“五日目”

   五日目


「もう起きようスノウ」

 繰り返しに気付いて五日目の朝。もう珍しいとも思えなくなった少しの朝日が、窓枠の影を斜めにしていた。

「今日は?」

 固い寝床から起き上がりながら、スノウは解いていた髪を結んで首を鳴らしていた。気だるそうにしているその様から、彼も僕と同じように首と肩を強張らせているのだとわかる。

「イルベルトから情報を聞き出すよ。リズとは早いうちに合流したい。それと一つ、確かめたい事があるんだ」

 スノウは微かに頷ぐと、夜に喉を渇かせた時の為に用意していたテーブルの上のガラス瓶を取り、枕元で風に揺れている銀色のつぼみに水を注ぎ始めた。すると鈴の音の様な子気味の良い音を奏でて茎が踊り始める。俯いて顔の横に垂れた髪の隙間から、鋭い視線が僕に向けられた。

 屋根裏から二階に降りた僕とスノウ。寝室に入ると、早速僕の視線は昨日仕込んでおいた仕掛けの方へと向いていく。

「……っ無い」

 肩を上げるスノウに、僕は勢い良く振り返る。

「昨日ここに置いておいたメモが無いんだ」

 昨日ここに放り投げていたイルベルトのイラストがそっくり無くなっている。何処を探しても見当たらない、完全に消失しているんだ。四つん這いになってベッドの下を覗き込みながら、スノウは思い詰めたような声を発する。

「キミが確かめたかったのは、リセットによる巻き戻しの検証か……僕らの屋根裏やリズのお父さんの寝室にあった、呪いの範疇に無い物質、巻き戻る先の無い物がどう解決されるのか」

「僕らのメモには村に痕跡は残せないと書いてあったから予想はしていたけど、やっぱりこうなるのか……十二月二十四日の時点でその場所に無かった物は、リセットの際に行き場を失ってする」

 スノウの相槌を確認した僕は、そこではたと気付いて天井を見上げた。隙間だらけになった傷んだ木の板の向こうは屋根裏だ。そこにある品々は元より古びているから気付か無かったけれど、それにしたって頭上の板や剥き出しのはりなんかは、今思えば他の所に比べても妙に劣化している。すなわちこれは――

 僕の思考を読み取ったかの様に、スノウは真剣そのものとなった眼光で天井を見上げながら口を開いていった。

「この屋根裏が魔女の呪いの範疇に無いという事は、セーフティゾーンなんかでは通常通りに時が経過しているのかも知れないね」

 この繰り返しに気付いたあの日、放置された筈のランプに燃料が残っていたのは、過去に繰り返しに気付いた僕らが、オイルを補充していたからだ。それが目くらましともなって余計に気付けなかった。

「僕らの時間と外の時間は、本当にズレているって言うのか……」

 いよいよと刻に置き去りにされている実感を側に感じ、僕は顔をしかめながら言う。

「この世界の環境は全部、八年前の十二月二十四日と同じで無ければいけないんだ」

 お母さんが一階から急かすのに大きな声で返事しながら、僕らはドタバタと階段を下りて行った。

「もう、おっそ〜いわ、二人共! 折角のご馳走が冷めちゃうじゃない」

 お母さんはオタマを持って頬を膨らませたけれど、吊り上げた眉はすぐに平坦に戻って、テーブルに着いた僕らに微笑みを向けた。

「じゃあ神様に感謝のお祈りをして、このご馳走を食べちゃいましょう!」

 お母さんの昨晩の咳込みについて心配していたけれど、杞憂だったみたいだ。昨日は夜風にいつもより長くあたって体調を崩したのかも知れない。この事からも、やっぱりリセットによって身体の変化も元通りになる事が再認識出来る。イルベルトはそんな事はありえないなんて言っていたけれど、彼もこの恐ろしい呪いの全貌を掴みきれなかったんだろう。


   *


 本日もまた卵係の使命を全うする為にカゴを持って外に出た時の事だった。時折覗く太陽に照らされながら、緩やかな風になびく庭の草木が不自然に揺れた事に気が付く。

 僕らにはそこに潜む者の正体がわかっていた。揺れる草花の隅から、少女を象徴する滑らかな黒髪が見え隠れしているからだ。それにこの繰り返しの中で普段とは違う行動を起こせるのは彼女以外に考えられない。

「声を掛けないのかいレイン?」

「隠れているつもりなのだから、少し付き合ってあげようよ」

 大通りには人影がまばらにある。明朝から村のみんなが夜会の準備に忙しなくしているんだ。彼女が身を隠しているのはきっと人目に付きたくないからだろうから、しばし付き合ってみる。……とは言え、僕らが移動する度にガサゴソと草が揺れ、チラリと黒い影がよぎって次の藪に向かう。その隠密行動のずさんさたるや、逆に村人たちの注目の的になっている事に彼女は気付いているのだろうか? ほら、今なんてお尻が丸見えだ。今度は藪から藪への移動の際に全身が見えた、今は草むらから尖った耳がはみ出している……

「リズ」

「ャぁわぁっ!」

 人気の無い頃合いを見計らい、草むらの中の彼女に声を掛ける。すると驚愕としたリズが草むらから飛び上がった。前髪に草を乗せたままビクついた視線が、周囲をキョロキョロと見渡している。

「どうして気が付いたの? 完璧に隠れていた筈なのに」

「……。それより今日はどうしたんだいリズ、こんな朝から」

「うん。私、アナタを手伝おうと思って」

「手伝うって、まさかこの卵の運搬をかい?」

「うん。私は夜会には行けないけど、アナタや村のみんなの、何か力になりたくて……ほら、早く終わらせたら謎を解く時間が増えるし」

 モジリと指先を引っ付けたり離したりしていたリズは、恥ずかしそうに僕を見上げる。

「昨日、夜会に誘ってくれて本当に嬉しかった。だけど私には勇気が無くて、お腹が空いてたけれどやっぱりあそこには行く事が出来なくて……それでね、それで、考えたの。少しずつでも変わらなくちゃって……そう……思って、それで……」

 僕が彼女の手を取ると、草まみれになった毛髪が飛び上がって緑を舞い上げた。目前で目を剥いた彼女に嬉しくって大きな声で伝える。

「ありがとうリズ!」

「あ……ぁ…………いっ」

 変な声を出してリズは頬を赤らめた。彼女のサファイアの瞳に、僕のとびっきりの笑顔が反射しているのが見える。


   *


 彼女の変わろうという勇気を受け止めて、僕らは三人で卵を運搬する事にした。……だけど極度の緊張で顔を真っ赤にし続けているリズは、足と手を同時に出したりしていてなんだかぎこちない。

 井戸の水を汲む若い女性を過ぎた辺りで、僕らはセレナに手を振り上げられた。

「よう卵、が…………っ」

 僕らにイタズラでもしようと企んでいた微笑みが、リズを視認した瞬間に驚きに変わった。目を丸くして硬直したセレナの鼻先を木の葉がくすぐっていく。

「リズか? なんなんだよお前ら、一緒に居る所なんて始めて見たぞ?」

 セレナの声音に悪意は無い。けれど周囲に取り巻き始めた村人たちからは怪訝な視線を感じた。それを察したか、リズはグッと堪え忍ぶように俯いて、力一杯にカゴを握る手に力を込めていた。無神経なセレナはそんな少女の緊張も察せずに、その脳天を見下ろしながらズケズケと話し始める。

