五日目


 我ながら卑しい話で、千蔓のメンタルが安定してきたと見るや、じわじわと脳内がピンク色に染まりつつある。


 こう言っては何だが、タイミングが良かったとも考えられるかもしれない。もしも千蔓が、まだ不安定だった時に昨日の姿になってしまっていたら。私は芽生えた劣情の罪悪感で、まともに彼女と話すことすらできなかっただろうから。


「ねぇねぇ。このクモヒトデってやつとあたし、どっちが可愛い?」


「千蔓」


 ソファの上、並んでテレビの方を向きながら。視界の端に映る灰色の触手が、呼び起こす。


 私の記憶の中から。

 昨日一日をかけても歪なままだった、人間と化け物の中間のような千蔓の姿を。


「んじゃ、あたしとこの……テヅル、モヅル……?となら?」


「千蔓」


 あれは、言ってしまえば未完成な存在だ。人間の千蔓の真似をしようとしている、触手の千蔓。だが、古来より人間はその未完成さにこそ美を見出してきた。知らないけれども。どうせ誰かがどこかで、もっともらしくそんなことを言ったに違いない。


 少なくとも私は、あれでもう一度千蔓に心を奪われてしまった。

 人生通算何度目かは、もう覚えてない。


「……お、このスティギオメデューサなんかは?」


「千蔓」


 灰色一色の透け感のある肌に、凹凸のぼんやりとした顔立ち。何となく鼻のような出っ張りがあって、目や口は気持ち程度に起伏がある程度。表情が殆ど無いという意味ではどこか無機質ですらあり、けれどもそれが千蔓の触手ゆびで構成されていると考えれば、この上なく有機的で生物的なナマモノそのものでもあった。


 千蔓によって形作られた千蔓が、良く知っているはずの、しかし全く未知の千蔓として私の前に姿を現した時。ある種あの瞬間にこそ、私は千蔓が何かとても名状しがたい蠱惑的な存在に生まれ変わったのだと理解した。直観によって。或いは未知に上塗りされた記憶によって。もしくはもっと分かりやすく浅ましい、常ならざる劣情によって。


「そしたら……このアオミノウミウシとなら?」


「千蔓」


 手指だって、語るべくところは大いにある。


 まず以って、ほっそりとしているのだ。触手を束ねて作ったその腕も、ほとんど甲の存在しない、長く先細る五本の指も。そしてそれらは千蔓の意思一つで解け、触手の一本一本へと戻る。その、解け行く瞬間。ヒトモドキとイトコンチャクとの、中間の状態。

 曲がりなりにも人間を模していたシルエットが崩れていき、異形へと変わるその瞬間の。人の腕らしき部位が、しかし同時に、無数の蠢く触手でもあると否応なしに分からされるその瞬間が。堪らなく瞼の裏に焼き付いている。


 例えば。

 握っていた千蔓の手指があのように解けだして、私の指を絡め取ってきたとしたら。指だけでなく、手を、腕を、私の肌の上を這うように進み、包み込んできたとしたら。

 そんな風に考えるだけで、右手に軽く鳥肌が立ってしまう。勿論、不快感からではなく。


 もちろんこれは想像だ。反芻とも言える。

 今、千蔓はすっかり受け入れた糸こんにゃくモードでソファの上に寝そべっていて。その横に座って昨日に想いを馳せる私は、努めていつも通りの、何でもないような表情を作っていて。冷房を弱めに効かせた、キモカワ海洋生物動画が緩く垂れ流される、昼下がりのワンルーム。

 ここにはもう現れないかもしれないと思っていた人間としての千蔓の面影を、もう一度視覚的に享受することができたのだから。


 それが千蔓であるならば、見た目はあまり関係無いけれど。逆に言うとそれは、人間の千蔓にも、触手の千蔓にも、どっちにだって魅力はあるという話で。


 その二つが混ざり合ったあの擬態は、要するに一粒で二度おいしい姿だったというわけだ。


「アトラクラゲ」


「千蔓」


 ここだけの話。

 今朝起きて隣に眠る千蔓を認識した時、少しだけ身体が疼いてしまった。


 千蔓と隣り合って眠ることなんてしょっちゅうで、自分のそれ・・を抑制するのにもすっかり慣れていたはずなのに。

 何度も互いの家に泊まり合っているんだから、全裸とは言わずとも風呂上がりの際どい姿を見たり見られたりすることもある。それでも高ぶりを抑え隠すことなんて、もう慣れ切っていたはずなのに。


 まるで、パートナーのイメチェンでマンネリ化していた性生活に彩りが戻ったかのような……というのは、長期片想い女が口にするにはちょっと気持ち悪い例えかもしれないけれど。


