第4話 β-エンドルフィン

 加古は渋谷のライヴハウスでの小劇団の芝居に慶菜と来ていた。結構過激な演出で、女性が裸になったりするシーンがあったり、本当に水を浴びせたり、常連と思われる客からは称賛の声が上がっていた。特にストーリーはなく、一昔前の不条理劇なのだが、若い世代には新鮮で、加古と慶菜は終始見入っていた。

 観劇後、二人はすでに桜満開の道玄坂途中にある飲食店ビルの中のレストランで夕食を食べた。渋谷にしては安い部類の、若者相手の店である。

慶菜は深いVネックの黒カットソーに太腿丸出しのデニムショートパンツ姿で、加古は目のやり場に困った。女友達と思えばさほどではないが、意識している相手の露出は、若い男にはたまらない。誰も見ていないのに、加古は股間を隠すために脚を組んだりしていた。

 それでも二人は、互いのサークルの話や授業の話、新年度の単位の予定などで盛り上がり、午前0時前までそのレストランにいた。アルコールは3杯ずつ、ただ加古のほうが、ジンライム、ウィスキーロック、ダブルのハイボールと度数の高いものを飲んだ。加古はシーバスリーガル・ミズナラというウィスキーが好きだ。値段的には中級の下くらいだが口に合う。

 アルコールが入ったせいもあってか、慶菜は興味深い話をした。

「高校のとき、同級生で『超ラッキー!きょう電車で痴漢されたの』っていう子や『わたし、いつも痴漢されるようにしてる』なんていう子がいて、そのときは変態としか思えなかったけど、バイオレットピープルのことを知ったら、少し『違う?』と思うようになったわ」

「女子だけの話って聞いた経験ないけど、そういう女の子が実際にいるんだね」

慶菜が脚を組み替えるのさえ気になりながら、加古はある意味感心した。

それからは、やや下ネタ系の話になり、慶菜は含み笑いのような恥じらいを見せて、段々と頬を上気させた。

たかがダブルのハイボールが、どうしてこんなに美味しいのかと、加古は不思議な気分になる。成年になってからのデートはこれが初めてだ。

終電が迫り、二人は店を出て駅へと向かったが、慶菜が立ち止まって、

「ねえ、オールしない?」と言う。

「僕はいいけど、酔ってて大丈夫?」

「うん、わたし、そんなに酔ってないから」

最初はカラオケに行って2時間過ごした。

 〽上野発の夜行列車降りたときから

慶菜は津軽海峡冬景色を熱唱した。

「歌うまいね」加古が本当にそう思って言うと、

「子供の時から、家族でカラオケ行くとね、母が必ずこれを歌うのよ。だから自然に覚えちゃった」と声を出して笑った。

加古はレパートリーが少なく、曲を探すのに手惑い、慶菜が2曲歌って加古が1曲のペースだった。慶菜は突如真顔になって、

「きょう付き合ってくれたのって、いわゆるヤリモク??もしそうだったら、お、こ、と、わ、り」と加古の顔を正面から見た。

「違うよ。去年の夏休み明けから気になっていて、できればクリスマスとかデートできればなあ、って思ったけど、これでも僕は内気だから言えなくて。今年になってからは誰かと付き合ってるのかなって、気になって気になって」ごく正直に告白した。

「だったら、場所変えましょうか」呼吸でもするように滑らかに慶菜が言う。

「え?」

「いいから」加古は驚いて慶菜についていくだけだった。

 お互いに実家ではないので、自由にお泊りができる。加古は正直に財布の中身を言うと「じゃあ貸しておくわよ」

そう慶菜は笑って、加古の手を引いてまで急な坂道の途中の暗がりで背に手を回して、

「少し酔ってるけどその勢いじゃあないの。だ、い、て。鬼太郎くん」

と笑いながら言い、ネオン看板の下へといざなった。見かけによらず大胆だなと加古は思ったが、ギャップ萌えという言葉がある。彼は慶菜を急激に愛おしくなった。

二人とも若いのに久し振りだったので、朝までほとんど寝ないで肌を合わせた。ゴムの追加をフロントに頼むときはさすがに恥ずかしかったが。 翌朝、芳也と慶菜は一緒に混雑した井の頭線に乗った。彼女の住まいは明大前で、そこまでは一緒だ。キャンパスが目黒なので、この沿線住まいの明京大生は多い。急行が発車すると次の停車駅下北沢までぎゅう詰めだ。明大前で一気に入れ替わりがあるのだが、そこまでは仕方ない。下北沢へ着く前に慶菜が変な顔をした。口の形で無音だが「ちかん」と言っている。デニムショートパンツの太腿に何者かの手がある。無理やり慶菜と位置を入れ替わろうとしてはっと気づいた。彼女の薄いマフラーが紫色。男が紫色のシャツ。

