第一話

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 二〇二一年七月二十八日 水曜日

 今日はちょっといろんなことがあって、心も体もお疲れ気味。あんなに雨に打たれたのは、十四年間の人生の中ではじめて! よく『滝のような雨』っていうけれど、ほんとうに滝の下をくぐり抜けたみたい。たぶん、スコールってこんな感じなんだろうな。映画でしか見たことないけど。

 でも雨のことよりも、もっと衝撃的なことがあった。すごく嬉しいことなんだけど、同時にものすごくショッキング。今の気持ちをどう書いていいのか分からない。こんなんじゃ、小説家なんて夢のまた夢。

 頭が混乱しているから、今日はもう寝る。続きはまた。


       ※


 水曜日の午後は近年稀に見る大雨で、まだ三時前だというのに、空はまるで日没間際みたいに薄暗くなっていた。

 バケツをひっくり返したような大雨。時折、空がピカッと白く光り、続いてゴロゴロと地響きのような雷鳴が森の中へと響き渡る。そんな大雨で三時前でバケツで雷な水曜日の午後でも目を覚さないのが、このフローラという十四歳の少女である。

 孤児院の小さな庭の、お気に入りの木陰。寝入る前から空模様は怪しかったし、でもこんなところで寝入ってしまったのは、読んでいた本がとてつもなく難しかったからである。

 マーガレット・リッケンバッカー博士の論文はものすごく難解で、ちっとも親切じゃない。それでも彼女のセンスはなかなか悪くない。フローラがこの本に興味を抱いたのは、装丁がステキだったからだ。わざと古めかしくしてあって、おまけにタイトルには金箔が押してある。中の紙も淡いクリーム色で、紙の一枚一枚が辞書みたいに薄くて手触りがいい。そんな本、他に一冊だって図書室にはなくて、だからこの本を選んだ。読んで難しくて、そして寝た。バケツで滝で大雨の木陰の下で、彼女の集中力は空っぽになった。

「……んん」

 葉から滴った雨水が頬に落ちて、ようやくフローラは目を開いた。重いまぶたをゴシゴシこすると、滝の中のような土砂降りの世界が広がっていた。

「うわっ‼︎」

 お気に入りの木陰は水浸しで、スカートも泥だらけになっていた。こんなになるまで目覚めなかった自分がすごい。木の根元から本を拾い上げる。ページはたわんで、せっかくの綺麗な表紙にも泥がついていた。

 走った。

 土砂降りの滝の中を突っ切る。

 水たまりを踏むたびにバシャバシャと音がして、靴の中に水が入ってくる。水そのものを踏んでいるような不快感に、足が一気に遅くなる。

 本をぎゅっと胸に抱える。吹き付ける雨水で息ができない。空が光る。ゴロゴロと音が響く。風に煽られた木々が不気味にざわめきを立てて、取り込み忘れた誰かのシャツが、遠くに飛ばされていくのが見えた。

 いくら走っても、孤児院の建物は一向に近づいてこない。オリガだってダフネだって、あるいは他の誰かでも、傘を持ってきてくれる気配はひとつもない。

 水が溜まった靴が泥ですべる。

「あっ⁉︎」

 フローラは思い切り転んだ。拍子に本が腕の中からすり抜けて地面に落ちる。膝小僧の皮膚が擦りむけて痛い。ぬかるんだ泥水が、シャツの隙間から下着の方まで入ってきて気持ち悪い。

「痛ったあ……」

 手をついて起き上がる。自分の体と同じだけ傾いた地面と、孤児院の建物。雨で白く煙る視界の中で、その少女はオバケみたいに木の影からこちらを覗いている。黒い傘を差していた。お上品なおばあさんみたいなワンピースを着ていた。綺麗で歩きやすそうな丸い靴が、雨水と跳ねた泥で汚れていた。

「……大丈夫?」

 その人物の影には見覚えがあって、

「う、うん……」

 その人物の声には聞き覚えがあって、

「立てる?」

 その差し出された右手の柔らかさをよく知っていて、

「……ペギー?」

 フローラはようやく、その少女の名前を呼んだ。

 名前を呼んだ瞬間、少女の表情が少しだけ動いた。でも、それ以上は何もなかった。少女はうんともすんとも言わずにフローラを右手だけで引っぱり起こす。左手は傘を持ったままで、腕時計の下から甲に向かって、枝が生えたみたいに刻まれた白い傷跡が、フローラの目に焼き付いた。

 フローラは泥だらけで、激しく雨水に打たれたまま、

「……ペギー、帰ってきたの?」

 一度『卒業』した子が帰ってくるなんて、今まで一度もなかったのに。

「ねえ、ペギー?」

 ペギー。

 そう呼ばれた瞬間、少女の顔はやっぱり歪んだ。悲しそうな怒っているような、とてもイヤそうな顔。フローラが知っているペギーはこんな顔をしない。

 ペギーは右手で本を拾い、そのまま右手で差し出した。

「はい、どうぞ」

「あ、ありがとう」

 ペギーは微笑んでいる。微笑んでいるけれど、口の端に浮かんでいるのは、硬い笑み。

「ケガはない?」

「う、うん。少し擦りむいたけど、大丈夫」

「そう」

 煙る雨水の中、泥だらけのフローラは横目でペギーを見つめる。まるで他人みたいな物言い。他人を相手にしたような振る舞い。彼女らしくない、そっけない態度。フローラは不審に思う。これはペギーのイタズラなんじゃないか。動揺している自分を見て、後でゲラゲラ笑うつもりなんじゃないか。

 ぼんやりしているうちに、隣にいたはずのペギーの影は遠くなっていた。雨が少し弱くなり、厚い雲の隙間から青い空が見えはじめる。孤児院の軒先で傘を畳むペギー。何事もなかったかのように建物の中へと消えていくペギー。雲の中に虹のアーチが見えても、フローラの心はそこになかった。

「ペギー……」

 まるで知らない人みたいだった。

 フローラの知っているペギーなら「ほら、入りなさい」と、傘の隣を譲ってくれるはずなのに。

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