2-6.忘却

 黒い折り畳み傘を手に、ヨルはマンションの屋上に立った。


 折り畳み傘はユカから借りたものだ。

 あとから遅れてユカも屋上にやってきた。


「ここなら誰にも見られないし、見えたとしても声は聞こえないし、何をしてるかまでは分からないから。絶好の場所でしょ?」

「何かあったら危険ですけどね」

「何もないと思うよ。ここに入れるのを知ってるの、私だけだと思うし」

「だからこれはふたりだけの秘密」

 ユカは人差し指を口にあて、しーっとした。

 ヨルも、別に他言するつもりなんかない。はいはい。と適当に受け流した。


「今日晴れ予報でしたよね」

「そうだね、晴れ予報だった」

 でも大丈夫、とユカは言う。

「雨、降るから」

 そして、またしてもユカは予言めいたことを言った。

「……?」

 空には雲ひとつない。けれど、ユカの言葉通りに暗い雲が徐々に集まってくる。


 それはすぐだった。

 ヨルの頬に水滴があたった。

 ひとつ、ふたつ。それは徐々に勢いを増し、雨へと変わっていった。

「なんで、わかったんですか?」

「なんとなく」

 ユカは薄く微笑んだ。

 そして「『忘却のおまじない』をおさらいしよう」と言った。

 

 条件は5つ。

 ① 術者のいる地域で雨が降っていること。

 ② 傘をさしながら[私の記憶を雨によって洗い流してください]と三度唱え、忘れてほしい人のことを強く考えること。

 ③ 雨が止んだときに傘を畳むこと。

 ④ おまじない実行中は忘れられたい人に見られたり、それを悟られないこと。

 ⑤ おまじない実行後は、忘れられたい人と一日会わないこと。 

 

 このおまじないをするだけで、人から自分に関する記憶の一切が消えるのだと言う。

 そして、おまじないを行えるのは一年に一度きり。

 期間は中秋の名月から15日の間。

 つまり、中秋の名月が来てから次の新月が来るまでの間に行うおまじないだ。


「雨が止む前に傘を畳んじゃうと失敗するみたいだから、気をつけてね」

「はい」

「じゃあ、私は終わったあとの準備するから」

 準備? とヨルは思ったが、聞く前にユカは屋上から出ていってしまった。


 ヨルは静かに屋上の真ん中に立ち、傘をさした。

 これからの手順は簡単だ。


[私の記憶を雨によって洗い流してください]


 ヨルは三度唱えた。

 そして、母親のことを考えた。懐かしい顔が浮かんだ。

 やつれながらも暖かい笑みをして「おかえり」と言ってくれた顔。褒めるときに頭を優しく包むその手の感触、温度。「産まなければよかった」と言ったときの、怒りの混じった哀しみの顔。

 感傷に浸ることはなかった。

 どうか、自分のことを忘れて楽に生きてほしい。これからは自分の犯した罪を背負いながら、新しい人生を歩んでほしい。


 ヨルは自然と母親の幸せを願っていた。


 そこで、ふと、嫌な感覚が頭をよぎった。

 前の会社の理不尽の象徴であるかのような社長。

 自分の私利私欲に使うことは憚られたが、ヨルが社長に忘れられたいと思うのは確かな気持ちだった。考えるだけでトラウマがフラッシュバックし、吐きそうになるのを堪えて、なんとか黒い感情を飲み込んだ。


 雨がヨルの傘にあたり、跳ねる。露先から滴る。コンクリートにできた水溜りを揺らす。街一面に生えたコンクリートジャングルを雨が包んでいる。


「これでおしまいか」

 こんなことで自分が忘れられてしまうのだからあっけないと思いつつも、感慨深い気持ちが溢れ出てきた。

 これでようやく母親はヨルという存在の呪縛から解放される。

 ヨルも母親に対して後ろめたい気持ちになることもない。

 親子の縁は切れ、ついでに社長との縁も切れた。


「さよなら」


 ヨルは空を見上げ呟いた。そしてユカのもとへと向かった。

「ユカさん。終わりましたよ」

 扉越しにユカに呼びかけると、「わかった」とのんびりした声がくぐもって聞こえて、扉が開いた。


「早かったね」

「簡単な手順でしたから。けど、雨止むまで待ってないといけないんですよね」

 空は見渡す限り曇天でうめつくされていて、しばらく雨は止みそうにない。むしろ激しくなりつつある。

「大丈夫だよ」

 ユカはまた、予言めいたことを言った。

「これで、もうお終いだから」


 すると激しかった雨は弱まり、小雨に変わった。傘越しに空を見上げると雲が流れていき、まるでヨルとユカのいる場所から避けていっているみたいだ。

 やがて晴れ間が見えてきて、青空から降り注ぐ天気雨になった。

 傘から手を出して雨を確かめる。ぼつりぼつりとひと粒ふた粒手のひらにあたったあと、もう雨の感触はしなくなっていた。


「相変わらず、よくわかりますね。どうやってるんですか?」

 またたく間に雨が止んだ。

 もはや予言の力でも持っているんじゃないかとまで思ってしまうほど、毎回ユカは雨を的中させる。

「ふふっ。内緒」

 ユカはそう言って無邪気に笑って誤魔化した。

「誤魔化してばかりですね」

「いいのいいの。ほら、傘を畳んで」

 ヨルはユカに言われるがまま傘を畳んで、ついていた水滴を軽く払った。


「これでヨルくんの『忘却のおまじない』は成功。よかったね」

「なんか、あっさりしすぎて実感が湧かないです」

「手順は問題ないし、忘れられたい人にも見られてない。ちゃんと雨が止んでから傘を畳んだし、大丈夫だよ」

「それならよかったです」

 ヨルは少しだけ晴れやかな気持ちをしていることに気がついた。

 それは雲間からかすかに見える青空に似ている。

 やがて時間が経てばこの気持ちも澄み渡る快晴の空のように爽快なものに変わるのかもしれない。そう思った。

「傘、返しますね」

「いいよ。あげる」

「いいんですか?」

「うん。私には無骨すぎるから」


 ユカは言った。

「それに、傘があればもう雨宿りしなくて済むでしょ?」

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