第6話 じゃれあい 

「あの懐中時計は、いまどこにあるの?」


 別荘にいる間、藤原くんは懐中時計を肌身はなさず持っていて、寝る前にかならずネジを巻いていた。


「別荘に置いてきた。ああいう精密機械は潮に弱いだろうし」


 じゃああのきれいに磨けば金色に輝きだしそうな懐中時計は、二階の和室にあるのか。


「今度、じっくり見せてもらってもいい? ああいうアンティークなもの好きなの」


「えっ? あんな古いのに興味あるのか」


 藤原くんは心底意外そうに言うのが、おかしかった。


「わたしのお母さん、インテリアの仕事してたからアンティークの食器とかコレクションしてたの。わたしも自然とそういうのに興味持つようになっただけ」

「へえ、なんか、なつらしいな」


 どこがどうわたしらしいのかわからなかったけれど、わたしは立ちあがり唯ちゃんのところまで歩いて行った。もういいかげん、お昼を食べる時間だ。


「唯ちゃん、穂香さんがつくってくれたお弁当たべよ。唯ちゃんの好きな玉子のサンドイッチだよ」


 好きなものをちらつかせたら、唯ちゃんをようやくシンデレラ城の建設を中断した。砂だらけの唯ちゃんを海に入れて砂をおとしていると、ふとパラソルの下の藤原くんの姿が目に入った。彼はカバンからスマホを取り出していた。


 懐中時計はおいてきたけれど、スマホは持ってきたようだ。持って来ても時刻を表示しないのだから、役に立たないのに。


 それから、わたしたちはお弁当を食べもう一度海に入ってから、帰路に就いた。浜からあがり134号線を歩いていると、ふともう一度海が見たくなり振り返った。


 傾いた陽光に照らされた青い海と入道雲の沸き立つ空の境界線は、果てなく横にのびている。その境界線にわたしたちが帰る世界があるのではないかと、目を凝らしていると、唯ちゃんに名前を呼ばれ海に背中を向け歩きだした。




 わたしは帰宅すると疲れ果ててしまったのだけれど、唯ちゃんは元気だった。

 五人で席についた夕食の食卓で、唯ちゃんは今日の海での出来事を宗平夫婦に得意げに話していた。


「なっちゃんは、海を知らなかったから、唯がいろいろ教えてあげたんだ」


 わたしは返す言葉もなくうつむいていた。こんなことを言われてはどっちが姉かわからない。わたしが何も言わないものだから、唯ちゃんの口はますます軽くなっていく。


「なっちゃんとあきちゃんがいちゃいちゃしたいだろうから、唯は気をつかってがんばってお城つくってたんだ」


「えっ、あれは気をつかってくれてたの?」


 唯ちゃんは砂のお城づくりに、夢中になっているのだとばかり思っていた。


「そりゃそうだよ。あんな波打ち際で、うまくお城つくれるわけないじゃん」


 幼稚園児に気をつかわせていたとは、露知らず……というか、その気づかいは完全に明後日の方向に向いていたのだけれど。


 ここで誤解だと言えるわけもなく代わりになんて言えばいいんだろうとわたしが考えあぐねていたら、ずっと黙っていた藤原くんが口を出した。


「唯、ありがと。おかげで、めっちゃいちゃいちゃできた」


「ちょっと、その言い方なんかやらしい。別に何もしてなかったし」


「えー、見つめ合ってたでしょー。唯、キスするのかと思って、お外だからやめた方がいいよって、止めたんだよ」


 あのタイミングで唯ちゃんが声をかけたのは、そういう意図があったのか、でも……。


「キ、キスなんかするわけない! 普通に話してただけだよ」


「なっちゃん、照れてるー」


「唯、別に止めなくてよかったのに」


「もう、そういうこと言わないでよ」


 わたしたちの終わりの見えない言い合いは、穂香さんのころころと鈴が鳴るような笑い声で遮られた。


「あなたたち三人は、とっても仲良しね。本当の兄妹みたい」


 他愛のない穂香さんの台詞に、胸がぎゅっと苦しくなる。わたしは唯ちゃんに姉だと名乗れない。だからせめて姉妹のように見えると言ってもらっただけで、この別荘にきてよかったと思った。


