婚するしかないのだが、それも難しくなりそうだ。

 早く用事を終わらせて、さっさと寺院に帰りたい。でないと月鈴を娶れない。

 彼女の気持ちを一切無視して、空燕はそう考えていた。それを口にしたら最後、しばらく月鈴が口を利いてくれないだろうから、言わぬが花なのだが。

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