「そうか、お前も夜会の為に卵係を買って出た訳だな、偉いぞ」

「私……はっ」

「お前も夜会に来いよな、きっと旨いもんが食えるからな」

「え……」

 ――巻き起こる村人たちの驚嘆。流石にどよめきに気付いた様子のセレナは周囲を見渡すも、くだらないと言った風に片方の眉を下げて言った。

「んだよお前ら。この輝かしい終戦記念日にまで魔族だなんだと言うつもりか? 人と魔族の戦争は、昨日終わったんだろうが」

 向こう気の良いセレナの発言に、僕とリズは瞳を輝かせて彼女を見上げる。そうしていると、ウンウンと頷いたり、そうだ。という声が村人たちの間で起こり始める。

「セレナさんの言う通りです。国が争いを終えたのに、この小さな村でいざこざを続けているのは馬鹿らしいわ」

「じきに帰って来る男たちに笑われちまうね」

「それにバレンは良い奴だったじゃないか、うちの畑を何度も手伝ってくれたよ」

「時期になると、必ずうちのリンゴの収穫も手伝ってくれた。彼の娘もきっと良い子に違い無いんだよ」

 バレンというのはリズのお父さんの名前だ。魔族といえど、当時から彼の人の良さに魅せられて心を許していた者も沢山居る。その功績が今こそ、娘のリズを守る為に輝き始めていた。

「え……えぇ……ぅえええっ」

 リズを見詰める温かい眼差し。覚えの無いそんな反応に当惑した彼女は――

「うぇぇぇぇんっ!」

「あっ、おいどこ行くんだよ! なぁおい、遠慮せずきっと来いよなー!」

 口を開けたセレナを置いて、卵を抱えたまま遥か先へと走り去ってしまった。パニックを起こして暴走する彼女に追い付こうと、僕らもまた卵を抱えながら慎重に走り出す。セレナにすれ違うその一瞬、僕らは彼女に微笑み掛けた。

「ありがとうセレナ!」

「ありがとう……」

「はぁ?」

 口元に手をやり上を向いたセレナは、何が何だか分かっていなさそうだ。


   *


「はぁ、びっくりしたからって、お礼を言わずに走り去るなんてどうかしてるよリズ」

「ご、ごめんなさいぃ、私、あんな風に言われたの初めてで、どんな顔をするのが良いのか、なんて言ったらいいのかわからなくって……」

 膝に手をついて息を整えた僕らは、向こうに小さく酒場を見ながら歩き始めた。

「お礼を言わなくちゃ……セレナさんに、みんなに」

 リズは嬉しそうにほくそ笑んでいた。思えば彼女の微笑みを初めて見たかもしれない。だって彼女が笑う時、頬にエクボが出来るなんてこの時まで知らなかったんだ。……なんというか、彼女の笑う姿は屈託が無くて、魅力的だった。

「それにお父さんが守ってくれたよ。ねぇレイン。お父さんはずっと帰って来ないけれど、確かにさっき、私を守ってくれたよね」

 父との繋がりを感じて飛び跳ねるリズ。次に彼女は突如と振り返って、そこにある笑みは僕の心臓をドキリと高鳴らせた。

「ね! レイン、スノウ!」

 いつも困り顔をしていた少女とのギャップを垣間見る。糸のように細くなった瞳。その向こうに覗く海色の輝き。綺麗な弧を描いた薄い口元と、きめ細かい肌に出来た二つのくぼみ、そよ風に流れる美しい髪からは花の香り、少し尖った耳――空からの光に一瞬照らされた彼女が、僕の目に清廉せいれんたる何かを思わせる。

「レイン、どうしたの?」

 可憐な笑顔から僕は目を逸らしていた。何だかよく分からないけれど、彼女を見ているとやっぱり顔が熱くなって来る感覚を覚える。そんな僕を後ろから眺めて、スノウはこめかみをトントン弾いて微笑した。その目の奥にはどうしてか、悪巧みをしているような輝きがある。

「な……なんだよスノウ!」

「別に何も……?」

「言えったら!」

「言っていいのかい? ここで? 彼女の見ている前で?」

 戯れ合う僕らを前にして、リズは嬉しそうに笑っていた。彼女もまた何が何だかわかっていなさそうだったけれど。


   *


 やがて僕らは酒場を前方にして立ち尽くしていた。今は物陰に隠れて、行き交う人々を眺めながらタイミングを見計らっている。

「どうするリズ……グルタの場合、さっきのようには行くとは限らないけれど」

「グルタって、あの怖い大きなおばさんだよね……」

 途端に眉を平坦に戻してしまったリズ。しょぼついた目の下で鼻先が震え始めている。そんな彼女にスノウが珍しく口を開いた。

「勇気を出して」

「うん、私行ってみる……怖いけど」

 意を決して酒場の入り口に顔を覗かせた僕ら三人は、ジロリとした獣の目付きに捉えられ、そしていきなり一喝された。

「遅いよアンタたち、卵がなくちゃあ始まらないよ!」

 僕らはすっかり馴れてしまって、勢いと迫力のある彼女の声をなんとも思わなかったが、リズは違った。威嚇するような怒号に、肩を飛び上がらせて卵の一つを落としてしまったのである。

「ああー! なぁにやってんだい鈍臭いね!」

 瞬く間に涙目になったリズはおそらく、酒場に踏み込んだ自分の決断を早くも後悔しているといった感じだった。大股で近寄って来る野獣に恐々とし、しかしまた卵を落とす訳にもいかないので、蛇に睨まれた蛙の様に固まってしまっている。

「まぁったくもう! さっさと奥に運びな、ほら、行った行った」

「んにゃア――ッ!」

 グルタにペシンと尻を叩かれたリズは、石化の呪文を解かれて変な声を出した。僕らもまた彼女に顎で急かされる。それに応じながら僕は問い掛けた。

「グルタは何も言わないんだね」

「あ? なんだい、あの魔族の娘の事かい?」

「そんな言い方しないでよ」

「じゃあなんて呼べばいいんだよ、わたしゃあの娘に名乗られた事も挨拶をされた事も無いんだよ!」

 仕方がないので僕らはリズに横目で合図を送った。考えてみれば、リズ自身から村の人たちに歩み寄る事は無かったんだろうなと思った。いま豚鼻を鳴らしたグルタに振り返り、肩を震え上がらせたリズは話し始める。それは今にも消え入りそうな声だった。

「はじ……はじめまし――」

「はじめてじゃあ無いよ、アンタの事は昔っからずっと横目に見てる!」

「ヒィィ……あのぅ、リズ・ロードベル……です」

「フン!」

 満足した様子のグルタはそっぽを向いた。なんて態度が悪いんだろう。しょんぼりとした背中を見せながら、奥へと卵を運んでいくリズ。僕らは彼女に続いて卵を運んで行きながら、思わず眉を吊り上げてグルタに抗議する。

「そんな態度無いじゃないか」

「知らないよそんな事。アンタたちがどうして急にあの子に構い始めたのかもね」

 卵を置いた僕たちは、リズを後ろにして酒場を後にしようとする。するとそこで、

「ほら、お昼がまだなんだろう?」

 投げ渡されたリンゴの一つ……と、もう一つのリンゴがリズの手にすっぽりと収まっていた。

「特別サービスだよ。果物も貴重なんだ」

 伏せられていたリズのまつ毛が、煌めきを帯びてグルタを見上げる。

「おばさん……」

「おばさんだって!? ワーッハッハッハ、言ってくれるじゃあ無いか、アンタ良い度胸だよ

「いや……ぁ、ちが」

「良いからさっさと残りの卵を運びな、早くしないと今日の卵料理は全部スクランブルエッグにしてやるからね」

 リンゴを胸に抱き締めたリズは頭を下げ、結んだ口元から今度は確かにこう言ったのだった。

「ありがとう」

 眉を上げたグルタが僕らに背を向ける。僕らは三人、リンゴを分け合いながら曇り空の下へと出ていった。


   *


 リズが手伝ってくれているので、いつもは三往復する卵の運搬が二回で済む様になった。その二度目の卵をカゴに入れて運んでいる最中だった。

「そういえば私、朝イルベルトを見掛けたわ、東南の壁伝いに立ってオロオロしていたよ」

「えっ!」

 まるでなんの気も無しに、さも何事もなく天気の話しでもするみたいに、リズはそんな事を伝えたのだった。飛び上がった僕は彼女の肩を掴んで振り返らせていた。

「いつ? どこで?!」

「う〜ん、時間は多分七時位。私は今日壁伝いに二人の家に行ったの。ほら、壁の近くには余り家が建っていないし、日陰になるからひと気も少ないでしょう? そしたらね、その途中に見掛けたんだ。私の家から二十分程歩いた辺りかなぁ」

