一話③

「あのさ、浅宮」

 放課後、終業のチャイムと同時に俺は席を立った。特に用もない日、図書館にでも寄って、小説を何冊か借りて帰ろうかと考えているところに、声がかかった。

「何か用?」

 声の主は学級委員の玉森(たまもり)あかりで、見れば、少しばつの悪そうな顔をしている。

「すこーし頼みたいことがあるんじゃけど、ええかなー?」

「俺、図書館行こうと思ってたんだけど、時間かかりそうなこと?」

「あー、いや、方丈(ほうじょう)のところに届けてもらいたいもんがあって……」

「方丈?」

 誰だっけ。すぐには思い出せない名前に、思わず首がかしいだ。

「学校に来てない……」

 そこまで聞いて、ようやっと誰のことか思い当たった。

「不登校の方丈な」

 俺の率直な返しに、玉森が眉を少しひそめた。

 不登校の方丈こと、方丈たまき。

 二年生に進級し、そろそろ一学期もおわろうかというこの時期にも、俺はまだその姿を教室で見ていない。いや、それは俺だけじゃなく、ほかのクラスメイトたちだって同じはずだ。おそらく方丈は、一学期の間、一度も学校に来ていないんじゃないだろうか。

「悪いと思ってるんじゃけど……」

 俺も自分のことで手一杯だから。玉森の依頼に、そう断ろうとしたとき、ふと、ましろの姿が頭によぎった。

「……ま、いいよ」

「ほんとにー?」

 一転、顔をほころばせた玉森から荷物を受け取った。中身はたまった課題の類や玉森のノートのコピーに学校からの連絡物。

「玉森ってさ、毎回方丈のところに荷物届けてるの?」

「そうじゃよ」

「偉いなぁ……」

 玉森っていいやつだ。どうして、こんなにあっさり人にやさしくできるのだろう。学級委員だからって、不登校児の面倒なんてみる必要はないはずだ。

「あがめてもいいんじゃけど?」

 俺の言葉に、玉森は小さい体を大げさにそらしてみせる。その姿がおかしくて、思わず笑ってしまったとき、頬にある古傷がひきつり、傷んだ。

「それ、大丈夫?」

 俺を見て、心配そうなそぶりを見せる玉森。何年も前にできたものなのに、その傷は肌のほかの場所より白く浮きあがり、また生々しさをもって頬を横走る。

「大丈夫だよ。子どものころさ、カッター持って歩いてたら、転んじゃって。それでできただけ」

「ほっとした。……思った以上にまぬけな答えで」

「うるせ」

 本当はそうじゃない。あまり知られたくはない事情だから、適当なつくり話で、自分の過去を深掘りされることを避けた。

「あ、それで、もし、方丈に会えたらなんじゃけど……」

「何か伝えとくことある?」

「いや、ちょっとていうか、浅宮もかなり驚くかもしれないけど、まぁ、そこまで問題はないというか……」

 なんだか歯切れが悪い言葉に少し戸惑いを感じた。その方丈たまきってやつは、見た目に難があるとか、よほど性格が悪いのか?

「まぁ、行くだけ行ってみるわ」

「お願い。居留守とかされたら、荷物だけでも置いてきていいからね」

 方丈の家の場所を聞いて、教室をあとにする。そのまま学校を出て、携帯の地図に目をやりながら、方丈の家を目指して自転車を進める。

「……暑いな」

 少しも行かないうちに、ひとりごとが汗とともに出た。

 朝から予感していたとおり、空高く浮かぶ太陽の光は少しも衰えることはない。午後の三時を過ぎても、照りつけがますます強くなり、目にも肌にも痛い。夏の明るすぎる光は、見渡す限りに広がる畑や、周囲を囲む山々にもまんべんなく降りかかる。

 その光景に、今、自分が暮らす場所がつくづく山近くにあると感じた。

 東京に住んでいたとき、山といえば、よく晴れ、空気の澄んだ日に、遠くからうっすらとその姿を現すものだった。それが今はどこを向いても緑の山肌が目に入り、木々の合間からのぞく影の暗さに、ときどき、はっと目をひきつけられる。

