二話⑥

 市女先輩と別れ、自宅へと戻る道、その両脇には畑や草ぼうぼうに生える空き地が広がる。夕日もとっくに暮れた今、人家も街灯もない辺りにはすっかり夜が満ちわたり、大通りからだいぶ離れた場所にある道の、後にも先にも人の姿は俺一人だけ。

「…………?」

 夜にまで残った熱気とともに、肌からまとわりついて離れないような暗闇のなかを歩いていると、ふいに背中に気配を感じた。

 誰かいるのか。立ち止まって振り返るも、何の姿も見えない。

 気のせいか……?

 気を取り直し、再び歩き出したところで、またしても何ものかの気配を感じた。その様子からして、犬か狸のような四つ足の獣が俺のあとをついてきているようには思えなかった。

「おい!」

 つい発してしまった大声は、闇のなかにのまれて消えた。自分の足元すらおぼつかないような闇の深い夜。暗い道の奥へじっと目を向けても、何の姿も見つけられはしない。

 ずり……。

 目のかわり、耳で様子をうかがっていると、そんな音が聞こえた。人や動物の足音ではない。何か、そう、長いものを引きずるような音。

 ずり、ずりり……。

 何だろう。考えてみても、音の正体に見当がつかない。惑う間にも、音は近づき、何ものかの気配もより濃く、強く感じはじめる。

「早く帰ろう……」

 自分自身に言い聞かせるようつぶやき、足を早める。

 ずり、ずり、ずりり……。

 すると、先ほどより音の間隔も早くなってついてくる。

 こいつ、俺を追いかけてきているのか?

 誰かがいたずらで、何かを引きずりながら、俺のあとをついてきているとは思えない。

 そう、追いかけてくるのは、もっと別の何かだ。

 まるで、以前、先輩の家からの帰り道で聞いた怪談話のようなことの起こりに、薄ら寒いものが背筋に走る。不気味さから逃れるよう、俺の足は勝手に駆け出していた。背後を振り返ることもせず、ひたすらに足を動かす。

 背後にいる何かはおかしなものだ。その正体を見てしまったら、足が止まってしまう……。

 そう思った瞬間、脳裏にひらめくものがあった。

 ましろがいなくなってすぐ、そう、真夜中に目が覚めてしまったときのことだ。金縛りで体が動けずにいたとき、二階の俺の部屋の窓を叩く音がした。なんとか体を起こして、窓を叩くやつの正体を確かめようとして、それで、それで……。

 それで、どうなったんだ? 

 その先のことが思い出せない。いや、それにしても、どうして、今の今までそのときのことを忘れていたんだ!

 ずりずりずりずり、ずりずりずりずり!

 息を切らして走る俺を追いかけて、そいつもスピードをあげる。

 走る速度をゆるめたり、立ち止まったりしたら、すぐに追いつかれてしまう。いや、こうして全力で走っていても、だんだんとその距離は縮まっているのだ。

 どうする、どうする。このままじゃあ、やばい。 

 焦りのなか、廃屋となった小屋が視界に入った。もとは農具や肥料を入れる倉庫にでも使っていたのか、そのなかに飛び込み、勢いよくドアを閉める。

「何なんだよ……」

 ほこりっぽい空気に、震え声が混じる。そのままドアを手で押さつけえて、その何かが小屋のなかに入ってこれないようにする。

 訳が……、わからない。

 仮に、仮にだ。追いかけてくるやつが、あの夜のやつと同じだとすると、そいつは俺を狙っていることにならないか? 

 でも、いったい、どうして? 何が俺の元にやってきたんだ。

 混乱する間にも音と気配は近づき、そして、小屋の扉の前で、ぴたりと止まった。

「…………」

 息を殺し、外の気配をうかがう。外にいるのは普通の生き物ではない。しかも、音やその気配からして、そうとうに大きな何かだ。

 狭く、暑苦しいはずのぼろ小屋で、俺は血が凍ったかのような寒気を感じた。全身に力を入れていないと、足の震えで、まともに立っていられなくなる。

 この小屋に逃げ込んだのは失敗だったか。これじゃあ、袋のネズミもいいとこだ。いや、だからといって、あのまま走りつづけても、追いつかれていたに決まっている。

 とん……。

 音が聞こえた瞬間、体が大きく震えた。恐怖が声になってもれないように、ぎゅっと口を引き結ぶ。

 とん、とん……。

 あの夜のように、そいつは小屋の戸を叩いてきた。相手の正体も目的もわからないけれど、絶対に応えてはいけない。それだけを強く念じて、ドアを押さえつづける。

 とん、とん、と……。

 しばらくして――といっても、正確な時間を計る余裕なんてない――ノックがやんだ。

 ――あきらめたのか……?

