第22話

 そんなのおかしい、とは言えなかった。刈谷は適当な理屈を並べてごまかそうとしているわけではない。大人の社会の条理を説いている。


「それに首尾よく辞めさせることができたとして、その後どうやって近付けないようにするのよ。敷地内に侵入してるところを見付けられたら通報だってできるけど、傍でうろちょろすることまでは止められないし、それにこれだけ広いんだもの、入り込む隙ぐらいいくらだってあるわ。いっそあんたが彼の首に縄を掛けてどっかに繋いでおく? やるっていうんなら勝手にどうぞ。私は関わらないわよ」


「……だけど実際に空が危ない目に遭ってるのに」

 かろうじて思い付いたことを口にする。そうだ。たとえ刈谷が万の理を説こうとも、空の身が大切という一事には及ばない。


「じゃあ逢田さんに訊くけど」

「はい」

「あなた和藤さんにレイプされた?」

「ちょっ!」


 余りに露骨な言い様に洋子は飛び上がった。空は目を瞠ったが、さほどショックを受けたというふうではない。意味が分らなかったのかもしれない、と洋子は思った。というかそう思いたかった。


「和藤さんってワトソン博士のことですか?」

 慎重に考えを巡らせているような面持ちで空は問い返す。

「そうよ」

「いいえ。博士はわたしに親切にしてくれたことはあっても、何もひどいことはしていません」


「じゃあされそうになったことは」

「ありません」

「されるかもしれないって危険を感じたことは」

「いいえ」

 全否定だった。それも明らかに刈谷の質問の意味と意図を理解した上で答えている。


「どうしてよ、空」

 洋子は空の前に膝を付いた。肌に小石が喰い込んで痛む。

「どうしてワトソンのことなんか庇うの。まさかあんな奴のことが好きなの!?」


 言った端から後悔した。余りに馬鹿げた質問だ。だってそんなことあるわけない。

 だけどがもし万が一空が認めてしまったら。いったいどうすればいいんだろう。


 何この意味不明な修羅場、と刈谷が呆れたように呟いた。しかし洋子の耳には届いていない。


「うん、好きだよ」

 空はどうということもないように答えた。洋子の顔が泣き出しそうに歪む。空はその手を取ると胸の前に引き寄せた。


「だけど洋子ちゃんの方がもっと大事。わたし言ったよね、もし洋子ちゃんが嫌なら博士とはなるべく一人では会わないようにするし、必要以上に仲良くしたりもしないって。忘れちゃった?」


「……憶えてる」

「それじゃあわたしのことが信じられない?」

 今度は無言で首を振った。正直考えていることはかなり謎だし、予想もつかない行動に出ることも多い空だが、友達に心を偽るような真似はしない。洋子にだってそのぐらいは分る。


「別に庇ってるとかじゃなくて、わたしはただありのままを答えてるだけだよ。だって本当に博士には何もされてないんだから」

「あたしだってそう思いたいけど……見たんだもん。ワトソンがあんたに、その、のしかかってるところ。空は寝てたから覚えてないみたいだけど」


「あれはお兄ちゃんだよ」

「は?」

 思考が空回る。文脈がゲシュタルト崩壊を起こしている。


「お兄ちゃんってワトソンが? 空の?」

「え、違うよ。空のお兄ちゃんは博士だけど、博士は空のお兄ちゃんじゃないよ」

「ごめん、本気で意味分んない……」

 洋子はオーバーヒートしたように空の膝の上に突っ伏した。空は洋子の頭を撫でながら繰り返した。


「だからね、お兄ちゃんは博士なの。だけど博士はお兄ちゃんじゃないの」

「そっかーそうなんだねー」

 情報量は1ミリも増えていなかった。だがもはやどうでもよくなっていた。空の太腿の柔らかさと掌の優しさとに包まれて原始の海へ蕩けていきそうだ。

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