17

「旦那様!」

「あら、トーマスじゃない、ここは男子禁制じゃなくて? 何しに来たの?」


 冷ややかにトーマスを見据えるアーシェル夫人だがトーマスは全く怯まない。


「今日のお茶はあなたもご存知の通り、我が商会が用意しましたからね。皆様の反応を伺おうかと。伯爵夫人にも話は通してありますよ」


 そう言って、トーマスが伯爵夫人の方へ視線をやると、彼女は無言でうなずき肯定する。


「それよりもアーシェル夫人? 何があったのかは知りませんが言葉が過ぎるのでは? 私に対する悪口ならまだしもシンシアを侮辱することはたとえあなたが子爵夫人であれ許しません。あなたがその爵位を盾にするなら、私は私の持てる全ての力で攻撃することになりますよ」


 そう話すトーマスの瞳は確かに怒りを称え、並大抵の人ならその常とは違う雰囲気に当てられるに違いないが、アーシェル夫人は違った。トーマスの脅しにも全く怯まず、むしろその瞳を正面から見返す。


「あら、トーマスのくせに、妻を侮辱することは許さない、だなんて笑わせるわね。この女心の分からない朴念仁が」


 そう言うと、彼女は急に突然の夫の登場に固まっていたシンシアを見据える。


「そうね、でも確かにシンシアさんには言いすぎたかも知れないわ。あなた自身は悪くないもの、ごめんなさいね。謝るついでに良いことを教えてあげる」


 そう言うと、自分を見据えるトーマスの瞳と、突然の謝罪に訳が分からない、という顔をするシンシアを交互に見る。そして彼女は驚きの言葉を言った。


「トーマスと私は婚約者だったのよ」


 その言葉に一瞬その場はまるで時間が止まったようになる。どうやらこの場にいる多くの人々も知らないことだったのだろう。ざわめきが走り。シンシアは驚きのあまりまた固まる。衝撃から立ち直り、シンシアがトーマスの方を見ると彼は、苦々しい顔をしていた。


「そう……なのですか、旦那様?」


 シンシアの問いに答えはせず、しかし頷くトーマスにシンシアはそれが事実だと知る。そんな夫妻の様子をアーシェル夫人は勝ち誇ったように眺める。


「あら、社交界では信頼で結ばれた夫婦ですって様子だったのに、トーマスったらまだ話してなかったの。それは奥様もショックよね。良いわ、せっかくだし全部話してあげる」

「何を話す気だ!」

「それは私達の過去についてよ。私はもともとお茶を中心に東方貿易をしている歴史ある商家の生まれでね、男爵だけど爵位も持っていた。私が物心ついた頃にはもう商売は傾き始めていたけどそれでも社交界では一定の地位を持っていたわ。それでね、そういう古い家名を欲しがる商家は多いと踏んだお父様がブラッドリー家との縁談を持ってきたの、お父様は2代目のブラッドリーさんと仲が良くてね」


 そこまで話して、一旦彼女はブラッドリー夫妻を見回す。


「トーマスは見た目は良いけど、まあシンシアさんもご存知よね。朴念仁で女心の分からない男だったわ。それでも私は婚約者と仲を深めるのが没落しかけている我が家を救う、と信じて手紙を書いたり、トーマスが長期休暇のときにはお屋敷を訪問したりしてトーマスと仲良くなろうとしたわ。結局どれも私の空回りだったみたいだけどね」


 そう言うと、二人を交互に見ていた瞳がシンシア一人の瞳を移す。そしてニヤリと唇の端を上げるとこう続ける。


「それでも彼が大学を卒業したら結婚して、二人でブラッドリーをもり立てていくと私は信じていた。なのに、なのによ、トーマスは先代が事故で亡くなった途端私を捨てたの。この婚約は父が決めたことだからって、そのお父上が亡くなった途端、婚約を反故にしたのよ」