「早くマフラーを外して下に」と囁く。同時に男を目で制した。

『これか』と加古は思った。慶菜のマフラーはもちろんたまたまである。だが男はそれを見逃さなかった。異変に気付いた男は身体の向きを変えた。解体間近のバイオレットピープルだが、まだサインは生きている。

「紫色には気を付けて」とまた慶菜の耳元で囁く。慶菜もはっとして、

「サインになってたのね」とそっと言う。電車の音でかき消されるくらいの小声だ。

明大前に着く少し前に、加古は

「もしよかったら日曜日はレンタカーでドライブでもして僕のアパートにも」と言った。

 慶菜は無言で頷いたが、顔は何とも言えない妖艶さに満ちていた。加古は2月の早生まれ、慶菜は6月生まれなのでちょっとだけ年上である。

永福町で各駅に乗り換え、加古は浜田山徒歩8分のアパートに帰って爆睡した。ほぼ徹夜状態だった。『彼女も疲れたろうな』と眠りにつく直前に思いやった。加古より慶菜のほうがちょっとだけ経験は多かった。だが、大学生になってからはお互いに初めての恋愛。  

 こういうとき、本当は女性のほうが疲労は少ない。持久力も女のほうがある。何度でも求めて来る慶菜に加古は『よく身体が持つな』と思ったが、女性は「持つ」のだ。


 捜査本部の動きは緩慢だったが、根気よく事情聴取を繰り返すうちじわじわと進捗の兆しは見えた。ネット検索はもう限界のようだったが、科捜研の資料も全部提出して貰い、三例の事件をまとめて考え、疑わしいと感じた人間は男女を問わず任意で出頭させて事情を聴いていた。

いくつかわかったことは、矢野の言う通り、反バイオレットピープルかつジ・アンダーテイカーという人物が幾人か見つかった。女性もいたが、単に賛同しているだけで、行動を起こしていると思われる女はいなかった。男のほうは、いかつい体格の人物もいたが、プロの格闘家でそこそこ知られているので犯行から除外してよさそうだった。

 MEAの会員でかつジ・アンダーテイカーという人間にも会えた。身分は限りなく怪しいのだが、一応公務員なので厳しく取り調べをするのは躊躇われた。もうひとりは空手家で、男らしい人物。何を聴いてもはきはきと答えるので、疑わしい点がない。その男は三例の事件を知っていた。

「足りない頭で考えましたけど、何人かで役割分担して殺してませんか」と言う。

野津はなるほどそれもあり得ると思い、

「MEAの顧問弁護士が捕まえ、脅す役目の人間を呼び、わざと逃げさせて予定の場所へ追い込み、そこで下手人にバトンタッチとか」

「ええそうですね。飽くまでも想像の範囲ですが」

男は格闘家らしくしげしげと三例の写真と死因などを見て、

「これは壁の手前に追い詰めて、頭部か頸を殴りながら足払いをすると、高い確率でこういう死に方しますよね。通行人役もいたのかな、ここへ行かせるためにね」

男は刑事を立たせて実際に方法を演じて見せた。後ろに受け止める刑事を立たせて、肘打ちと足払いを同時にやった。見事にその刑事は頭から空を切って倒れた。

「これでもごく軽くですよ。本気ならこの2倍以上の力が出ます」

かなり説得力のある方法だった。

 サンテラスジムのメンバーも任意で呼んだ。ハズレが多かったが二人ヒットした。ジ・アンダーテイカーのメンバーである。ただし、

「色川さん?いえ知りませんね」という。他のMEA顧問弁護士のことも「知らない」と即答した。即答というところが逆に引っ掛かるのだが。MEAと彼らの接点がまだ不明だ。 

 メンバーの中に殺人者がいるかも知れないという意見には二人とも同意したが、自分は絶対に違うと言って、サイト内のハンドルネームを言った。確かに穏やかなことだけを書き込んでいる。穏やかと言ってもある種のヘイト的書き込みである。