 この様にリズは何だかポヤンとしている所があるので、問い掛けないと何の悪意も無しに重要な情報を黙っている可能性がある。それを伝えた所で、彼女自身がそれを重要だと気付いていない以上無駄なんだろうけど。

「イルベルトは何て言ってたんだい?」肩を落とした僕の横から、スノウがそう問い掛けた。するとリズは困った風に唇に指先を添えて「混乱していたわ。まるで今この村に迷い込んだみたいに」と答えた。

 その瞬間に、僕の脳内にイルベルトの話していた一つの単語が呼び起こされる。

 ――

「イルベルトはきっとそこから村に入ったんだよ。外から見ると、そこに大きな穴が空いているんだって言ってたんだ」

 イルベルトは石の壁に空いた風穴からこの村に侵入したと言っていた。……その風穴というものがいつ空いたのか、何なのかは分からないけれど、一度行って確かめてみよう。何かヒントが隠されているかも知れない。


   *


 卵の運搬を終えた僕らは、リズの言っていた村の東南の壁を訪れた。

「なーんにも無い。ただ草の伸び切った荒れ地よ」

 リズはそう言って、壁を仰ぎながら欠伸をした。切り立った壁の向こうには、一本の大木と灰色の空が広がるばかりだ。

 ここは民家からも離れていてひと気も無く、草も伸び切って地面からは無数の岩が突き出している。何処か荒廃とした印象……だからだろうか、立ち並ぶ壁の無骨さだけが際立ち、鬱々とした雰囲気に満たされて来る気がする。

「ここに風穴が……?」

 何処を見ても、平坦に並ぶ壁に綻びは見当たらない。やはりここに穴が空くのはこれからずっと未来の話しで、イルベルトが立ち入ったと言う風穴はこの呪いの外からしか観測出来ないのかもしれない。

 するとそこで、しゃがみ込みながら小さな花を見下ろしたリズが話し始めた。

「穴と言えば、夜中に起きるあのすごい振動の事は知ってる? もしかしたら、あの時壁に穴が開くのかも」

「へ…………?」

 ……またしても発覚した重要な情報。あっけらかんと放たれた言葉に、僕は開いた口が塞がらなくなった。そんな僕を引き継ぐ形で、スノウはしゃがんだままのリズの背中に口を開き始めた。

「振動って何だい? 僕らはそんな事を知らないよ」

「え、知らないの? あんなに大きな揺れがあるから、知っているものだと思った」

 リズが言うには、夜中〇時十一分になると、石の壁にとてつもない衝撃が起こるらしい。耳を澄ませば何かを打ち壊す物音までするのだとか。リズの家は石の壁と密接しているので、その衝撃に家が揺れて驚くんだとか。

は確かにこの辺りの方角から聞こえるわ。何か巨大な物をうち壊す物凄い衝撃よ。もしかしたらイルベルトの言っていた風穴が、その時に空けられているのかも」

 そこまで聞いて僕は考える。

 ――イルベルトの言っていた風穴がこのループ中に開かれるだって? この壁は戦争に備えて打ち立てられた物で、厚さ約1メートルにもなる頑強な防壁だ。ちょっとやそっとの衝撃ではビクともしないだろう。しないだろうが……確かに不可能という訳では無い。

 ……でも――そうだとすれば死の霧はどうなる? ここに巨大な風穴なんて開けられたら、村には死の霧が侵入して大勢の人たちが死ぬだろう。

 訳が分からず首を捻る僕に、スノウは鋭い視線を寄越す。

「新たなる情報。気になるね……実際に何が起きているのかをこの目で確かめてみたらどうだろう?」

「駄目だよスノウ。壁の崩壊音が起こるのが〇時十一分、リセットが起こるのは〇時二十一分だから、十分しか猶予がない。そこから走ってもリセットまでにリズの家に辿り着けない」

「捨て身の覚悟でなら真相を知れるが、リセットによって記憶は忘却される……か。なるほど、偶然とは思えないね」

 ――〇時十一分に壁の崩壊音があり、その十分後にリセットが発生する……そこに何かしらの因果関係がある事は間違い無いが、どう足掻いても確かめようがない。僕が眉間にシワを寄せて腕を組んでいると、スノウは指を立てて提案した。

「誰をセーフティゾーンに残して、残りの者がその真相を見てくる。時間にしてはギリギリだけれど、何度も挑戦すれば一度くらいは成功するかも知れない。もし忘れてしまっても、メモを見せて思い出させればいい訳だろう?」

 平坦な口調で恐ろしい事を口にしたスノウに僕は驚く。

「駄目だよスノウ……キミは全てを忘却してしまった自分が、今の自分と同じだなんて思えるのかい?」

 スノウはキョトンとした顔付きで目を丸くしていた。まるで僕の言っている事が理解出来ないとでもいうかの様に。

「同じだろう? 忘れているだけだ」

「違う、同じなんかじゃない。今こうしてキミと話している僕は、リセットされたら居なくなる。それが僕には、とても恐ろしい事に思えるんだ」

 ……ただ記憶が無くなるだけ。けれど今こうして過ごしている僕らの意識は消え去ってしまうんだろう? そんなのはもう、同一であるとは言い難いじゃないか。まるで書物で他人の来歴を振り返るみたいに、無機質なメモの内容だけを頼りにして、二度とは思い出せない過去を想起するしか無くなる。そんなのはもう、毎日死んで毎日生まれ変わっているのと同じだ。

 ――これこそが、僕の感じている、この呪いに対する憤りの全てなんだ。

「居なくなる、恐ろしい……なんで?」

 僕の言葉に理解が及ばないといった様子でスノウは口ごもった。頭を振った僕は、このもどかしい思いに胸を掻きむしるかの如く、彼の掌を胸に手繰り寄せていた。

「どうしてわかってくれないんだよ、スノウ……」

 強く握ったままの掌。そのぬくもりを感じながら僕は必死に彼へと呼び掛ける。

「わかるだろう? 僕はキミとのこの繋がりを途切れさせたく無い。どちらか片方だけが覚えていて、片方だけが覚えていないなんて嫌だ。そんなの、本当の僕らじゃない」 

「レイン……」

「僕らはずっと、何があっても二人で一人でいつも一緒だ。死ぬ時も生きるのも、全部一緒なんだ」

 思わず熱の入った僕の言葉に、何故かスノウは切なげに目を伏せる。そしてやるせなさそうにこめかみを何度か指で弾いて言った。

「キミも、もう変わらなくちゃいけないだろう……」

「え……?」

 物憂げに言った彼へと、僕が歩み寄ろうとした次の瞬間の事だった――

「きゃあっ――!」

「ッ、リズ――!?」

 リズのハッとする様な叫声が僕らを振り返らせる。身構えた僕らはリズの示した方角へと視線を注いだ。

「そこの草むらに誰かが居るわ!」

 リズの青い視線――その先で、背の高い草が僅かに揺れている。今朝のデジャビュかとも思ったが、当の本人であるリズは口に手をやりながらわなわなと震えている。……ではその草むらに潜む者は何者なのだろう? そちらをしばらく凝視していると、僕やスノウと同じ位のシルエットが、観念した様にそこから這い出して来るのを認めた。その正体を認めて思わず声を荒げる。

?! キミは、こんな所で何をやっているんだいっ?」

「は〜バレちゃったかぁ」

 首をすくめたティーダは、赤い舌を突き出しながら片目を瞑って答えた。

「いつもの狩人ごっこだよ、朝からしてたんだけど気付かなかっただろう? 今日の獲物はキミたちさ。リズと一緒に居る様だったから、これは何かあるなと思ってこっそりつけてたんだ! へへっ」