 もちろん、岡山市のような大都会――と、なぜか揶揄を込めて言われるらしい――や、倉敷のように海沿いに面し、重工業が発達した地域もあるけれど、地図で見れば、岡山はその土地のほとんどが山野に埋め尽くされていると言ってもいい。

 山と山の間に挟まれ、陸の孤島のような場所もあるなか、俺の暮らす町は、岡山市に近いこともあってまだ開けてはいる。

 県道や国道沿いには大型のチェーン店やショッピングモールが並び、生活必需品は当然として、雑貨や嗜好品、服などもそれなりに手に入る。

 ただ、そんな町も四方は迫るように山に囲まれて、少し進めば、深い緑が姿を見せる。

 要するに、この町も田舎と言って、少しも間違いはなかった。

「方丈か……」

 自転車のペダルをこぎながら、いまだ顔を見たことすらない方丈と、そしてましろのことに思いをはせる。

 今、この国にはひきこもりが一〇〇人万以上いる――その度合いや調査対象の範囲でかなりのずれが生じるだろうけれど――とも言われている。

 一〇〇万人のひきこもりとはいっても、性別や年齢、家族状況や経歴など、一人一人に固有の事情があり、また調査の程度も異なるから、単純にひとくくりにはできないかもしれない。

 事実、人との付き合いができないだけで、外出などはできるひきこもりがいれば、精神的な疾患も伴い、まったく部屋から出られず、体を洗うことはおろか、排せつすら自室で行うようなひきこもりもいるという。

 ただ何にせよ、数多くのひきこもりたちが自分の部屋のなかで、息をひそめているいう想像が俺を戦慄させた。

 その恐れのままに、俺は自転車を止め、携帯をネットにつないだ。

 一〇〇万ということは、何世帯に一軒の割合でひきこもりを抱える家庭があるのだろう。調べると、日本の世帯数はおおよそ五〇〇〇万あるようだった。

 その数字を一〇〇万で割ると、おおよそ五〇世帯に一人の割合で、ひきこもりがいることになる。

 もちろん独居世帯や、都道府県でもその数にばらつきがあるだろうから、一概には言えないけれど、俺の家の事情を見るに、ひきこもりは都会だけの問題ではない。この田舎町にだって幾人ものひきこもりたちがいるはずだ。

 そのひきこもりたちは、これからどうなるのだろう。今現在は家族がいて、生活の面倒を見てもらえるようなひきこもりたちも、保護者がいなくなったときにはどうするのか……。

 その想像にため息が出た。よくよく考えずとも、大半のひきこもりに待っている未来は明るいものだとはいえない。

 まるで知らない他人ならば、妹がひきこもる俺ですら、そいつらがどうなろうが自分には関係ないと思ってしまう。

 けれども、身内に対して、同じことを言えない。ましろもそうなる前になんとかしなければいけないのに……。

 そんな考えにペダルをこぐ足が重くなったことに加え、道に少し迷ってしまったために、到着には思った以上の時間がかかってしまった。

「ぼろい家だな……」

 方丈は町のすみにある団地――といっても棟数はそれほどではない――の一室に住んでいた。

 建物自体ずいぶん昔に建てられたようで、老朽化が進んでいる。外壁はカビが広がったように黒ずみ、各棟にペイントされた動物や花のイラストの塗装もはげて、無残な姿をさらす。