「王様の耳はロバの耳、ですよ」と言った男は、

「どうしても個人的に許せないことをここで言って欝憤を晴らしているんです」

通常のSNSでは炎上するから闇サイトで書き込むらしい。この男はジェンダーとハラスメントという概念が嫌いだった。確かに、生きにくい世情ではある。

黒猫にゃあこからも自主的に連絡があった。

「一年位前のコメントに『紫色で痴漢OKとかね』っていうのがありました。ハンドルネームは羊監督と言います。それと犯人かも、っていうひとからメッセ貰いましたけど」

野津は驚いて、

「えっ?どういうこと?」

「西武新宿線武蔵関の件は俺も参加した、っていうんです」

「それは誰?ハンドルネームから裏は取れるから」

「よういちろう、です。あの曜日の曜の左が光で、いちは数字、ろうは右が月の」

「わかった、ありがとう。だけどなぜキミにそういうメッセが?」

「にゃあこもわかりません。武蔵関公園は二人目ですよね。にゃあこは通報しないって思ったかも。あんまり頭よくないから。それと、先週YouTubeで犯人捕まるといいなって話したんですよ」

「いやキミは頭悪くないよ。若いころはみんなそんなもんだから大丈夫」

と慰め、礼を言い電話を切ったが、加古のように切れる奴もいる、とは思った。

参加した。つまり複数犯を示唆しているのか?空手家の言う通りだとするとそれを三件行なったことになり、全員逮捕するにはもう警視庁の応援が必須かも知れない。

 色川の裏を洗っている二人からは、

「収入の割に預金が少ない。そして確定申告に多額の寄付金控除を申請してます。表向きはMEAへの寄付ということになってますが、MEAからの資金の流れについては不明です」という報告が上がった。

 科捜研の水野がふらりとやってきて、資料を眺めて考え込んでいる岩田に話しかけた。

「三例とも指紋が出てませんが、梶谷さん以外は雨が降っていないので手袋着用で、下足痕はあまり信用できないし、どうせありふれた靴ですからね。それと、頭部の怪我で死んでいる割にはここに圧迫痕がないんです」

と被害者の首の前面を指した。

「顔にも打撲痕がないので、どうやって倒したかですよね」

「方法としては?」

「うーん。躓いて自分で倒れるか、足払いだけで倒すか。上手に足を払うと、痕跡が残らないですしね」

「梶谷さんの遺体の周りの薬だが」

「篠崎さんが言った通りと報告しましたが、おそらく痛みに襲われて、水なしで服用しようとしていたのかと」

「病人なのに走って雨の中を逃げたからな」

「遺体の特定には役立ちましたが、オーバードーズでもないし、犯人に飲まされようとした痕跡はありません」

「激痛状態で殺されたわけか」

「そういうことになりますね。線維筋痛症って、大きな骨が完全に折れてるのと同じくらいの痛みだそうですよ」


 耀一朗という人物の素性はすぐわかった。個人で占い師をしている60近い男だった。ホームページがあり、浦世麗徑という名前で占いを営んでいるが、奇しくもこの男も線維筋痛症患者だった。住所は岡山県の海沿いの町だ。ただし、1年前には武蔵野市に住んでいたことが判明した。

 野津がホームページの番号に電話するとすぐに出た。

「はい」とだけで名乗らない。まあ詐欺対策か。

「浦世さんですよね」

「はい。転地療法で移住しましたが?」

「東京の三鷹北警察ですが、武蔵関公園の事件に関わったという連絡が」

「ああ、にゃあこさんですよね。公園の夜にエキストラみたいに集合して、決まった場所を2時間歩けば2万円出すという連絡を貰い、歩くだけならと参加しました。15人くらいでしたか、遊歩道を塞ぐように並んでゆっくり歩いてくれと言われまして」