 ズズっと鼻水をすすったティーダ。少年の目に光った無邪気に僕らは呆気に取られるしか無い。同じ様に目を瞬いたリズが問い掛ける。

「一体何の目的で……?」

「え、目的なんて無いよ。こっそり尾行しているのが楽しかっただけ! バレるまで続けようと思っていたけれど、こうなったらもうつまらないや、じゃあまた夜会で会おうね」

 突風が過ぎ去るかの様に小さくなっていったティーダの背中……全く何の目的も無かった児戯に、僕とリズとスノウは困り果てながら笑い合った。

「ティーダったら、まるで朝のリズみたいだったよ」

「ええっ、私はもっと上手に隠れていたでしょう?」

「いいや、残念ながらティーダの方が数段上手だった」

 思い切り笑い合ったら、この空みたいにどんよりとしていた雰囲気も晴れ渡っていた。目尻に伝う涙を指で拭いながら、僕はスノウの横顔に問い掛ける。

「あっははは、はぁ笑った……あ、そういえばスノウ、さっき僕に何て言い掛けたの?」

「いや、別に大した事じゃないよ」

 和やかになった空気の中で、スノウは首を振るばかりだった。


   *


 昨日よりだいぶ早い時刻。まだ雨の降り出さない頃合いに、僕らは例の吹き抜け小屋にイルベルトの姿を見つけた。息を切らした彼の様子からつい先程ここに辿り着いた事が分かる。今にも折れそうな細長い四肢を曲げて(言ったら怒るだろうけど、ナナフシみたいだ)大きなカバンから、これまた大きな、まるで入る訳の無いサイズの丸机と椅子を引っ張り出すと、草花と同化するかのようにして深く椅子に腰掛けて息を吐いた。まだ魔道具は足元に並べられていない。金の刺繍の入ったハンカチーフで額の汗を拭う彼は、大方村の女たちに追いかけ回された直後であるのだろうと察しが付く。

 僕らは少し慣れた様子で、一呼吸ついたばかりの彼の前に姿を現した。

「イルベルト、僕らはレインとスノウとリズ。キミに聞きたいことがあるんだ」と言った所で、イルベルトが手を突き出して僕らを制止する。

「訳の分からぬこの村に迷い込んで半日、こちらの方の疑問が山積みであるのに、私はキミたちから質問されるのか」

 嘆息した彼に戸惑っていると、イルベルトは側に置いた大きなカバンからティーセット一式を取り出す。

「少し待ってくれ、こういう時こそティータイムだ。自分のペースが戻って来る」

 華やかな薄緑のティーソーサーとティーカップ、それにティーポット。銀細工の美しいティーストレーナーまで取り出して机に並べ始める。ズラリと並んでいく茶器に目を白黒とさせていると、彼はさらに頭の上の焦げ茶のハットを胸の前でひっくり返してゴソゴソと手を突っ込み、そこから茶葉の詰まった小瓶を取り出した。イルベルト頭の上の帽子を示しながら「これは“保存のハット”だ。あらゆる物質の品質を維持する」と言ってから鼻を鳴らし、テーブルに置いた小瓶に金のティースプーンを近付けていく。

「うわっ動いた!」

 すると蓋がひとりでに外れて、内部の茶葉を露わにした。これにはいよいよ僕も驚きを隠せなくなって飛び上がる。イルベルトはティースプーンを顔の前に立てると、すくい上げた茶葉をティーポットに一杯、二杯と流し込む。それが終わると小瓶は勝手に閉まって、取手の部分がカタカタと音を立て始めた。何やら陽気なメロディを奏でているみたいだ。

「すごい、これも魔法?」

「厳密には魔道具に込められた魔法」

 次にイルベルトは、足下の大きなカバンから、奇怪な装飾の施されたガラスの水筒と、金の砂時計を取り出した。そうして水筒の蓋を開けると、ティーポットに湯気の立つ水を注ぎ始める。

「これは“魔女エリーの水筒”。良質の水と、茶葉に合わせた温度の湯を注いでくれる」

「見てリズ、水筒の中の水が減っていないよ!」

「熱そうな湯気が出てる!」

「ただし、紅茶以外での用途と、二番煎じには協力してくれない。これはエリーが紅茶に対して並々ならぬこだわりを持っていたが為だ」

 イルベルトは熱湯を注ぎ終えると、ティーポットの蓋を閉めて、金の砂時計の頭を撫でる。

「この茶葉はフルリーフであるから、四分十秒といった所か」

 すると何処からともなく砂時計の砂が増し、宙に浮かんで反転してから、サラサラと砂を落とし始めた。この間も小瓶は踊り、愉快な音を奏でている。

「ふぅむ、それで? 少年少女諸君。お茶が出来上がる迄は何気もない話しをしよう」

 細長い足を高らかに上げて、足を組んだイルベルトがテーブルに頬杖を着いた。彼がお茶を淹れるというだけで、テーブルの上は小さなパレードでも始まったかの様に賑やかになっていた。リズとスノウも昨日見られなかった魔道具に興味津々な様子だ。

「すごいや、これも魔道具なんだね」

 僕が瞳を輝かせると、イルベルトは足をグルリと組み換えながら言った。

「ただし、これらにはキミたちの忌み嫌う魔力が使用されている」

 少し張り詰めた空気を肌に感じる……するとそこで、口をつぐんだ僕の背中からリズがイルベルトを見上げ始めた。

「アナタは、どうして仮面をしているの?」

 やはりリズの顔をジッと凝視しているらしいイルベルトは、仮面の奥で鼻を鳴らしてから目を背け、膝の上に置いていたハットを被り直しながら、何気もない様に言ってみせた。

「私がキミと同じ魔族だからだ」

「魔族……?」

 繰り返したリズの隣で、スノウが鋭い視線をイルベルトへと向かわせていた。魔導商人はそれに気付かず、リズのつぶらな瞳をチラリと横目にする。

「人間は魔族を恐れるだろう? だから仮面をしている」

 と彼は言ったが、その目論見は何処か的外れな様な気がした。だってこんな妙な出で立ちの男が現れたら、それこそ警戒を示す他が無いだろう。そんな事を知ってか知らずか、仮面の向こうの声は続く……

「……もっとも、もう魔力を使い果たした魔力切れエンプティだがね」

 話しに割って入った僕が「エンプティ?」と首を捻ると、何か気まずそうにしたリズが僕に耳打ちした。

「魔族はね、生まれ持ったその時点で、放出できる魔力量が決まっているの。それを使い果たした人の事を、侮蔑用語で魔力切れエンプティと呼ぶんだよ」

 声をひそめて気を使っている様子のリズであったが、イルベルトはそんな気遣い無用であると言わんばかりに顎を上げて、大胆に言い放った。

「魔族や魔術師何かというと、キミたちは指先一つで日常生活を完遂している様な、そんな空想を思い描くだろう? ただそれは全くの誤解で、我々は魔力というものを最小限にしか用いない。理由はキミのガールフレンドが述べた通りだ。誰もが私のようなエンプティにはなりたくないと思っているからだよ」

 頷いた僕に向けて、イルベルトは踊る小瓶を指で示す。

「そこで我々は魔道具というのを用いるのだ。何処ぞの誰かが命を削って込めた魔力で、便利な生活を送る。別にこんなもの無くても困らないが、あるのだから使う。当たり前の事だ」

 イルベルトがそこまで語ると、砂時計の砂が落ちきって、小瓶が音を立てるのを止めた。彼はティーカップに茶漉しを添えると、勢い良く黄金色の液体を流し込んだ。華やかな香りが辺りに満ちていく。僕は上品にティーカップに口を付け始めた彼に問い掛けた。

「ねぇイルベルト、さっきキミは魔族は嫌われてるって言った……なのにキミは、仮面をしてまで僕らに品物を見せに来ている。これは一体どういう事なの?」

 イルベルトは「この村に迷い込んだのは私としても予想外の事だったがね」と口火を切ってから、ティーカップを置いて続けた。彼の所作の一つ一つには、何処となく気品が漂う感じがする。