「いや、待て」

「嘘ですわ!」


 アーシェル夫人の言葉を遮ろうとするトーマスだが、その声をさらにシンシアの悲痛な声が遮る。その様子に一瞬固まるアーシェル夫人に冷静さを取り戻したシンシアが続ける。


「いえ、嘘というのは夫人に失礼かも知れません。しかしきっとそれは誤解だと思います。確かに旦那様は女心に疎いところがあるかも知れませんし、恋人としては不満を持つ人もいるかも知れません……」


 その言葉にトーマスは何を思い出したのか顔を歪め、それを見たアデルは苦笑しつつ、シンシアの言葉の続きを待つ。


「でも、旦那様はお義父様の決めた約束をいきなり反故にしたり、婚約者を突然捨てるような方ではありません! まだ私は旦那様と少ししか一緒に過ごしていませんが、それはわかります。旦那様はそんな薄情な方ではありませんわ」


 突然言い返してきたシンシアに唖然とするアーシェル夫人。一方トーマスはシンシアが自分をかばってくれていることに気付いて、ようやく我に帰り、そして今度は自分がシンシアを庇うように、アーシェル夫人の視線を遮るようにシンシアの前に出る。


「確かに私は夫として、婚約者として、恋人として、褒められた男ではないかも知れない。それであなたにつらい思いをさせたのかも知れない。でもそれはあなたがシンシアを貶める理由にはならないのでは?」


 その瞳は先程のアーシェル夫人の暴露にうろたえていた時の歪んだものではなく、まっすぐに彼女を見つめ、そして大切な取引をする時のように冷静でいて熱を称えていた。


「私に対する不満、誹りであればいくらでも甘んじて受けよう。しかしそれが妻に向うのであれば話は別だ。私はブラッドリーの力を使ってでも、社交界の力を使ってでも、あなたのことを許さない!」


 その言葉に今度はその場にいる人々が息を呑む。それほどに怒りを湛えたトーマスの言葉には迫力がある。そしてそれは、王国の経済の一端を担い、王族ですら無下にはできないブラッドリー家が敵となる、という宣言であった。


「何よ、何をする気?」


 それでもトーマスの瞳に果敢に視線をぶつける夫人だったが彼等の間にもう一人の男の声が入ってきた。


「エリー? 何をしているんだ?」


 年相応に落ち着きつつも焦りを隠せない声音で妻に詰め寄るのは、アーシェル子爵。ティールームで妻が騒動を起こしていると知らされ慌ててやってきたらしい。そんな彼にトーマスが声をかける。


「ちょうど良いところにアーシェル子爵。奥様が私の妻を公に侮辱されたので、私は夫人を許さない、とお話していたところです。以前から、御夫人のことについてはお話させていただいておりましたが、改善されず、これは子爵も黙認のことと認識してよろしいですか?」


 トーマスの冷ややかな声に本気の怒りを感じ更に焦る子爵。確かにブラッドリー家からアーシェル子爵夫人が社交界で繰り返し妻を貶めるような発言をしていると抗議を受け取ってはいた。しかし、妻のほうが圧倒的に強いアーシェル家では、彼はどうすることもできず、またいつものようにいつの間にか気が済んで、やめるだろうと高を括っていたのだ。それが、ついに大事にしてしまうとは。それでも末端であれ貴族の誇りを持って、子爵は冷静にトーマスに対峙する。


「妻がお二方を侮辱したこと、これまでの非礼も含めお詫びいたします。何分妻は少々自制の効かない性分で苛立ちに身を任せてしまうこともしばしば。改めて私が監督いたしますので今日はお納めくださいませんでしょうか」


 しかし、とにかくこの場をなんとか納めようする子爵だが、トーマスは引かない。それに対し彼は更に言葉を続ける。


「その、あれです。トーマス様と妻は以前婚約関係だったとか、それもあまり上手く行ってなかったとか、もしかするとそれで妻も思うところがあったのかも知れません。エリー? どうして君はこうもブラッドリー家を目の仇にするんだ? もし特別な事情があるなら教えて欲しい。場合によってはトーマス様も情けをかけてくださるかも知れない」


