2-8.大切にしたい人

「少し歩かない?」というユカの提案からふたりは荒川に沿って歩いていた。


 ふたりの間に会話はなく、もう10分以上も無言のまま、足を前に出してふらふらとしているだけだ。

 ユカは、ヨルが話し始めるのを待っているように見える。

 唐突に、ヨルが口を開いた。


「あの人は、食事や生活を管理されて、自分の生き死にすら管理されて、長いことあの牢獄のなかで暮らすんだろうな」

「憎い?」

「……別に、そういうんじゃないです。ただ、あの人と繋がりがあるっていうことが、なんとなく気持ちが悪かったってだけです」

「そっか」と優しくユカは言った。

「そういうのもあるよね」


 母親に対しては、言った通り、憎しみも恨みもない。

 まして家族愛や絆と呼べるようなものを持っていたわけでもない。

 簡単に言い表せない複雑な感情だ。

 ただ、それでも母親が自分のせいで苦しんでいるという事実を解消し、少しでも救いになれたことは嬉しかった。

 ユカはそれ以上何も話さない。ヨルもまた起こった出来事を整理していて、無言だ。


「……よかったです」

 長い沈黙を破ったのは、ヨルの口から自然と出た、母親のことを思う言葉だった。

「あの人の気持ちは今でもわからないしわかりたくもない。けど、父親に離れられて狂っていって、妹を殺して、俺を殺そうとして、それでも死にきれなかったあの人は、これでやっと幸せになれる」

 ヨルは平坦な感情のまま言葉を連ねる。

「俺がいなくなったことで少しは罪の意識から解放される。やってしまったことは許されないことだけれど、あの人はこれから先幸せになれる可能性をたくさん秘めている」

 ヨルは前を向いた。瞳には夕陽が反射している。


「……ヨルくんは優しいんだね」

「そうですか?」

「うん。そうやって誰かのことを思って心を動かすことができる人は優しい証拠だよ。それに、忘却のおまじないをしたのもお母さんのためなんでしょ?」

「そう……ですね」

 思い返してみると初めて気づく。おまじないをしたのは自分のためでなく、母親のことを思ってのことだったのだと。


「利己的な私とは、違うもの」

 小声の呟きはヨルには届かなかった。

 ユカはそれを伝える代わりに、別の言葉を用意する。

「いなければよかったなんて言われたら、ふつう傷つくよ。それでもヨルくんはお母さんのことを思って、幸せを願うことができる。充分、優しい人だよ」

 ヨルに寄り添ったその言葉は、心を優しく包んでくれる。

「ありがとうございます」

 ユカのまっすぐな言葉が、かすかに胸に残っていた罪の意識を和らげた。


 ユカの言葉ひとつひとつがヨルを認めてくれる。

 何も言わずに隣を歩いてくれる。

 それだけで幸せだった。

 だからこそ、この人を大切にしたいと思った。

 たとえこの生活が終わりになっても、この気持ちだけは絶対に忘れないだろうと思った。


「あ、ほら、見て見て。虹!」

 ユカは空を差し、顔を上にあげた。

「きれいだねえ」

 青空も虹もとても綺麗だった。

 前を歩いて空を指すユカが愛おしく思えた。

「今日はありがとうございました」

「いえいえ、お互い様です」


「本当にユカさんには感謝してもしきれないです。居場所を与えてくれて、暖かい言葉をかけてくれて、コーヒーのことを教えてくれた」

「そんなこと誰だってできるよ」

「誰だってできることじゃないですよ。おまじないのことも教えてくれましたし。……それに、俺は今まで、持っている人みんなを妬んだり、憎んだりしてばかりいて、何も見えてなかった。そんな苦しい生き方をしていた。だから、気づく為の余裕をくれたユカさんには本当に感謝してるんです」

「……そっか」

 ひとつ、ユカは呟いた。


「……ヨルくんは、もう私とは違うんだね」

 小声のそれはヨルには届かなかった。

「何か言いました?」

「ううん。なにも」

 ユカはヨルの前を歩いた。

「次はユカさんの番ですね」

「うん。そうだね」

 二人は雨に濡れた道を並んで歩いた。

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