「ひとえにそれは、私が人間を愛しているからだ。殊更にキミらの様な無悪な子どもがね」

 意外な意見に、僕らは目を見合わせてから声を揃えていた。

「人間が……好き?」

「ふぅむ。私も魔族の中では変わり者でね」

 遠い目をしたイルベルトにリズは天真爛漫な笑みで言葉を返していた。

「そんな気がする!」

「…………」失礼な物言いにピタリと静止した白い仮面――

 ギョッとする僕らと、反応に困ってしばし静止するイルベルトだったが、結局彼は何も聞かなかったかの様に振る舞いながらまた紅茶を飲み始めた。

「ふぅむ……そういう事で、私は魔導商人として、人も魔族も分け隔てなく魔道具を売っているのだ」

 イルベルトは言ってから、うっかりしていた、と言った風に手を打った。

「そうだそうだ、他にも私の商品を見せてやろう。どれもこれも、キミたちのとって未知の……」

 言いながら彼は足元に赤いクロースを広げ、カバンから昨日の魔道具の数々を並べ始める。

「これは“ゴンゴリューニの砂”あらゆる物に一時の命を付与し、こちらの“ガラス卵”は未知なる世界の……ん? なんだ、驚かないのか」

 苦笑いした僕らの様子を受けて、彼は手を止めて不思議そうにしていた。


   *


「なるほどな……そう言った話しであったか」

 継ぎ足した紅茶に一度口を付けながら、イルベルトは僕の口から語られた、“昨日”の彼との問答に思い耽っている様子だった。曇天から垂れる雫を仮面に受けながら、僅かに上を向く形で手元の湯気に顎を撫でられている。

「繰り返しか、ふぅむ」

「やっぱりキミは、それでも信じられないと言うのかい?」

「キミの言う、“昨日”の私と言うのが実在するならば、正しい判断をしたとそう思うよ」

 カバンから魔道具を並べ始めた彼はやはり、この呪いについて懐疑的な姿勢を崩さない。……だが、それならそれで仕方が無い。僕は彼の知る情報を可能な限り引き出すだけだ。

 心ここに在らずといった具合の仮面がゆっくりと商品を陳列していくのを眼下に、僕らは三人前に出る。

「教えてイルベルト。キミが見た外の世界は、僕らの村や国はどうなっているの?」

 じっくりと顎に手を添えたイルベルトは、しばらく考え込んだ後にこう話し始めるのだった。

「キミたちは、そこの壁を越えて、外に出ようと言うんだろう? ならば、自らの目で確かめろ」

 仮面の真意が僕らには分からず、リズは強く訴え始めた。ピョンピョン飛び跳ねながら頬を膨らませている。

「なんで! 教えてくれてもいいじゃない、ねぇレイン!」

 するとイルベルトは、仮面の向こうのエメラルドの瞳で、僕らをジロリと見回すのだった。そうして両手をだらりと下げたかと思うと、片方の親指をベルトに掛ける。次に放たれた彼の語気には、物を言わせぬ気迫まで纏われていた。

「ダメだ」

 僕らは黙り込んだ。どうしてそんなにも頑ななのだろう? 彼にそれを伝えられない理由でもあるのだろうか。それとも八年の歳月を隔絶された僕らに、伝えるべきでないを知っているのか。

 そこまでだんまりを決め込んでいたスノウが、僕に振り返りながら口を開く。その雰囲気の物々しさと刃物のように鋭い視線に、僕は思わず一歩後退りながら眉をひそめた。

「彼は気付いたのかも。この呪いが仮に、霧の魔女による目論みであったとするならば――そのに」

 スノウが僕に何を伝えたいのかが一瞬理解出来なかった。この繰り返しの呪いに意味なんかがあるとでも言うのか? あの霧の魔女が、何か意図を持ってこんな田舎村の僕らに呪いを掛けたと……キミはそう言うのか? 分からない。けれどこんな無慈悲な呪いに思惑があるとするならばなんなのか……僕はこの呪いを無作為に襲い来る天災のようにしか思って来なかった。まるでそんな事、思いつかなかったのに……

 ――なのに、どうしてキミはこんな事を言う? なぜ僕が思いもよらない事を言ってのける? 

 …………どうして。

「さぁね。そればかりは、外の状況とこの八年の歳月の経過を知る彼にしか分からないよ」

「え……あっ」

 心の中で唱えたつもりがつい口に出ていたか。はたまた僕の心を読み取ったのか、スノウは僕の抱いた疑問に答えながら、風に髪を流していた。

 僕はスノウに質問を繰り返した。

「イルベルトは、霧の魔女の仲間だって事……?」

「さぁね。でも彼は魔族だ。そうであっても不思議は無い……ただ僕には、そういう単純な事では無いようにも思える」

「――そっちのキミの言う通りだ」

 ギクリとする僕とスノウ。その地獄耳で僕らの間に割って入ったイルベルトは、最後の紅茶をクッと飲み干しながら、空になったカップを膝の前で逆さまにした。

「これは単に、私が魔族であるとか、実は霧の魔女の忠誠を誓っていただとか、そういった類の理屈で口をつぐんでいるのでは無い」

「じゃあどうしてなの?」

 声を返したのは、スカートをひるがえしたリズだった。困り顔の彼女に仮面は平坦な声を返す。そっとティーソーサーをテーブルに置きながら。

「キミたちは、なぜその現象をだと思う……私から言えることはそれだけだ」

 ――この呪いが……呪いじゃない? 八年間も同じ時を繰り返させられるこれが、呪いと表現しなくてなんだと言うのか。口をパクパクさせる事しか叶わずにいる僕を前に、イルベルトは話しを一方的に断ち切ると、椅子に座ったままフクシアの赤い花弁の側で、魔道具をカバンから取り出し始めた。そんな背中にリズは叫び付ける。

「ケチ! 教えてくれないのね」

 ポコスカとイルベルトの背中を叩き始めたリズに、スノウがギョッとしているのが見えた。今更ながら思うけれど、極度の人見知りの筈のリズが、イルベルトに対してだけは随分と馴れ馴れしく接しているのは何故なのだろうか? 単に波長が合うのだろうか? 僕らでさえ彼に対する警戒心は未だ拭い去れないと言うのに……

「なんとでも言うが良い。私はそれが微かな可能性であったとしても、あの恐ろしい魔女に目を付けられたくは無い。これは全魔族における共通認識なのだ」

 ガタガタと体を揺すられている大男の横で、僕は一人静かに驚愕としていた。――そんな、これは魔女の呪いで……僕らのメモにもそう記してあって……。

 考えを霧散させていく僕に、スノウはくだらなさそうに手を上げてヒラヒラとさせた。

「思考するのは後でも出来るだろう、キミの目的はここから先。彼の見せる魔道具の一つにあるじゃなかったの?」

 スノウの言葉に思い直した僕は、リズと一緒にイルベルトの側にしゃがみ込んだ。そうして異次元の様な大きなカバンの底から、目的の物が姿を現すのを今か今かと待ち望む。程なく生臭い衣が姿を見せた途端、僕は立ち上がった。

「やはりお目当てはコイツか少年……しかしな、私も慈善活動で商人をしている訳では無いし、先の話しを全て信じた訳でも無い。キミたちの持つ貨幣では取引には応じられ無いし、そもそもこれは私の持つ随一の品物だ。相当数の金貨銀貨を集めた所で、交渉には応じられないだろう。悪いが半分以上コレクションを自慢する為に陳列している様なものなのだ」

「そんな……わかるでしょうイルベルト? 壁を越えるためには、あらゆる毒を跳ね除けるその衣が必要なんだ」

「キミらの不憫な事情を鑑みても、説得の末私から貸し出す事が出来るのは、やはりこの“ズーのウロコ衣”に留まる。私は鬼では無いが、また、愚か者でも偽善者でも無いのだ。無償で宝玉を手放せる程、欲を欠いた訳もあるまいのでね」

