黎井誠

 キャンプから帰った透真とうまの右目の下は虫に刺されて小さく腫れていた。蚊ではなさそうだ。蜂でもないらしいので命には関わらないとのことだが、白い肌で薄く膨らむ一円玉ほどの大きさの赤みはだいぶ目立つ。




「少し痒いのと、視界が一パーセントくらい圧迫されて鬱陶しいくらいでなんともないよ」


 本人は表情を変えずに低い声で言う。しかし悠斗ゆうとには機嫌が悪そうに見えた。


「そうなのか? 気になるようなら病院行けよ」




 大丈夫、と呟く透真はやはりいつもと様子が違うが、特に重症というわけでもなさそうだ。とはいえどうしても目がそこに行ってしまいそうになるので、悠斗は教室前方の黒板の方を振り返った。


 白のチョークで大きく横書きされた「自習」の文字。月曜二限、日本史の時間だった。




 自習の時間にちゃんと勉強する生徒など、受験生でもなければ中々いない。課題のプリントはあるものの、教科書を見ながら語句の穴埋めをするだけだった。分量的にはものの十五分で片付く。余った残りの三十分を二人は雑談に費やしていた。


 席は離れているが、透真のいる席の前に移動したのだ。その席の主である女子生徒は彼女の友人の近くに移動している。他の生徒も各々好きな席で雑談に興じる者が多く、教室内はかなりざわついていた。




 悠斗は後ろ向きで椅子に跨って座り、


「いやあマジで羨ましいわ、キャンプ」


 透真の机に頬杖を突きながら言った。


「そう? 虫に刺されるし寒いしあんまり楽しくなかったかな」


「五月なのに寒いのか?」


「うん。山の中腹あたりだったし、夜だとテントだけじゃ暖が確保できなかったんだ」


 むすっとした顔で体をのけぞらせる透真に、


「そっか」


 と答えながら悠斗は思う。今日のこいつはおかしい。




 週末に一泊二日のキャンプに出掛けるんだ、と言った金曜日の透真は、とても嬉しそうにしていた。彼は普段から嬉しい時や楽しい時の表現が過多で、すぐに顔を綻ばせる。花が咲いたよう、なんていうよくある表現はさすがに言い過ぎだが、屈託のないその表情は悠斗をよく和ませていた。キャンプ中もSNSで青空と山の鮮やかな風景や、美味しそうなバーベキューの様子などを投稿していた。悠斗とのメッセージのやりとりも普段より既読や返信が遅かった。


 悠斗は寂しくはあったが、楽しそうでいいな、と暖かい気持ちでいられた。




 それなのに、今日会ったらこれだ。


 いつもの待ち合わせ場所の駅の改札で会ってから二限の今まで、一度も笑顔を浮かべていない。声のトーンも低い。自分からキャンプの話題を振ることもなく、『楽しみにしてて!』と言ったおみやげも持ってきている様子がない。


 ずっと機嫌が悪そうで、ネガティブな感情が先行しているように見える。いつもぱっちりと開いている目が少し伏せられているようにすら思える。




 そういえば、昨日の夜から様子はおかしかった。悠斗は夕方頃にメッセージを送ったときのことを思い出す。


 送信してしばらく何の気なしにトーク画面を眺めていたらすぐ既読がついたのだが、メッセージが返ってくるのにそこから二十分もかかった。普段なら既読をつけたらすぐに返してくるというのに。


 しかもメッセージは「うん」の一言だけ。疲れているのだろうとその時は結論付けたものの、今考えると変だ。




 悠斗は内心で首を傾げた。


 嫌なことがあったとしても、透真はそれを隠し通すのが上手い。恋人相手でも、悩みの種の原因になる人の前でも、ずっと同じ調子でいられるのだ。そして抱え込み、一人でその辛さを爆発させる。


 そのせいで二人は何度か大きな喧嘩をし、半年前には絶交直前にまで発展した。だから今は、抱え込みそうなことは先に言っておこうということになっている。そう決めてからぐんと喧嘩は減った。


 だから色々とおかしいのだ。何も話さないことも、様子がいつもと違うことも。




 しかし悠斗は問いただせない。俺から話すから、それまで訊かないでくれと先の喧嘩で言われたのだ。言葉にするのに時間がかかることもあるんだ、と。




 結局三十分の雑談はそこまで盛り上がらなかった。沈黙と軽いやり取りを交互に繰り返す気まずい時間をどうにかやり過ごし、授業終了のチャイムが最初の「ラ」の音を発した瞬間に立ち上がる。


