二話⑪

 長い間さまよっていた迷路も抜け出てみれば、ひどくあっけなく、短かったもののように感じる。これまでの出来事を振り返れば、そんな気持ちになってしまった。

 方丈の目的や、しんらんさまの正体など、わからないことも多く残っていたけれど、どうでもいい。そんなことより、ましろだ。主の戻ったその部屋で、俺の胸は様々な思いでいっぱいいっぱいになっていた。

 今までいったい何をしていたのか、心配かけてと怒りをぶつけたい気持ち、それでも無事に帰ってきてよかったと喜び、安心したい気持ちで胸がつまり、苦しいほどだった。

「ましろ……」

 かろうじて、その名前を呼んでみたけれど、言葉はつづかなかった。そう、その顔をまともに見るのだって一カ月ぶりのことなのだ。

「……何?」

 そんな俺とは正反対に、床に視線を落としたまま、ましろはそっけない調子で答える。

「いや……」

 自分だけ気持ちが盛りあがりすぎてしまったことをごまかすため、小さく首を振って、適当な言葉をつづける。

「何か食べたいものとかあるか? 買いに行くけど」

 気持ちをごまかすための、突拍子もない俺の問いかけに、ましろは少しばかり困ったような、また驚いたような顔をした。

 本当はどうしてましろが方丈の元にいったのか、そこで何があったのかを聞きたかった。ましろもそのことを聞かれると思っていたのだろうが、俺の

「……甘いの」

「甘いのって?」

「あんこじゃなくて、シュークリームとか、カスタードのやつ」

「わかった。すぐ買ってくる」

 立ちあがりながら、言葉をつづける。

「あのさ……、いっしょに行くか?」

「ううん」

「そっか」

「あ、……そんなに食べたいわけじゃないから」

「いや、じゃあ、俺だけちょっと自転車で行ってくる」

「…………」

「すぐ戻るけど、ましろさ……」

 うん、とましろは小さくうなずいた。

「待ってるから」

 先ほどから変わらず、ましろは俺の顔を見ることもなかった。こうして目の前で話をしていても、一度も俺たちの目線が合うことはなかった。

「ばあちゃん、俺少し出てくるから」

 コンビニに出かける前、ばあちゃんのいる居間に顔をだした。

「ましろがまたどっか行かないように見ててもらえる?」

 ばあちゃんはテレビを見たまま、返事もしない。ましろが戻ってきたというのに、ばあちゃんは少しもうれしそうにも、ほっとした様子も見せなかった。

「ばあちゃん、聞こえてる?」

「……いなくなっちまえばよかったんじゃ」

 驚きで、俺はその場に立ちすくんでしまった。つぶやかれた言葉にはてらいや皮肉などではない、ばあちゃんの本心がはっきりと込められていた。

「あんだけ大さわぎして、あいつ、男んとこでもおったんか?」

 ばあちゃんにはことの次第をはっきりとは伝えていなかった。

 俺でさえ、今でもどう受け止めればいいのかわからないことばかり起こったのだ。ありのままを伝えても、信じてもらえないに決まっていた。

「あいつも昔からそうじゃ。ましろぐらいん年から、男のとこばっかり転がりこんで、酒は飲むわシンナーやるわで、さんざんに恥かかされた……」

 思い込みの言葉をばあちゃんがつづける。

 あいつ、とは俺たちの母親のことだ。実の娘のことを語っているにもかかわらず、ばあちゃんの目は憎しみにたぎっていた。

「ましろとあいつはそっくりじゃ」

「…………」

「お前らも、あんくずの血、引いとんじゃからな」

 ――じゃあ、あんたがくずの大元になるじゃないか。

 怒りの気持ちが噴き出さないよう、ぐっと口を閉じていた。

「開、高校卒業したら、ましろ連れて必ずこっから出てけよ」

 黙る俺に、ばあちゃんが宣告した。いつかはそう言われるとは思っていたけれど、突然の言葉に激しく動揺してしまう。

「わしは、お前らの面倒なん少しもみとうないんじゃからな」

「……そうかよ」

 それと同時に、頭の奥深くは急激に冷めていく。

 この人とは結局、少しも分かり合えなかった。その失望に、鼻を鳴らし、俺も吐き捨てるように言った。

「じゃあ、そっちも一人で死ねば?」

「ほんに可愛げもねぇガキどもじゃが!」

 その叫び声に背を向け、外に出る。乱暴に自転車の止め具を外し、サドルにまたがった。

「ちくしょう!」

 売り言葉に買い言葉。お互いに言葉をぶつけあっただけのむなしさと憤りを、自転車をこぐペダルに込める。

 まっすぐ矢のように向かってくる夏の光に、こちらからもぶつかるようにして、自転車をこいでいると、あっという間に全身から汗が噴き出した。熱せられた空気が喉を焼き、息もあえぐ。

 ――これから、どうなるんだ。

 ましろが家に帰ってきた。でも、それで何かが解決したわけではない。

 本当の問題は残ったまま。今も変わらず、俺たち兄妹の間には壁があるし、戻ってきたましろもひきこもりをやめて、学校に通えるようになったわけでもない。方丈としんらんさまに救いを求めた気持ちだって、変わってはいないかもしれない。

「あのくそばばあ!」

 これからのことを思うと、焦りと怒りが混じった叫びが喉からほとばしった。

 高校を卒業したあと、どこかにアパートを借りて二人で暮らすにしても、それで生活が成り立つのか?