 抗議する僕にイルベルトは首を振った。そうして自慢げに“ズーのウロコ衣”を広げていってみせると、怪しき商人は言うのだ。

「対価があるのならば、いつでも」

 歯噛みするしか無い僕らは、広げられた衣を物欲しそうに眺めた後、顔を見合わせてから下を向いた。僕らの持ち得る貨幣が通用しないと言うなら、この村に一体どんな対価が残されているというのか。

 足元に赤いクロースに“ズーのウロコ衣”を置いたイルベルトが、足を組んで椅子に座ったままカバンをまさぐって、さらに魔道具を取り出していく。先の落胆に頭をもたげたままの僕は、胸に手をやりながらぼんやりとその様子を見ている事しか出来なかった。

「命を吹き込む“ゴンゴリューニの砂”に、忌まわしき“二枚舌”。そして――」

 度重なる難題と襲い来る真相の迷宮に胸が悪くなった僕は、リズに背中をさすられながらうずくまった。迫り上がって来る胃液の感覚に嗚咽が漏れそうになる。

「ぅっ……ごめんよリズ、もう僕らに出来る事なんて……なにも」

「そしてこれが――――」

 ――だが僕は次の瞬間に、蒼白となり掛けた顔を勢い良く顔を上げる事になっていた。

 それはイルベルトの口から語られた、の名と、手元に引っ張り出された、紛う事のない銀の煌びやかな反射に釣られての事だった。

「――じきに花開く“ロンドベル庭園の魔草”」

「え――――ッ!」

 鬱々とした曇天に、走る紫電の瞬きが僕の全身を貫いていった。立ち上がった僕はイルベルトの背中を引っ掴んだ。

「そ、それって! もう一輪持っていたり、そんな事はあるのイルベルト!」

「どうした少年よ。くすねられたのは一輪だけだ。それ以上は私の美学に反するのでな」

 呆れ顔のリズがイルベルトの背中をつつく。

「くすねるのに美学も何もあるの?」

「手厳しいなエルフの少女よ。くすねたと言っても、これは対価として私が――」

 口元に手をやり、一輪の銀のつぼみを見下ろしながら絶句した僕に気付いたのはスノウだった。僕の肩に纏わりつくように彼は近寄って、顎を乗せる。

「僕らの屋根裏にも、昨日譲り受けた同じ物があったね」

 僕は思い直す。魔女の呪いから逃れるセーフティゾーンの認識を。この村で唯一と昨日の痕跡を残し続けられる不可思議なる場所の法則を。

「屋根裏から外に持ち出した、八年前の“今日”にある筈のない物は、リセットによって消滅する。……反対にその屋根裏の中でなら、

 ループしているこの村で、昨日の痕跡を残し続けられる僕らの屋根裏とリズのお父さんの寝室。この村の法則より外れた奇跡のスペースでは逆に――村から持ち込んだ物質がされる。

 リセットにより八年前の十二月二十四日を再現するその辻褄合わせとして、そこにある筈であった物は再現化され、屋根裏に回収された物質はとして取り残されたままになる。

 この瞬間――走る閃き。繋がった光の道筋が、呪いの外へと到る確信に貫かれた。

「まだ“ズーのウロコ衣”を入手する方法は分からないけれど……」

 顔を傾けると、目前にあった灰色の水晶――スノウの眼球に反射した、毅然とした表情を僕は自覚する。

「そこさえクリアすれば、全て叶えられる……この呪いを飛び越えて、村のみんなを救い出す事が」

 只事でない様相に気付き、リズとイルベルトも会話を中断して僕の声に耳を傾けていた。

「何か気付いたのか少年……ふぅむ。たったこれだけの情報で、この絶望的なる状況の打開策を?」

「わかったよイルベルト。後は“明日”のキミをどう懐柔し、“ズーのウロコ衣”を手に入れるかだけさ」

 挑戦的な視線で頷いた僕に、リズは感嘆の声を出して控えめに手を打ち鳴らしていた。イルベルトはハットを深く被り直しながら、怪しい仮面を斜めにして僕に言った。宵に差し掛かり始めた薄い紺色の空の下で、肩に垂れた屋根からの雨漏りを払いながら。

「聡いね少年、まるで十かそこいらの幼い少年だとは思えない程に……」

 小気味良く、パチンと指を鳴らしたイルベルトは、仮面をカタカタ揺らした。それが笑っているからだと気付いたのは、長い足を解いて立ち上がった彼の仮面の下から覗く白い口元に、上がった口角を見つけたからだ。

 カバンに物を詰め込み始め、ここを離れる身支度をし始めたイルベルトを認めて、僕らも踵を返して雨空の紺色に歩き出した。

「諸君の言うループする世界が真実だったとして」

 思い出したように放たれたイルベルトの口調には、あくまでそれを真実とは言い切れないといったような、慎重な言葉選びがあった。それを嫌味たらしく思いながらも僕は振り返る。

「キミたちの中で流れる筈であったは、一体どこにいってしまったのかな」

 彼は最後にそう残して、闇に紛れて消えていった。


   *


「リズ。夜会に行こう」

 イルベルトと別れた夜の道で僕は、雨に濡れるまま振り返った。

「え……」

 そこに現れたのは、昨日と同じ困惑する面相。街灯に照らし出される彼女の背中で、スノウが額に手をやりながら呆れている。

「今日キミは、勇気を出して僕に言ってくれた」

「……」

「少しでも変わらなくちゃって、変わろうとしてくれた」

「それは……でも……」

「僕らと一緒に村のみんなと過ごしてどうだった、どう思った?」

「……」

「みんなキミに良くしてくれた。一生懸命村のために働くリズに、悪いことを言う人なんて居なかった。キミを遠ざけていたのは村のみんなじゃない。キミ自身だ」

 強く首を振ったリズの毛髪が雨粒を飛ばす。

「ダメだよ……それでもやっぱり……夜会には村のみんなが来るし、きっと私の事を嫌だって人も居る」

「リズには僕らが付いてる。セレナやグルタだって――」

「ごめんなさい! やっぱり私っ、アナタたちの大切な夜を、私一人のせいで壊せない」

 いつかのように走り去って行ってしまったリズ。夜に消えていった小さな背中を掴もうとして、僕の手は余りにも遅く空を握っていた。

「レイン……」

「ごめんスノウ……」

 呆れた顔の相棒の前で僕の脳裏に過っていく。闇に浮かんだ二つのサファイアが潤み、丸から楕円に形を変えて、黒に軌跡を描いて消えていった光景を。

「また彼女を傷付けたね」

「そうだね、そうだ……」

 魔女の呪いを抜け出す算段が付いて、僕は舞い上がっていたのだろうか? 彼女の気持ちを蔑ろにして、独りよがりの気持ちを押し付けてしまったのだろうか?