 そう思った瞬間、がたがたがたっと、すさまじい勢いで小屋の戸が揺さぶられる。

「……っ!」

 小屋全体が震えるかのような激しさに、全力でつかみを握り、必死の気持ちでドアを押さえる。

 い……。

 振動音に、そいつの声が混じる。

 ……か。

 鳴き声ではない。言葉だ。あの夜のように、扉の前で、そいつが何かを繰り返し言っている。

 か……ん。

 揺れる小屋の音に混じり、聞き取ることができなかったそいつの声が、だんだんと俺の耳に通りはじめる。

 かい……。

 そいつが呼んでいたのは、俺の名前だった。

 どうして、俺の名前を知っているんだ!

 その事実に慄然としていると、戸をゆする音が止まった。かわりに、あのずりずりという音が聞こえはじめる。戸を開けることをやめ、何かは小屋のまわりをぐるぐるとはいずりだしたのだ。

 全身から力が抜け、そのまま地面に膝をついてしまった、頭を抱え、その場にうずくまっていたとき、

 ――蛇?

 この音を立てているのは長い胴体を持つ蛇じゃないか。ぞんなイメージが頭に浮かぶ。そいつが体をくねらせ、地面を進むときに、ずりずりと這いずる音が出ているんだ……。

 でも、外にいるのが蛇の……、化物のような何かだとして、なぜ、こいつは俺を追ってきた?

 わからない。だって、俺は何もしていないじゃないか。

 ホラー小説や漫画のように、禁忌を犯したわけでもない。いたずらに神仏を穢したわけでもないし、陰惨な事件のあった現場に行ってもいない。

 俺はましろの行方を探していただけだ。おかしなことなんて、何一つも……。

 ――いや。

 思い当たることがあった。夏休み前、市女先輩と交わした言葉を思い出す。

 ――蛇神を使って、人を呪うなんて話もあるしね。

 まさか、というつぶやきが口からもれる。

 ――呪いたい相手の元に蛇を送って災いをもたらすって話。

 また、あの日に聞いた、怪談話の内容が頭にもよぎる。

 ――そのあとも、その家では病気にかかったり、事故に遭ったりした人がたくさん出ちゃったんだっていうんだけどさ。

 フラッシュバックのように、ましろの泣き顔と残されたノート文字が俺の脳裏によみがえる。

 確かに、ましろは俺のことを憎んでいた。

 俺を追いかけてきた正体不明の怪物は、あの怪談話に出てきたものと同じで、俺に災いをもたらそうとしているんじゃないか。

 方法がわからないけれど、ましろが俺への呪いをかけ、こいつが俺の元に現れたのか 俺の名前を知っているのも、ましろのやつが教えたからなのか。

 いったい、どうやって。いや、そんなことあるわけがないだろう!

 それ以上、考えをつづけようとしても、恐怖と混乱で思考の糸はばらばらにまとまらず、意識も遠のきかける。

 こいつの正体なんで、どうでもいいから、とにかく一秒でも早く俺の前から消えてくれ。

 それだけを一心に願い、体を小さく丸めていると、どれくらいの時間が過ぎただろうか、だんだんとあの這いずり音が遠のいていく。

 それが気のせいや俺の願望などではないことを、頭を床からあげ、扉に耳を近づけて確かめる。間違いではない。確かに、音も気配も小屋から離れていく。

 ――助かったのか……。

 そう思いたいけれど、すぐに小屋の外へ逃げ出すことはできない。音がだいぶ小さくなってから、ようやっと深く息を吐きだせた。

 恐怖の源が遠ざかっていくにつれ、安堵とともに、心にあいつの正体を確かめたいという気持ちが生まれていた。

 さっきまで、気を失いそうになるほど怯えさせられ、全身にまだ強い恐怖も残る。

 見るのは怖い。けれども、このままあいつの正体がわからないまま、怯えているよりはマシかもしれない……。

 すべては、俺の妄想なのかもしれない。そう、そうだ、せめて、その後ろ姿だけでも見て、真実を確かめてやろう。

 衝動めいた気持ちのまま、小屋の戸をかすかに開き、息を殺す。そうして、わずかに生まれた隙間に顔を近づけ、目を細める。

「……!」

 喉から出そうになる声をぐっと押し戻した。

 思っていたとおり、その化物は蛇のように長い下半身を持っていた。長いしっぽをくねらせ、ずりずりと音を立てながら、化物は闇の向こうに去っていく。

「えっ……」

 ただ、遠目に見える上半身は人間の……、女のものだった。暗いなかではあるけれど、その背は女性特有の細さと柔らかさを持っているように見えた。

 結局、追いかけてきたものの姿を見ても、自身の身に何が起こっているのか、少しも明らかになることはなかった。

 それどころか、よりいっそうの恐怖と混乱を感じてしまい、いつまでもその場に立ちつくしていた。

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