陳思王軼事

仲秋しゃお

(一)偕偕たる士子

  彼の北山にのぼり われ 其の杞を采る

  偕偕かいかいたる士子 朝夕 事に從う

  王事 もろきことし 我が父母を憂えしむ


季珪きけい兄さん、かまわんですか」


徳儒とくじゅか。入りなさい」


「失礼します、―――やあ、おまえもいっしょか」


 戸を開ける音につづいて落ちてきた声に童女は目を上げ、小さな顔をほころばせた。

 迷わず立ち上がり、そのまま駆け寄るかに見えたが、「伯女はくじょ」というおごそかな呼びかけが彼女の足を留めた。元から室内にいた男―――季珪と呼ばれた男が発した声だった。


 年の頃はすでに四十ほどで、兄という称のとおり来訪者よりもいくらか年配だが、座っていても明らかなほどに堂々たる長身の主である。

 正座した膝を覆うほど豊かに蓄えられたあごひげにも増して、ゆったりと整ったその眉目は稀に見る優美さを具えている。


 この面立ちとともにあっては、農夫とみまがうほどに質素な麻の身なりすら、心神の清雅さのあらわれとして茅屋ぼうおくに映えざるを得ないほどだった。

 さらにそうした天性の造形の上に、歳月をかけて自ら培ってきたにちがいない自然な気品と威厳とを、この壮年の男は挙措や声の隅々にまでたたえ、なおかつ意識している風はなかった。


 童女ははっと背筋を正すと来訪者に向き直り、ゆっくりとぎこちなく、その幼齢には不釣り合いなまでに仰々しい礼を捧げた。

 室に入ってきた男は苦笑を噛み殺しながら努めて真摯な面持ちで礼を受け、今度は自分から季珪に向かい年長者への礼を捧げた。


 勧められて一隅に座ると、孟冬の午後の穏やかな日差しがれんじの窓越しに降り注ぎ、その相貌が先ほどよりははっきりと浮かび上がった。


 兄と呼びかけた相手とは対照的に、この来訪者のほうは、立っても座っても隠しようがないほど小づくりな体格であり、肉付きも相応に貧弱である。

 目鼻立ちは難があるというよりは、小さく地味に収まりすぎて人の印象に残る要素がほとんどない、と言えそうだった。


 申し訳程度に生え散るあごひげは好き好んで貧相ぶりを引き立たせているかのようで、たとえ宦官かんがんのともがらと嘲笑されようとも、いっそ全て剃り落としたほうがまだ見られそうでもあった。


 壮年に達してなお陰りが見えないほどの美男と同室しているという不利を差し引いても、大抵の人間の目には「心もとなくてうちのむすめはやれそうにない」と映るに違いない男だった。

 幸いなことに彼もまた人並みに妻帯できたが、血族・姻族問わず身内の大部分からは未だに軽んじられているありさまである。


 が、その表情やまなざしに卑屈さや虚勢じみたものは微塵もなく、むしろ、己を見下げる他者と見下げられる己とを離れたところから常に俯瞰ふかんしているような、奇妙に飄々ひょうひょうとしてこだわりのない趣きがあった。

 童女が彼の顔を見て喜んだ理由も、案外そんなところにあるのかもしれなかった。


「そなたのところは、かきねの補修は済んだのか」


 童女に示すために広げかけていたらしい木簡もっかんを巻きなおしながら、季珪きけい徳儒とくじゅに尋ねた。


「ええ、おおよそは。だいぶ固まりましたよ。あとは戸の泥塗りです」


「段取りが早いな」


「去年の慌ただしい塗りではどうにも冷え込んだものでね、今年こそは時間をかけて厚く塗り重ねんことにはと思って。

 そうそう、墻の土を固めるための木型を新しくこしらえたもんで、古いほうをばらしたんです。

 薪にしてもよかったんだが、平たい板だから伯女の手習い用にいいかと思ったんでね。

 うちはまだ他に字を学ぶ子どもらはおりませんから」


 そう言って彼が背から下ろした籠のなかには、女児の手でつかむのにちょうどよいくらいの幅に切られた細長い木板がいっぱいに詰め込まれていた。

 まだいくらか土のにおいを残してはいるが、表面はきれいに拭き取られてあり、字を書くのにおよそ支障はないなめらかさを見せていた。


 都洛陽らくようにて尚方令しょうほうれいの職にあった蔡倫さいりんという名の宦官かんがんが改良に改良を重ねた紙を皇帝に献上してからいまだ百年を経ない現在、文具としての紙は依然絹に次ぐ高級品であり、この家の蔵書も大半が木簡か竹簡に書かれたものである。

 まして、字を識りそめてまもない童幼の練習用にはそのあたりの木切れか古布でも使うのが当然だった。


 徳儒が「うち」と呼んだのは彼と妻子から成る家庭のことばかりではなく、同じ集落内に寄り添い合って暮らす一族全体のことである。

 伯女と呼ばれたむすめはその称のとおり同世代のうちでは最も年長なので、字を学ぶのも従兄弟たちに先んじているのだった。

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