 ……そもそも冷静に考えて、今の千蔓は常に全裸みたいなものなわけで。本人が気にしていないようだから、私も意識しないようにしていたというのに。人の形になられると、服を着ていないということを如実に分からせられる。


 もしかしたら、元より私は糸こんにゃくやイソギンチャクに性的興奮を覚えるタイプだったのか……とも考えた。一瞬だけ。けれどもそうだとしたら、私は今頃こんにゃく職人かダイバー辺りになっていてもおかしくはないはずで。


「イカソーメン」


「千蔓」


 こうやって取り留めもなく話しかけてくる千蔓の存在こそが最重要な要素なのだということくらい、改めて考えるまでもなく分かり切っている。


 もしも千蔓が触手ではなくドラゴンになっていたら、私はドラゴンフェチになってただろうし。冷蔵庫になっていたら、その開いたくちの冷気で身体を火照らせていただろう。


「……ていうかよく考えたら、この身体でも喋ってたら喉乾くの不思議だわ……」


 ――言葉で詮無い妄想が遮られ、卓上のペットボトルを包み込む触手たちに、視線も思考も釘付けになる。

 引き寄せて、傾けて、キャップを開けて。細い触手が幾筋か、飲み口から侵入していくその様子。まるで一緒に引き寄せられたかのように、私の腰が少しだけ反る。

 あんな風に、千蔓の触手うでで優しく抱き抱えられながら。あんな風に、千蔓の触手ゆびがゆっくりと入ってきたとしたら――


「……ん?どした?」


「……ううん。ほんと、不思議だなぁって」


 視線に気付かれた。けれども、この邪な妄想はバレてはいないはず。そう思って、当たり障りのない言葉を返す。伊達に長く幼馴染はやっていない。

 ごく自然に見えるように、顔をゆっくりと正面へと戻して。


「ていうか、なんで深海生物の動画なんか?」


「今聞く?遅くない?」


「……泳がせてたんだよ」


「深海生物だけに?」


「うまい」


「どれくらい?」


「しらたきくらい」


 一ミリも頭を働かせていないやり取りが、部屋の中を僅かに木霊する。テレビには頭が透け透けになっている深海魚が映っていて、流石に千蔓もこれと自分を比較しようとは思わなかったみたいだ。


「大丈夫。千蔓より可愛い深海生物はいないと思うから。安心して」


「いやはや、照れるね」


 深海生物どころか、地球上のどの生物よりも可愛いと思うけれど。宇宙は……流石に分からない。


「でも、スーパーで買い物してる時とか。他の糸こんにゃくに目移りしちゃヤだよ?」


「大丈夫。もう一生糸こんにゃく食べないから」


「重いな」


「そうかなぁ」


 しらたきも食べないしいかそうめんも食べない。千蔓がそう望むなら。


「……逸束さ」


「うん」


「なんか、こう……重くなったよね」


「二回も言わなくったって良くない?」


 照れ隠し、或いは図星を突かれたことを誤魔化すために、唇を尖らせてみた。

 ……私だって自覚はある。触手怪獣イトコンチャクを受け入れられるかどうかとはまた別に、千蔓の心身に起きた影響は、そのまま私の心にも影響を及ぼしているのだから。


「逸束のことだから、変な義理とかじゃないんだろうけどさ」


「流石、幼馴染。分かっていらっしゃる」


 本当に分かっていたら、こんな不思議そうな声は出さないだろうけど。


「もしかしたら、こう、触手フェチなのかなって」


「私も考えたけど、違うと思う。千蔓の触手は好きだけどね」


 明け透けに好きだと言っても何も変わらないのが、今の関係の良い所でもあり悪い所でもある。だからこうして、気負わずに会話ができるんだろう。褒められて嬉しそうに揺らめく糸こんにゃくたちが、より一層可愛らしい。


「……っていうか、それでこんな動画流してたの?」


「うん」


「それはご苦労さま。単純に、幼馴染がこんなことになったら心配するでしょ?それとも何?千蔓はもし私がイトコンチャクになったら、海にでも放流するの?」


「スーパーに返しに行くかもね」


「レシート無いから無理でしょ」


「確かに」


 ふたりでくつくつと笑って、この話はここで終わり。

 理由なんてない。幼馴染なんだから。そんな綺麗なオブラートで、私の片想いも独占欲も劣情も、いつも通り包んで隠すことができた。


 ……と、私は思っていたのだけれども。やはり、否応なしに波及してしまうようだった。私の心に起きた影響は、私の言動を通して、千蔓の心にまで。


 それが分かったのは翌日。千蔓がイトコンチャクになってから六日目のことだった。

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