 情け、その言葉にアーシェル夫人は冗談じゃない! とばかりに声を上げる。


「全部、全部そのレイクトンの娘が悪いのよ。本当は私がその立場にいたはずなのよ。我が家も没落寸前、いつ庶民に落ちてもおかしくない家だった。だから私はなんとかして未来のある家に嫁ごうと必死だったのよ。たとえトーマスにそっぽを向かれようと仲を深めようとした。でもあんなことがあったから」

「私の両親の事故だな」


 そこでトーマスが口を挟む。その言葉に唇を噛むと、夫人は更に続けた。


「まさか、まだ学生の青年が大店を率いることが出来るなんて思わないじゃない。だから私は手を引いたのよ。父も私の行動に賛成したわ。でも現実は違った。人々はブラッドリーを支え、商会はますます大きくなった。彼を支えた人の中にはレイクトンの当主もいたわ。そして彼女はその恩もあってかまんまとライセルを代表する商会の妻となってお澄まししているの。私はどうか? 父が将来を見込んで支援したアーシェル商会は落ちる一方よ。不公平だわ」


 確かにアーシェル子爵が当主を務めるアーシェル商会は東方貿易を行う商会としては規模を縮小しつつあった。投機的な部分も少なくない遠い国との貿易は難しいのだ。しかしアーシェル夫人の話す理由は逆恨みも良いところで同情する余地もない。周囲の女性陣も眉をひそめる中、声を上げたのはシンシアだった。


「あの、旦那様」

「どうした? シンシア」

「その……私はこういった駆け引きは疎く、それこそ温室育ちの恵まれた身です。ですがアーシェル夫人の怒りはわかるのです。我が家も一歩間違えば家がまるごとこけてももおかしくない状況でした。そんな中でわたくし達のような娘が出来ることと言えば、より良い家の妻となり援助を取り付けるだけ。勿論ホールトン様のように自ら家をもり立てる存在に憧れはありますが、そんな才気も度胸もありません。だから、このどうしようもない状況に苛立つ気持ちも、私のことを疎ましく思う気持ちも分かるのです。ですからどうか、私はアーシェル夫人がこれ以上私達を困らせなければ、それで良いので、どうか穏便に済ませていただけませんか」


 まさかの一番言いたい放題言われていたはずのシンシアの言葉に女性達はざわめき、アーシェル夫人は苦々しい顔をする。そしてトーマスはそんな妻の瞳を見つめると。


「だ、そうです。私としても皆様に楯突くのはできれば避けたいのも事実。ですので、ここは穏便に済ませることにします。今回のことについて私からなにかする、ということはいたしません。しかし、許しもしません。ここにいる皆様にも特に何も求めません。今回のことは胸のうちに収めていただいて結構です。これでいかがでしょうか」


 あまりの早い展開に唖然としていた子爵だが、自分に問いかけられたことで我に返ると、困惑しつつも頭を下げる。


「寛大な言葉に感謝いたします」


 それだけ言うと、妻を連れて足早に部屋を後にする。それから止まっていたときが動き出したかのようにティールームには話し声が戻りだす。トーマスは何も言わず、ただ心配そうにシンシアの髪を撫で、腰を抱いて、伯爵夫人にドレスの着替えと、着替えるための部屋を用意してくれないか頼んでいる。


 そうして、すぐに用意されたドレスに着替えるため、伯爵家の使用人と共に部屋を後にしつつ、シンシアの脳裏に浮かぶのは、絶望したようなアーシェル子爵夫妻の顔だった。


 確かにトーマスは積極的に彼等を攻撃はしなかったが、かといって本当に穏便に済ませた訳でもないことは彼女にも分かる。自分は彼等のことを許さないといった上で、この場にいる人々にも積極的にこの場でのことをなかったことにするよう求めていないのだから。貴族のアーシェル子爵家と庶民のブラッドリー家、しかし力では圧倒的な差がある両家のどちらに着くのが良いかは簡単だ。


 でもこれが、社交界。シンシアは自分が嫁いだ世界の厳しさに改めて、思いを巡らせるのだった。

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