「焦ってはいけないよレイン。彼女はゆっくりと変わり始めている、それでいいじゃないか。人それぞれにペースがあるんだ。僕らの普通が、他人にとっても普通なんだと思ってはいけない」

 スノウの肩に頭を寄せて、しばしと蝋のように固まった。細く美しい指先が、僕の髪を指でき始めたのを感じながら、少しだけ、彼の肩に乗せた顎を浮かせる。

「わかってる、でも……」

「でも……?」

 朗らかな笑みを浮かべた二つのえくぼが今、閉じた瞼の裏に思い起こされていた。何故だか顔が火照って胸が締め付けられる。だけどつい今しがた僕の前から走り去っていった彼女は、とても悲しそうな顔をしていた。

「彼女の笑顔を守りたい……きっと、僕がそうしたいんだ」

「そう……」スノウが僕の髪を撫でるのを止める。

 一人で越えられない壁は、手を取り合って乗り越えればそれで良いじゃないか。人に助けを求めるのもまた強さだ。一人で乗り越えることが偉いんじゃない。助けを求めることは恥ずかしい事じゃない。見返りだって考えなくていい。いつかキミがそうされたように、誰かに手を差し伸べられればそれで良いんだ。

 スノウは空を見上げて、掠れた声を出していた。

「わかるよ、その気持ちも痛いほど」

 彼女は変わろうとしている。あと必要なのは、手を取る勇気だけだ。


   *


 僕らはお母さんを連れて、いつもより三十分早く家を出た。

「何処にいくのレイン?」

 酒場の席に着いたお母さんに少しだけ待っていてと伝え、僕らは酒場を飛び出した。

 夜の風を切り抜けて前へと進む。けれど今の僕に打算的な何かがある訳では無い。ただあのままでは居ても立っても居られなくって、それだけの理由で僕は今、冷たい雨に打たれてるんだ。

「おいおいレイン、これから夜会が始まるって言うのに、主役のお前が何処に行っちまうんだ?」

 目を丸くしたセレナにすれ違う。進行方向はもちろん反対。僕は答えずに一生懸命に東を目指し続ける。

「これから夜会だよ?」

「どうしたの、滑って転んだら危ないよ」

「ピアノはどうするのさ」

 僕は跳ねる泥に濡れるのも構わず、胸に抱えた大切な物を落っことさない事にだけ注意を払って走る。濡れた髪が顔に引っ付いて鬱陶しいから、走りながらポケットの革紐で器用に髪を結んだ。こうしているとスノウとまるで見分けがつかないけれど今は関係ない。口元に揺蕩う白い息を荒げ、僕らは村の東の壁に辿り着いた。

「時間はっ?」

「……夜会の開始まであと十六分だ」

 懐中時計を手にしたスノウを置いて、闇夜に小さなランプが浮かんだリズの家の玄関まで駆けた。そうしてレインコートのフードを外し、髪を結んでいた紐を解く。そろそろと胸に抱えた物を慎重に確かめながら、僕は鉄のドアノッカーを叩く。するとすぐに古びたドアの向こうから震えた声が返ってきた。

「なんでレイン……夜会に行ったんじゃ」

「開けてリズっ」

「なに、どうしたの? でも私、やっぱり夜会には」

「いいから開けて――っ!」

 絶え間のない僕の息遣いにやはり動揺している様子のリズ。しかし彼女も降りしきる冷たい雨を窓の向こうに見たか、程なくすると錠を外して扉を開け放った――

「びしょ濡れじゃないレイン。でもごめんね、私を夜会に連れ出そうっていう話しなら――」

 口の端の両方を下げたリズに、僕はレインコートの中――その胸に大事に抱えていた一輪の花を突き出した。

「これ、キミに似合うと思って」

 目を瞬いたリズはその手に受け取った小さな植木鉢に視線を落とし、瞳の陰りを消し去っていた。

「これ“ロンドベル庭園の魔草”? なんで? だって昨日までまだつぼみで……」

 驚きを隠せないままの彼女の視線が、銀の茎の先に開かれた薄紅の大輪に注がれて止まっている。そうして下唇を軽く噛むと紅の差した顔を上げた。僕はそんな彼女を見下ろすと、考えていた台詞も全部すっ飛ばしてしまって……そこからはたどたどしいだけの言葉を一つ一つ紡いでいくだけになってしまった。

「あのつぼみが、こんなに美しい色の花を咲かせるなんて……キミは予想出来た?」

 目が飛び出すのではないかという勢いで首を振ったリズを認め、僕は続ける。

「上手く……なんて言うべきかわからないんだけど」

「え……」

「こんな感動の連続が、未来で僕らを待ってる気がするんだ」

 止まった刻の中でだけ生き続けた僕らが、一生涯出逢えぬ筈であった“明日”。繰り返される演劇の、その終幕の向こう側の物語へ行こう。

 僕は宝石のように美しいキミの瞳に飲み込まれながら口を開く。リズもまた穴が開く位に僕の灰の瞳を凝視していた。

「一緒に行こう。“明日”に」

 広げた僕の指先にリズの温かい吐息が掛かった。すると彼女は一度瞳を閉じた。

「泣いているの?」

 頭上のランプに照らされて、彼女のまつ毛が斜めの影になって落ちる。僕はリズの顔に掛かったその影が震え始めた事に気が付く。

 思わず引っ込ませようとしたこの手を、彼女の両手が確かな力で包み込んでいた。

「……私を連れ出してくれるのは、アナタなのね」

 目前に、僕の胸を焦がす、満面の笑み。


   *


 僕らは三人、雨の夜を駆ける。リズのレインブーツが水溜りを力強く踏む。……弾ける飛沫、フードを外した僕の顔が雨に濡れていく。

「アハハっ! 見てレイン、スノウ!」

 闇を照らす外灯の連続の中で、リズは檻から解き放たれた兎みたいに軽やかに地を飛び、ステップを踏みながらクルリと回った。その後に続く僕は、火照った体に冷たい雨が降り注ぐのが心地良くて叫ぶ。

 ずぶ濡れの僕らは酒場の扉を開いた。それと同時に夜会の開始を告げる十八時の鐘が鳴り響いて、前に立ったフェリスのブロンドの髪が振り返った。夜会の開催を待ち望んでいた村のみんなの視線が、一斉に僕らに注がれて少し怯む。

「レイン、その子は……リズなの?」

 既に打ち鳴らされていた乾杯の余韻の中、フェリスの出した怪訝な声に村の何人かが反応を示した。

 僕は敵意のある何人かの視線に相対して、リズの手を後ろ手に握った。お母さんがオロオロと狼狽える向こう側で、眉間に深いシワを刻んだセレナが立ち上がり掛け、グルタがキッチンの奥で下顎を突き出して腕を組んだのが見えた。

「待ちなよ」

 ――しかしそう声を上げたのは、捲し立てる様なセレナの声でもなく、グルタの罵詈雑言でも、お母さんがこの場を仲裁する声でも無かった。

「イリータ……?」

 僕はこの陰険な声の中心に座した、最も意外な人物が争いを止めた声に驚いて目を見張った。

「グルタから聞いたよ。その子はね、今日この夜会の為に、一生懸命働いたんだってさ。いいかいアンタたち……」

 イリータは細い目をして立ち上がり、鼻をムズムズ動かしながら語り始めた。彼女を中心としてひしめいたリズを非難する面々もまた、眉根を寄せてその声に耳をそばだてていく。

「私たちはね、その子が嫌いだよ。だけどそれはリズが魔族だからなんじゃあないよ」

 ハッキリと嫌いと言われ、引きつった顔でリズはイリータを見つめた。僕らも息を呑んでその場を見守る。

「勝手に引け目を感じて、私たちを腫れ物みたいに扱って来たのはどっちだい? そんな態度を見せられちゃあ、こっちも魔族だなんだと、言うべきでない事まで口をついて出る」

 鋭いが、その瞳の奥に温かみのある眼光がリズを覗いていた。

「でも今日、この子は、村の一員として仕事をした……だったらそれでいいじゃあないか」

 視線を外したイリータは、みんなに注目されるのがこっ恥ずかしいのか、赤くなった小鼻をポリポリと掻いて、テーブルの上のグラスを握った。

「それに……とうもろこしが好きな奴に悪い奴はいないんだ」

「……っ?」

「さ、さっさと始めなよ! もう定刻は過ぎてるんだろう!」

 みんなが笑い、イリータに倣ってグラスを握った。振り返ると、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をして立ち尽くすリズが居た。僕は振り返って、リズの手を固く握ったままみんなに言った。

「リズもこの村で暮らす家族だ。夜会は村のみんなでお祝いしなくちゃなんだ。そうだよね、みんな!」

 テーブルに着いたまま、全員が微笑んで手元のグラスを掲げた。瞳に涙を溜めて、なんだか嬉しそうにしたお母さんの隣で、フェリスは高らかな声を上げた。

「それではこれより、夜会を開催します!」


   *


 何時になく、酒宴の席に笑いが漏れるのは、そこに新たなる家族を迎えた為か、少女がテーブルに並ぶ絶品の数々を頬に詰め込み、恍惚の笑みを浮かべるが為か。見ているこっちまで嬉しくなる魅惑の笑みに、明るい声が増していく。隅に追いやられた少女の席が、何時しか村人たちの中心と変わり始めていた。

