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「ねえ、でも、ちょっと待ってよ」

 フローラはガバッと顔を上げる。

「オリガが変わっちゃったのって、ペギーがいなくなって、すぐ後の話だよね」

 オリガが髪を切り落としたのは、十一月の末だ。でも彼女の誕生日は、十二月の二十六日である。真相を知らされるのは一ヶ月も先の話だったはずなのに、なんで彼女はそれを待たずに、先生たちに反抗するようになったのだろう。

「なんで、ペギーが『卒業』した直後に、オリガは変わってしまったの?」

 オリガは飲み終わったカップを、小灯台の上に置いた。彼女は鍵を持って引き出しを開け、中身をガサゴソやってから、あるものを取り出す。

「……これだよ」

「手紙?」

 白い封筒だった。『オリガへ』とだけ書かれた宛名。その筆跡を見て、フローラは、

「……見ていいの?」

 オリガは頷く。封筒を開け、薄い数枚の便箋を開く。見慣れたペギーの筆跡が罫線の上に走っていた。

「これは?」

「私とペギーの、『秘密の隠し場所』にあったんだ」

 秘密の隠し場所。

 この孤児院の中では、本当に親密な『カップル』の子たちが、他の子たちに隠れて手紙のやりとりをする習慣があるらしい。『らしい』というのは、フローラはそれをウワサでしか知らないからだ。フローラは誰とも親密な『カップル』になったことはなく、当然『秘密の隠し場所』を通しての手紙のやりとりなんて、したことがなかった。

 オリガとペギーが手紙をやりとりしていた。いくらふたりと親しいフローラでさえ、ふたりの手紙の隠し場所は知らない。

 黙って文面に目を落とした。左利き特有の、インクの擦れが多い文字を目で追っていく。


『私の愛するオリガへ

 この手紙を読んでいる頃には多分、私がいなくなった悲しみも癒えていることと思います。もし、まだ私の『卒業 』に傷ついているようであれば、今はまだこの手紙を読まないでくださいね。この手紙はおそらく、今のあなたをもっと傷つけてしまうでしょうから』

 綺麗な言葉、ゆったりとした言い回し。いつものいたずらっぽい雰囲気はなりを潜めていて、手紙の中のペギーはすごく大人みたいだった。ペギーは自分のことを『私』なんて言わない。彼女はいつも自分のことを『あたし』と呼んでいたではないか。

『もしかしたら、あなたはもう十五歳になっていて、イライザ先生から全ての『真実』を聞かされているかもしれませんね。でもそうでないのだとしたら、これから先の文章は読まないか、さもなくば落ち着いた環境で読んでください。誰もいない場所で、いつでも泣いてもいいようなところで。もちろんフローラにも読ませないでくださいね。他の子たち、特にに小さな子たちには絶対に教えてはいけないと、イライザ先生に口を酸っぱくして言われていますから』

 フローラには読ませないで。

 ふたりの秘密にずかずかと踏み込んでいくような罪悪感が、胸を締め上げていく。

 そこには十五歳になったら知らされる『真実』が、克明と書かれていた。自分たちの境遇と運命、でもペギーの筆跡に、それに対する悲壮さは存在していなかった。

『私は全てを忘れさせられて、私のオリジナルの人の『器』にされるのです。私はその『器』が誰なのかを訊きました。本当は教えてはもらえないらしいのだけど、イライザ先生は特別に教えてくれました。

 私のオリジナルの人はマーガレット・リッケンバッカーといって、人格移植に関する技術の第一人者だそうです。私はその人の『人格』を入れる『器』になるのです。学者先生の『人格』なんて、なんだかすごくマジメでカタブツそうで、少し心配。私はその人のクローンだっていうのに、私は勉強だって好きじゃないし』

 マーガレット・リッケンバッカー博士。どこかで聞いたことのある名前だった。オリガがフローラのベッドサイドにあった本を手に取って、

「ほら、これ」

 厚い本の感触が、手にのしかかる。泥水で汚れた表紙、小難しい学術論文。あの日、ペギーが拾い上げてくれた。黒い傘を差して、おばあさんみたいなワンピースを着て、歩きやすそうな靴を履いていたペギーが。腕時計をしていない右手で、拾って手渡してくれた本。