「で、何かを見ましたか」

「いいえ何も。ただ翌日のニュースで、わたしが歩いてる時間帯にあそこでひとが死んだのを知りまして。で、参加した、と言いたくなって」

「雇い主はわかりますか、そのエキストラの」

「普通のエキストラ事務所です。そこに連絡すれば依頼主がわかるのでは?」

「わかりました。先日の梶谷さんとあなたは線維筋痛症患者ですがそれはたまたま?」

「たまたまですが、わたしも梶谷さんも線維筋痛症患者の交流会会員ですね」

「面識はあったんですか」

「一度お会いして話もしました。内緒ですが、エロいことに集中してるときは何か脳内に快楽物質が出て一時的に痛くないですよね、と意見が一致しました」

「ほう、痛みを忘れる。ランナーズハイみたいな」

「ちょっと違うと思いますが凄く似てはいますね。」

梶谷の痴漢癖には理由があったのかも、と野津は思った。少しずつではあるが絡んだ糸が解れつつあった。浦世に匿名なら報道してもいいと確認して電話を切る。

 浦世に聞いた事務所に電話すると、

「その件は覚えていますが、雇い主は書類を見ないと。すぐ折り返しますので」と一旦電話を切る。5分もしないうちに連絡がきた。

「わかりました。個人ですね。色川容子さんという」野津は胸が痛むほどビックリした。

「職業は??」

「それはちょっと。連絡先はわかります」と聞いた番号は知らない携帯のものだった。

 電話を切って野津は動悸を抑えながら考えた。少なくとも、武蔵関の件と立川の件に色川が絡んでいる。目的は痴漢の抹殺?いや弁護士がそんなことをするだろうか。すぐに携帯の番号を調べると、いわゆる飛ばし携帯で何者が使用したかわからない。

色川の過去に何か手掛かりはないのかと気になり、彼女の裏を洗っている二人と会った。

「過去についてはまだあまりわかっていませんが、小学生から一貫教育のお嬢様学校出身です」

「色川の親は?」

「吉祥寺の実家を当たってみましたが、父親はとっくに亡くなっていて、夫人の話の濁し方から言って、自殺のようですね」

「穏やかじゃないね。自殺の原因は?」

「報道されていないのでご婦人の口を割るしかないです」

野津は急いで色川の実家に連絡し、すぐ行くからと約束して署を出た。車でものの10分のところである。

 色川の実家は武蔵野市のど真ん中の、超がつく高級住宅だった。五日市街道の北側すぐ。古いが広い土地に大きい家。いまどき、門から家が10メートル以上離れている家は東京では珍しい。梶谷の「御殿」でさえ百坪弱だ。ここはおそらく二百坪以上ある。大きな、凝った装飾を施された鉄の門扉が開いている。旧家の一人娘か。  

結婚して子供を産んだとしても、色川の跡取りにはならない。厳しい現実だ。夫人が亡くなった後は売却するんだろうな、と思った。色川容子は荻窪の事務所の3階に住んでいる。ひとりでは広すぎるほどであろう。男との交際もいまはないそうだ。

色川実子は68歳。小奇麗な老婦人だ。容子によく似ている。いや逆か、容子が実子に似たのだ。丁重に応接間に通され、ヘルパーらしき女性にお茶を出された。「容子がご迷惑をお掛けしているのですか。わたしも、もうこの歳ですから、あとは静かに余生を送りたいですのよ」

 声も容子と同じ低めの通る声。

「じつはご主人が亡くなった原因を知りたいのですが」

実子は無言で俯いて返事をしない。長い沈黙の後、

「ご察しはついていると思いますが、自ら命を絶ちました。原因は・・・大変お恥ずかしいことで、いままで誰にも、いえ容子以外には話していませんが、電車でねえ・・・痴漢で捕まったのですよ。そんなはずはないと思ったのですが、本人が『冤罪ではない。魔が差した。尻を押し付けられているような気がしてつい』と言ってそれはもう落ち込んでおりました。容子が10歳のときです。幸い裁判沙汰ではなく示談にしたので、国家公務員は続けておりましたが休み勝ちになって・・・ある晩、呼んでも返事がないので寝室へ行くともう亡くなっていて・・・首吊りでした。容子には見せていません。事実を話したのは容子が弁護士になってからです」

 野津は冷静に話す気丈な実子に同情した。容子も最初はさぞかしショックだったろう。痴漢撲滅に血眼になるのも無理はない。痴漢が原因で父親が死んだと聞かされれば男でもそうなる。

「すみません。ありがとうございました。こういう仕事が警察の役割でして、どなたも傷つけないようにしたいのですが、聞きにくい真相もお聞きしないと事件が解決に向かいませんので」と立ち上がり深々と礼をした。