 露骨な態度の自分に悠斗は自分で苛立った。




 放課後になる頃には、悠斗はいつもの様子が戻らない別人のような透真といることに疲れ切ってしまった。一人で帰りたい気分だったが、悠斗のいる吹奏楽部も、透真の科学部も月曜日の活動はない。だから二人で帰る他ない。普段からの暗黙のルールだ。


 いつもは透真と一緒にいることに慣れ切っているので何も感じないのに、今回ばかりは気分が沈んでしまう。




 案の定帰路は無言の時間がほとんどを占めていた。電車のドアのそばに二人で立ちながら、悠斗は誰も更新しないSNSを開いては閉じ、動画を見ようとしては通信制限が不安で諦めてスマートフォンをスラックスのポケットにしまい、席がほとんど埋まっている車内をぼんやり眺め、暇だから再びスマートフォンを手に取るということを繰り返すしかなかった。


 イヤホンで音楽を聴こうとも思ったが、透真をシャットアウトするのはなんとなく良心が痛む。




 悠斗より一回り高い所にある透真の顔を横目で盗み見ると、吊革にぶらさがるように捕まって目を閉じていた。西日に当たった長い睫毛が影を落とす先に、虫刺されの跡。




 何かしらの会話を持ちかけようか否か悩んでいるうちに、電車がようやく駅に到着した。透真の最寄り駅で、家まで徒歩十分。悠斗はこのあとバスに乗る。だから待ち合わせも帰りの別れもこの駅だ。


 とはいえ改札前はいずれも通学・通勤ラッシュで人の流れが速いので、駅の西口の階段下、利用客が少ないバス停の近くが正確な場所といえよう。




「じゃあね、悠斗」と透真が口元だけでぎこちなく笑う。


 笑っていない右目の下の腫れはまだくっきりと赤い。




「おう。また明日、に……」明日には元に戻っておいてな、と言おうとしてしまって、途中で口を閉じる。


 取り繕うように笑顔で手を挙げ、自分の利用するバスに向かう。悠斗はどうしても背中が丸まってしまうのを、荷物の多さのせいにした。






 §






 帰宅早々、悠斗は自室のベッドに倒れ込んだ。五分ほど経ってから、透真にメッセージを送ろうと寝転がったままスマートフォンをポケットから取り出す。だがメッセージアプリを立ち上げる前にSNSを開いていた。




 短い文章を投稿するそのSNSで、趣味用のアカウントにログインする。このアカウントは学校の友達にも、恋人にすらも教えていない。自分がフォローしているアカウントの投稿が表示されるタイムラインを追っていく。するとあるオカルトな情報・噂をまとめたサイトの更新情報が投稿されていた。


 そういえば午後六時更新だったな、と悠斗はそのサイトを見に行く。新しい都市伝説の記事が二つ追加されていた。




 一つは日本の田舎の奇習の話。


 日本では昔、精神が錯乱した人物を狐の霊に憑かれた『狐憑き』と見做していた。しかしこの村では狐ではなく蛇であるとしたらしい。


 そんな『蛇』に憑りつかれた村人を助けるために行った儀式が、今も時々行われているのだという。


 奇習とはいってもそのルーツにある『蛇』が珍しいだけで、儀式そのものはただのお祭りのようだった。




 もう一つは怪異より人間が怖い、というテーマの『ヒトコワ』系だった。


 とあるサラリーマンが蚊に刺された途端に苦しみ始めたので同僚が救急車を呼んだ。


 しかし何ともなく、一晩入院して翌日から普通に出勤するようになったのだが、性格が別人のように変わってしまったのだという。しかしフレンドリーで明るく、よく気がつく人になった為、誰も損をしていない。だから放っておかれている。


 性格が変わった彼より、放置する周りの人間が怖いという話らしい。




 新着の記事を読み終わった悠斗は、いつの間にか来ていた透真からのメッセージを確認する。


『おつかれ』


 一瞬悩み、結局いつものように


『お疲れ! 今日の数学だるかったな』と返した。


 既読のマークがつかないかしばらく画面を見つめるが何も起こらない。そこへ母親が夕飯だと部屋に来たので、メッセージアプリを閉じた。

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