「まさか、この論文の……」

 奥付をめくる。著者、マーガレット・リッケンバッカー。人間の脳から『人格』を取り出してデータ化し、他の生体に移植する手術方法の第一人者。

 オリガは肩をすくめ、盛大にため息をつきながら、

「そうだよ。この論文を書いたクソババアが、ペギーのオリジナルだよ。ペギーはそのマーガレットのクソババアの『人格』を入れるために、十六年も生かされていたってわけ」

 オリジナル。自分たちはクローン。クローンは造られた人間。造られた人間に人権はない。断る権利も、趣味や嗜好を選ぶ権利も、特技も利き手もちょっとしたクセを守る権利も。

「ちなみにね、私のオリジナルは、どっかの資産家のオリガご夫人だってよ」

「え? でも、教えてもらえないって」

「だから、無理やり訊き出したんだ。教えてくれなきゃ他の子たちに秘密をバラすって、イライザ先生のこと、脅して」

 オリガご夫人はロシア系で、ピアノが上手でおしとやかな、長くて美しい髪が自慢の老女だという。

「若い頃は赤みがかったこの金髪を、長い三つ編みにしていたんだと」

 それをオリガは切り落とした。ダフネから借りた裁縫用のハサミで、バッサリと。

「どこのどいつとも分かんない金持ちのババアの延命のために、私は十五年間生かされてきた。髪型を強制されて、毎日毎日、好きでもないピアノを弾かされて」

 オリガの口調は男の子らしさを通り越して、もはや汚いといっても過言ではなかった。フローラはオリジナルのオリガご夫人を知らないけれど、でもオリガご夫人がこんな汚い言葉を使うことは、間違いなくありえない。

「だからね、フローラ。私は真実を知った時、髪を切ったんだ。ピアノを辞めたのだって、スポーツを始めたのだって、ただ抗いたかったから。それだけなんだ」

 真実を、運命を知った時。知らされるはずだった十五歳の誕生日の少し前。ペギーの最後の手紙を読んだ、その日から。

「……私はオリガ。私はそのババアの『器』でもなんでもなく、私はひとりの『人間』だって、そう叫びたかった。……それだけなんだよ」

 そこまで言って、オリガはがっくりと肩を落とした。歯を食いしばって、泣きそうな顔になっているオリガ。思えば彼女が変わってから、フローラは一度もオリガが泣いている姿を見たことがない。

「……続き、読んでいい?」

「……うん」

 乱れた心のまま、フローラは文面の続きを読んだ。

『オリガ。あなたがいてくれたから、私の人生はとても幸せでした。

 特に忘れられないのは、ふたりでこっそり孤児院を抜け出して、花畑へ行った時のことです。何年前だかは分からないけれど、あれは晴れた五月の夕方で、確か日曜日だったと思います。丘には一面のマーガレットが咲き誇っていて、私たちふたりとも、思わず『わあーっ!』って声を上げましたね。

 あの丘を駆けずり回って疲れた後、私たちは見つめ合って、そっとキスをしましたね。私はあなたが『キスしよう』って言ったような気がするんだけど、多分あなたからしたら、私が誘ったことになっているのでしょうね。まあ、どちらでもいいことです。あのマーガレットの花咲く丘でキスしたあの日。あの輝かしい思い出があるから、私は運命を受け入れられるのです。自分自身の全てが消される未来にも、立ち向かっていけるのです』

 目尻が熱くなり、ぼろぼろと雫がこぼれて手紙へと落ちていく。フローラの涙が落ちる前からすでにインクは滲んでいて、それがオリガの涙の痕跡であることに気づき、ますます悲しくなっていく。

『オリガ。私はこれから全てを忘れてしまうけれど、それでもきっと、あなたのことは忘れないわ。もし忘れてしまったとしても、あの時みたいに、あなたがキスをしてくれれば、きっと全てを思い出せる。五月の夕方、日曜日。マーガレットの花咲く丘で、優しいキスをして。そうすれば全てを忘れていても、きっと私は、あなたのことを思い出せるわ。

 オリガ、あなたの残り時間が、素晴らしいものでありますように。そしてどうか真実を知らせなくとも、フローラや他の子たちにも、よろしく伝えてください。

 あなたの最愛の友人、ペギーことマーガレットより』

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