 

 次の日は十文字光の遅ればせながら葬式だった。

頭部も解剖したので小窓のない棺桶だ。死に顔が見えないようになっている。見ないほうがいいだろう。

 喪主である父親に話を聞きたかったが、梶谷の実家は京都市内で、両親とも疲労の色が表れていた。70前後で息子に先立たれ、喪主になるべき妻もいない。十文字光名義の葬儀なので、ファンが百人近く来ていたが、今更泣くひとは少ない。2週間ほどの時間と報道の内容で、ただ単に、惜しいひとが亡くなったという感慨のみである。

 ファンの多くは、十文字の最新刊である紫表紙の本を持っていたが、それがあたかも、十文字が残したサインのように見えてしまう。さやかもひっそりと参列していたので、野津は声を掛けた。

「篠崎さん、よくみえましたね。やはり残念ですか」

「ええまあ、本当に憎くて離婚したわけではありませんし、わたしは別居でもいいと言ったのですが、『それじゃあお前が自由に恋愛できないから』と言われて抜いた籍なので」

「ネットで調べた限りでは線維筋痛症は劇症の前に、単なる病弱のような状態があるひともいるようですね」

「そうですね。梶谷はわたしと知り合う前に罹患していた可能性が高いと思うようになりました」

「それはバイオレットピープルとの関連で?」

「はい。本人も意識できない痛みがあって、バイオレットに参加することで痛みが軽減していたかも知れないと先日思いました」

浦世の発言は匿名で報道されている。さやかも当然目にしているだろう。

 岩田と野津が昼休みにテレビを見ていたとき、ワイドショーにタレント的な存在の女性医師が呼ばれていて、

「β-エンドルフィンという脳内麻薬的なものが関係していて、ランナーズハイやなんかも同じ仕組みなんですよね」と解説していた。司会の男と女子アナは、

「でも痴漢はねえ、ダメですよね」と言い合い、一同の笑いを誘っていた。女医は、

「でも女性の少なくとも1%は痴漢ウェルカムですよ」そこでCMになった。

 一人息子の写真だけが満面の笑みを浮かべている。ミステリー新人賞受賞のときの写真を借りたものだ。

世に出した本は10冊余り。短編集とエッセイ集の1冊ずつを入れてだ。ちょうど脂が乗ってくる時期に急死した。痛いが直接余命には関係のない病だから、無念とも言える。

さやかは両親に無言で深くお辞儀をすると、出棺前に帰った。横顔に涙の跡が見えた。

 両親は複雑な表情で読経を聞いている。死に至る経緯が経緯だけに、哀しみに浸っていられないのだろう。納骨は京都の実家の菩提寺にするらしいが、そのときはもう十文字ではない。梶谷家の墓に静かに眠る。訪れるひとも滅多にはいないに決まっている。

「御殿」はどうするのかと野津は思う。誰か鍵を持っていないのか。そう言えば加古が参列していないのはおかしい。そう野津は思ったが、加古の意識は慶菜に夢中だったのが実際のところだった。


 意外な形で鍵は発見された。

両親と付き添いの光の従妹が訪問した井の頭の家の玄関先で、傘立ての中を従妹が覗き、ラップで厳重に巻いた何かを取り出すと鍵だった。それで玄関はあっけなく開いた。従妹は弓絵と言い、光の母親の妹の子だ。

 父親は冷静に、

「待て。警察立ち合いで中に入ろう。指紋を増やして何か証拠を無くしてしまうかも知れん」

従妹がスマホで三鷹北警察に連絡した。野津は斎場からの帰りでまだ不在。岩田が出た。

「鍵があったんですね」

岩田は安堵した。驚きよりもそっちだった。自宅内の捜索で手掛かりがあるのではと、そろそろ両親の許可を得て、職人に開けて貰おうと思っていたところだ。鍵を壊して開けると、目先は施錠ができなくなるから、合鍵の発見は有難い。

遅めの昼食中だったが、そそくさと署を出て梶谷宅に向かう。もちろん鑑識にも声を掛けて、同時に移動する。

 その頃、野津は甲州街道の渋滞に巻き込まれていた。この街道は常に渋滞するのだが、事故でもあったらしく、全然前に進まない。警察車両だが、権利を発動するような事由はなく、耐えるしかない。道路に小雨が降り出した。

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