 楽しいおしゃべりはつきなかったが、唯ちゃんが目をこすり始めたので、わたしは唯ちゃんといっしょにあわててお風呂に入った。


 お風呂からあがりパジャマを着ると、唯ちゃんは電池が切れたようにコテンと寝てしまった。


 わたしは湯上りに夕食の片づけをすませ、リビングでワインを飲んでいた夫婦に挨拶をした。


 ふたりは、食後にかならずワインをたしなんでいた。そのワインは父のお気に入りの銘柄で、いつも食料品の配達を頼んでいるご主人が持って来てくれると、穂香さんが教えてくれた。


 二階へあがると藤原くんはお風呂に入っていて、部屋にはいなかった。

 室内の灯りは唯ちゃんが寝ているので消され、出窓に置かれたステンドグラスのランプがともっていた。


 ランプのオレンジ色の光は温かみがあるがエアコンの風が冷たすぎて、少しだけ出窓をあけ外の空気を入れる。ぬるい空気と冷気が混ざり合い心地よかった。


 陽が沈むとあんなに青く輝いていた海は、タールのようにまっ黒な物体と化し目の前の風景に横たわっていた。


 星空と夜の海の境目に漁火が、かすかにまたたいている。星のようなあたたかみはなく、酷薄で人工的なまたたきだった。


 ガラス戸がひらき、藤原くんが入ってくる気配がした。振り返ると、タオルを首にかけた濡れ髪の藤原くんがお布団の中の唯ちゃんを見下ろしていた。


「あんなにはしゃいでたから、疲れたんだな」


「そうだね」


 わたしは答えて、ふふっと笑いをもらした。


「わたしも疲れたな。初めて海に行って楽しかったし」


「なつも、はしゃいでたのか」


 藤原くんは唯ちゃんを起こさないように、声をひそ部屋の奥まで歩いてきた。。


「うん、はしゃいでたんだよ。だって、妹と海に行けるなんて夢みたい」


 ずっと一人っ子で父は留守がち、母も仕事をしていた。あまり、友達も多い性格ではなかったので、自然と一人遊びが上手になっていた。


「あの、唯の戸籍のことだけど――」


 藤原くんが腰をおろし、言いにくそうに切り出した。


「姉貴たちが亡くなって、唯は親父の戸籍に養子として入れたんだ。すこしでも、事件から遠ざけようとしたみたいだ」


 殺された夫婦の戸籍に入っているよりも、違う戸籍に入れて夫婦から完全に切り離したかったのだろう。


「じゃあ、戸籍上唯ちゃんはわたしの妹じゃないんだ」


 別にたいしたことじゃない。血はつながっているんだから。でも、少しだけ藤原くんがうらやましかった。


「戸籍の上では、藤原くんが唯ちゃんのお兄さんなんだ」


「まあ、そういうことになる」


 藤原くんはばつが悪いのか、視線を斜め下にさまよわせた。


「わたし、やっぱりひとりぼっちなんだ」


 言うつもりもない戯言が、口からもれた。こんなことが口をついて飛び出したのは、暗い海をみつめているせいだ。何もかも飲み込んでしまうような漆黒の海が、遠く横たわっているから。


「ここから、帰ったら。唯に姉だって名乗ればいい。そして、うちに遊びにきたら……。いや、いっしょに住んでもいい」


 わたしのこぼした愚痴に、ちゃんと向き合ってくれる藤原くんは、いい人だけれど……。


「そんなの、名乗れないよ。わたしが名乗ったら、自ずと父と穂香さんのことがわかっちゃう。小さいころはわからないかもしれないけど、思春期になって自分の親が不倫してたなんて、知りたくない。絶対」



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