 ――僕もそこで共に、キミを眺めていたい。

 僕はそこにありながら、むず痒い一念を胸に秘める。

 イリータの肩を抱き寄せられ、好物のとうもろこしを口に突っ込まれたリズはこの時、初めてスノウのピアノを耳にする事になる。


 フランツ・リスト『3つの夜想曲』第三番より――「愛の夢」


 甘く艷やかで、ゆったりとした愛の情緒が、

 華やかしき時代を回想する様に――

 ――切なく。そして儚くも、あの全盛と甘美とを口中に思い出すかの如く、実直につづられる……


 とろける瞳で肩を揺らせ始めたみんなの中心で、リズは脱帽とした顔で立ち上がり、頬に付いたコーンを落とした。

「嘘でしょう……」

 そう囁き漏らし、壇上に座した白き月明かりに照らされたスノウの姿を、ゆっくりと仰いで――


 確かに想起される、かつての二人の甘き恋慕。

 フランツ・リスト――その名を聞けば、前衛的で派手な超絶技巧演奏を想像するだろう。

 けれどこの曲は違う。

 普段の楽想には、何処か人外めいた様相を窺わせるリストだが、この時この一曲に置いては、派手なテクニックを披露する事もなく、僕らと変わらぬ一人の人間として、月並みで、されど尊大な、愛の等身大を調べに乗せた。

 ……まるでそう、装うかの様に。

 狂気めいたまである楽想を時代に刻み続けた――“ピアノの魔術師”と呼ばれた彼が自分自身を、、白々しくも、我々に表現しているかの様に。


「スノウ……」

 リズはそう言って口に手をやると、とろけた瞳で天窓からの月を追った。そして優しき物語に没入していく。

 人生という船に揺られている様に、旋律は優しく流れ続ける。

 テーブルでスノウの演奏を聴いていた僕は、この呪いの最後を祝福する様な優しきメロディに、思いを馳せる。


 これは呪いじゃない?

 外の世界はどうなっている?

 どうしてイルベルトは話してくれない?

 突然のリセット。

 その条件とは?

 夜半に感じる壁の崩壊音。

 風穴とは、死の霧はどうなる?

 殻を破ったリズ。

 彼女への気持ち。僕の気持ち。


 あらゆる影がまだ、その姿を見せてはくれない。このステージを望む客席の奥で揺らめいて、黒に徹している。

 自分の声の余韻が脳に響き込む。

「だけど関係ない。この呪いを終わらせる為のピースはもう……」

 ここに居るみんなで、村のみんなで、あの壁を越えた“明日”に行く。

 あとはイルベルトから、死の霧を越える為の“ズーのウロコ衣”をどう手に入れるかだけだ。

 突然のリセットが起こるよりも早く、僕らは全てを終わらせて見せる。


 ――流れていく音の煌めきが、雄大なる大河となって、僕たちの夜空に掛かる壮大なる光の川オーロラに輝きを散りばめた。

 揺れて、流れて、流動体のように変わる煌びやかを――僕らは圧巻と、ただ眺める。

 おそらく最盛期とも思われる一人の生涯の栄華がそこに花開いている。


 こんなに楽しい夜は無い。こんなに晴れやかな気持ちは無い。リズが居て、お母さんが居て、みんなが笑っている。僕らを八年もの間忘却させ続けたこの呪いの終止符が、もうそこに見えているんだ。

 あらゆる謎が残されていても、その核心に刃を突き立ててしまえば結末は同じだ。

 失敗したって何度でも挑戦してやる。屋根裏に残した痕跡は残り続けるんだ。何度リセットされても僕らはまたこの事を思い出す。

 大丈夫……同じ時を繰り返し続ける僕らには、があるんだから。


 踊る。リズと踊る。スノウとも。僕は夢想の中で、素晴らしき生の絶頂を感じ得る――

 いつまでも、いつまでも――変わらずに、ずっと……


 緩やかに、そして優雅に、船に揺られるシーンに戻る。

 このドラマチックなる恋が生涯続いていくと信じ、そこからはただ、二人だけの緩やかな時間が流れていく……

 

 時に、リストの「愛の夢」には歌詞がある事を知っているだろうか?

 その歌詞は、こんな書き出しで始まり、最後にこう繰り返して終わる――


 おお、愛しうる限り愛せ!

 愛したいだけ愛せ!

 その時は来る その時は来るのだ

 キミが墓の前で嘆き悲しむ時が


 ゆったりと変わり、何処か甘受する様に、潰えし最期の瞬間を想起させたまま……

 終わりし時に、あの頃の輝きを微かに覗かせて――スノウの奏でた夢は、その生涯を終えた。


 楽想が終わると、村のみんなのスタンディングオベーションが待ち受けていた。煌めき目元に止まない喝采。

 天窓からの薄明かりに照らされた天使を――

「スノウなのね……」

 リズは、とろけるような視線で見上げ続けている。


   *


「私、変われるかもしれない」

 リズはそう言った。酒場の前、ランプの下で行き交う人々の影が家に帰っていく雑多の中で。

「アナタのお陰よ……大嫌いだった、意気地なしの自分から」

 村の何人かがリズに声を掛けて雨の中に消えていった。これからよろしくね、だとか。明日畑を教えてやるとか言ってみんな微笑んでいる。僕らはそれを何も言わずに眺めていた。

「ありがとうみんな……また、明日ね」

 じっくりと間を置いてリズは手を振り返していた。その刹那に何を思っていたかを知っているのは、今レインコートを深く被り、雨の中に佇んでいるスノウと僕だけだ。

 やがて喧騒は鎮まり、僕とリズの二人は額を突き合わして俯き合った。音を立てて跳ねる水飛沫の中で、話し出したのはリズが先だった。彼女の顔を目と鼻の先に、きっと赤らんでいるであろう鼻先を隠すようにチラと見上げる様にする。

「私ね、この繰り返しを終わらせたいって思った」

「リズ……」

「ずっとこのままで良いって思っていたのに、変だよね。今はもっと変わりたいって、そう思ってる」

「変なんかじゃない。変わろうと思えたのは、キミ自身の成長だ」

 するとそこで、僕の首を捕まえてリズは言った。至近距離にある蒼穹の様な彼女の虹彩に、僕の灰色が混ざり合う。

「私ねレイン、いつまでも子どもでいたくない」

 その言葉は何故か、僕の心にグサリと針を突き立てる。

「私、もう弱かった頃の自分には戻りたくないの。みんなと一緒に“明日”に行きたいんだ」

 僕らは頷いて、彼女の決意を確かに受け止める。開いていた掌を握り、ピョンと飛び跳ねたリズは八重歯を見せて微笑んだ。

「スノウのピアノ、本当に凄かったわ。私、あんな風にピアノが弾ける人を尊敬する」

「うん、そうだよね……スノウは凄いんだ、本当に。僕なんてまるで、彼には敵わない」

「凄いのはアナタもよ、レイン」

「え、僕? どうして?」

「……」 

 不可解な沈黙が僕らの間に流れたその時、お母さんが僕らを呼ぶ声に気付く。

「もう、行かなくちゃ」

「うん、また明日ね、レイン、スノウ。明日も同じ時間に行くわ。また卵係を手伝わなくちゃ」

 リズは変わる事を願い始めた。彼女にとっての進歩であるその結果を、僕は素直に嬉しいとそう思える。

 ――だけど、僕は自分自身の事はわからないままだった。

 変わりたいけれど、変わりたくない。成長したいけれど、大人になりたくない。知りたいけれど、都合の悪い事は知らないでいたい。“明日”を迎えたいけれど、と変わらずに居たい。

 二律背反としたこのモヤは……霧みたいに曖昧なこの感情は、僕らが子供だからこそ抱く葛藤なのだろうか。

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