 俺が大学に進学するという選択肢はそもそも頭にはなかった。かといって、高卒で働くかといえば、それもピンとこない。何ができるとも思えないし、自分が働いている姿もまったく想像できない。いや、働くといっても、そもそも、ましろとの二人暮らしにどれくらいの金――家賃に食費に、その他の生家費――が必要になるのかすらわからない!

 ――結局、俺はガキなんだ。

 くそばばあなどと、悪態をつきながらも、結局、俺はそのくそばばあの庇護のもとにいる。

 俺には金も自由も何もない。その事実に今さらながら、悔しさを覚えてならない。

 今、高校二年の夏から、卒業までは一年以上。アルバイトをして家を出て、生活の金をためるのに、十分な時間なのか、短いのかもわからない。

 俺が高校を卒業するとき、ちょうどいっしょにましろも中学を卒業する。そのとき、ましろがひきこもりから立ち直っているとは楽観的に思えないし、テストや内申の成績、また金銭的にも高校に行けるかすらあやうい。

 もし、このまま、ましろのひきこもりが十年、二十年とつづいたらどうなる?

 想像しただけで、目の前が暗くなるようだった。

 市女先輩に気持ちを打ち明けたときは、少しずつでも状況が改善すればいいと思った。

 けれど、状況が変わるのを待つための時間も限られてしまった。

 ――金があれば、親がきちんといてくれれば……。

 余裕が生まれるのかもしれないけれど、そんなものは望むべくもない。

 今の俺は、ましろに本当のことを言えない。また家から出て行ってしまうことを恐れて、きちんとましろに向き合うことができていない。良くも悪くも、問題を引き延ばしているだけなんじゃないか。

「ただいま……」

 ましろには気どられるわけにはいかない、暗い思いにとらわれたまま、家に戻った。

「おかえり……」

 どこかに行くこともなく、ましろが部屋にいたことに、まずほっとする。

「これ、適当に買ってきた」

「買いすぎじゃない?」

 袋の中身を見たましろが、少し驚いたような顔をした。

「そっか。……うん、俺もそう思ったけど、せっかくだから」

「変なの」

 ましろがくすりと笑った。そのかすかな笑いにほっとしつつも、不安が消えてしまったわけではなかった。

 夜になり、日付け変わっても眠れなかった。寝床で不安を抱えたまま、ただ横になっていると、何ものかが近づいてくる気配を感じた。

 ずり……。

 何度も耳にしてきたあの音が聞こえた瞬間、寝床から飛び起き、ましろの元へと向かった。

「お兄ちゃん……」

 ましろはベッドの上で、夏布団にくるまっていた。暗がりのなかでも、その顔は真っ青になっていることが一目でわかった。

「ましろはここに隠れてろ」

 不安を顔に浮かべたましろを押し入れのなかに隠れさせ、その前に立つ。

「なんだよ、ちくしょう……」

 奥歯をぎゅっと噛みしめる。

 しんらんさまの訪れ。怪異は少しもおわっていなかったのだ。ましろと俺のどちらかを狙ってここに来たのか、それとも両方か。

 蛇は執念深い生き物だという。蛇の半身を持つしんらんさまだって、そんな性格をしていても不思議はない。まさか、方丈の意志に沿って、しんらんさまがやってきたのか……。

 い…くん。

 やめろ。

 ま……ちゃ……。

 やめてくれ。ましろを連れていこうとしないでくれ。

 俺を……、俺を一人にしないでくれ。

 押し入れの前で、叫びだしたくなる声を必死でこらえる。

 耐える夜はひたすらに長かった。しんらんさまが入ってこられないように、窓を閉め、カーテンも閉ざしてしまう。

 空調の風音が聞こえる部屋で、息を殺して、外の様子をうかがう。

 しんらんさまの訪れは、今日にとどまらないかもしれない。それならば、刃物か何かを持って、外に飛び出そう。倒すとまでは言わないけれど、追い払うことぐらいはできないか。そう思いながらも、いざ、対峙するまでの勇気は体にわいてこなかった。

 しんらんさまの呼び声と、あの蛇腹の引きずり音が聞こえなくなったのは、月が白ざめ、そろそろ夜も明けるかというころだった。

「ましろ。……もう、大丈夫だからな」

 その間、もちろん眠ることなどできず、意識はもうろうとしていた。ましろも同じなのだろうか。呼びかけても、押し入れのなかから返事は戻ってこない。

「ましろ?」

 押し入れを開くと、そのなかで、ましろは小さな寝息を立てていた。体を丸めるその姿は、まるで胎児のようだった。

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