 近年流行りのリフォームも、修繕もされずにいるその団地は昼でもどこか薄暗く、陰鬱とすら言っていいほどだった。

 周りをさっと見渡してみても、駐車場や共有地の草木も刈られないまま、ぼうぼうと伸び放題に、申し訳程度に置かれたブランコの支柱も赤さびが浮かんでいる。

 ――まるで幽霊でも出てきそうだな。

 そう思った自分を俺は心のなかで戒めた。幽霊なんているわけないし、他人の家をそんなふうに貶めるべきでもない。

 けれども、建物のなかに足を踏み入れると、自分の直感が間違っていないとわかった。

 廊下は暗いだけでなく、日の光が届かないためか、夏なのに、妙にじとっとした空気に満ちている。

 古びているのは建物の外側だけではなかった。内壁や床のいたるところに、水染みや亀裂が浮かび、直されないままでいる。

 人口減少の影響か、建物自体が古くなっているためか、人の気配もあまり感じられないなか、目指す方丈の部屋は三階の角にあった。

「すみません……」

 階段をのぼり、方丈の部屋のドア横に備えつけられたインターホンを押してみても、何の音も鳴らない。壊れているのだろうか、仕方なしに、扉を叩いてみてもやっぱり反応はない。

「同じクラスの浅宮です」

 方丈は出かけているのか、それとも嫌なやつが来たと居留守を決め込んでいるのか。おそらく後者だろうと、俺も荷物だけを玄関前に置いた。

 ここまで来たのだ。少しくらい話をしてみたかったけれど、仕方ない。このまま家に帰ろうと、扉に背を向けたとき、きぃ、とかすれるような音が耳に入った。

 振り返ると、扉がかすかに開き、薄い光と音が部屋からもれだしている。

「おじゃまします……」

 なかに方丈がいるのか。少しのためらいのあと、部屋へと足を踏み入れる。

「方丈さん、いますか……」

 団地の廊下と同様に、室内は薄暗い。部屋数もあり、それなりの広さの家、人の気配は感じられないけれど、その奥から、室内灯のものとは異なる妙に白っぽい光がちらついてくる。

「ましろもやってるやつか、これ」

 光と音は居間に置かれた大きなテレビに映るゲーム画面のそれだった。テレビ台を見ると、方丈の趣味なのだろうか、様々なゲーム機が置かれている。

 光のない部屋には、テレビとゲーム機のほかにほとんど家具はない。置かれているのは数冊の漫画や本、古いCDなどが雑然と並んだ小棚にたんす、そしていくつかの調理家電。

 生活感の薄い部屋のなか、テレビ画面に目を向けていると、背中に妙な気配を感じ、振り返ると、

「わっ!」

 目にしたものから、声をあげて後ずさりをしてしまった。

 居間の隣室で、仏像がのるような蓮座の上に、大きな白い卵がのっていた。

「これ……?」

 もちろん本物の卵ではないことは、一目見てすぐにわかった。

 巨大な卵の模像。

 おそらく木でできた像に、白の塗料が薄く塗られている。縦横の幅はちょうど一メートル半弱、高さはそれより少しあるくらい。

 大の大人でも体を丸めれば、そのなかにすっぽりと入り込めるほどの大きさで、形はスーパーでよく見る鶏の卵よりも先がつぶれ、細長く見える。

 いったい、何のためにこんなものが部屋に置かれているのだろう。

 いや、そもそもこれはなんなんだ。

 目の前にある異物から目も足も離すことができず、そのまま突っ立っていると、突然に卵が上向きに開きはじめた。

 ――玉森が言っていたのは、こういうことか。

 ゆっくりと開いていく卵、そのなかに学校の制服であるセーラー服を身にまとい、白頭巾で顔を隠した少女が膝を抱くようにして座っていた。

「ゲーム、好き?」

 その異様な姿に似合わない問いかけに、俺は手に持っていた荷物を落としてしまった。

「ほ、方丈か……」

 なんなんだ、こいつ。なんで頭巾なんかで、顔を隠しているんだ。状況に混乱しながらも、名前を尋ねると、

「そうだけど」

 と、短く返事をし、方丈が卵の模像から出てくる。そうして、俺の戸惑いを少しも気にすることもない様子で、テレビの前にすとんと腰をおろした。

「やらないの?」

 ゲームのコントローラーを握りながら、そんなことを口にする、方丈の後ろ姿に、俺は妹のましろの姿を重ねてしまった。

「やりたそうに、ゲーム見てなかった?」

 その言葉に引力がこもっているかのように、俺もテレビの前に座り、ゲームのコントローラーを持ってしまった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る