“二日目”

   二日目


 微かな朝陽を小窓の向こうに見つめ、僕はスノウと一緒に薄暗い屋根裏で目覚めた。穴が開きそうなボロの天井を見上げ、僕は溜息と共にこう漏らす。

「全部、夢だったら良かったのに」

 僕がそう言ったのは、屋根裏の隅に積もったメモの山と、今に抜けそうな固い床で眠っていた自分たちの奇怪な行動に、確かな理由を覚えているからだった。起き上がった僕はポケットに仕舞い込んでいたメモを取り出して、そこに書いてある一文に目を這わせる。

・〈この屋根裏は魔女の呪いの影響を受け無い。ここにある痕跡は残され、リセット時刻を越えても記憶は引き継がれる〉

 まるで馬鹿げた夢想に取り込まれたようでもある。霧の魔女が僕らの村に無慈悲な呪いをかけたと言うなら、なぜこのようなセーフティゾーンが存在するのか。――魔女が刻の牢獄に閉じ込められて嘆く僕らを眺めて笑うためであるだろうか。

「スノウ、ちゃんと昨日の記憶はある?」眠そうにしたスノウの肩を揺すると「キミが、村にとっての昨日を言っているんじゃなければね」と返答があって心底安堵する。

 スノウの太々しい表情が僕を捉える「とにかく、そこに書いてあるメモの内容を確認しよう。村が本当に、繰り返しているのかを」

 屋根裏を降りて寝室で身支度を終えた僕らは一階へと駆け降りていく。次第にジャガイモのスープの香りが立ち込めて来るのに気付いて、僕の中に渦巻いた嫌な予感に顔をしかめる。何も知らずにいた昨日までは、あんなに喜んでいたと言うのに。

「あらおはよう。早いのね」

 そう言って僕らを迎えたお母さんの向こう側に、昨日と同じ献立が三人分並んでいるのが見えた。僕らは困惑した顔のままお母さんに抱擁される。

「今日は久々に鶏肉を使ったの、今日くらいは贅沢したって、誰も文句言わないわよね」

 寸分狂わぬ同じ笑顔に、僕は内心恐怖していた。お母さんにならってテーブルに着いた僕は、神に祈り始めるのを遮って震えた瞳で見上げる。

「お……お母さん。鶏肉の入ったジャガイモのスープ、昨日も食べたよね?」

 核心をついた僕の問いに、スノウが空気を張り詰めさせたのに僕は気付いた――だけどお母さんは気さくに笑い始めた。

「何言ってるのよレイン。昨日はパンとサラダだけだったじゃない。終戦の知らせを聞いて、夢の中で先にご馳走でも食べてたの?」

「昨日……」腕に鳥肌を立てた僕は「今日は何日だったかな」と囁くように聞いた。

・〈終戦の知らせを受けた翌日(××年十二月二十四日)を村全体がループしている〉

「十二月二十四日よ」

 青褪めた僕に気付かずに、お母さんはケタケタと笑った。

 窓の近くで小鳥が鳴いて、風が流れ込む……


   *


 昨日終えた筈の卵係を請け負い、僕らはまた曇天の空の下を歩いていた。

 まるでそう定められているかの様に、昨日見かけた村人たちが順番通りに僕らの視界に飛び込んで来る。同じ表情で同じ言動を繰り返す彼女たちを前にしながら、スノウは気味が悪そうに言った。

「同じ演劇を繰り返す、糸で操られたマリオネットみたいだ」

 スノウの言葉には否定出来ないものがあって、黙った僕の背中には冷たいものが伝っていった。

「よう卵家」予想通りに、庭先で干し肉を下ろしたセレナは僕らにそう声を掛けた。風に乗った木の葉にくすぐられ、思いっ切りくしゃみをしてから、くすぐったそうに鼻先を掻いている。

・〈人も動物も環境も、あらゆる偶然や思考さえも、一日を同じルーティンの様に繰り返し続けている〉

 またもや立証されてしまった一文に内心肩を落としながら、僕は意を決してセレナに詰め寄る。スノウはこんな状況でも僕の背中に隠れていた。

「うわっと、なんだよ突然!」突如詰め寄られたセレナは驚いて干し肉を落としかけてたけれど、僕は構わずに続けた。

「昨日僕らは何をしてた?」

「……はぁ?」

「スノウのピアノ、覚えてるよねセレナ!」

「どうしたんだよ……ピアノを演奏すんのは、今夜の夜会でだろう?」

 心配そうにしたセレナの表情から顔を背けて、僕は項垂れた。やはりセレナもお母さんも村のみんなも、昨日の夜会での記憶を忘れ去っている。一日で全ての記憶を忘れ去ってしまう彼女たちにとっての“昨日”は、どれだけの月日が経過しようとも、戦争の終結したあの日なんだ。

「セレナ、信じられないと思うけれど、聞いて欲しいんだ。僕らは、この村は……繰り返しているんだ! 魔女との戦争が終結した次の日、夜会のある今日というこの日を、何度も!」

 鬼気迫る様相の僕らを認めて、一度は荒唐無稽な話しを腹に落とし込んだ様子のセレナであったけれど……

「ぷっは! なんだ、まだまだガキンチョだなぁ、変なごっこ遊びも大概にしろよな」

「ごっこ遊びなんかじゃ――」

「ああ〜はいはい。わかったわかった、こりゃ陰謀だー大変だなぁ。んじゃ、夜会でな、ちゃんと卵は届けるんだぞ。オムレツが出て来なかったら、ぶっ飛ばすからな」

 腹をよじってひとしきり笑った後、セレナはひらひらと手を振って僕らを追い払った。決死の思いの告白が簡単にあしらわれてしまった事に憤りを覚えて、僕らは道ゆく村人にも繰り返しの真実を伝えた。けれど誰も僕らの話しに真剣に取り合わなかった。

・〈僕らの話しは相手にされない〉


   *


 夜会に向けて楽しそうにしている村のみんなを横目に、僕らは酒場へと卵を送り届けた。

「やっと来たね、奥に運んで頂戴」

 グルタに言われた通りにした僕らは、帰りに彼女に投げ渡されたリンゴを受け取った所で瞳を上げた。すると僕らが話し出す前に、彼女は肩をすくめて大仰に言い出した。

「なんだいなんだい、暗い顔しちゃってさ。戦争が終わったんだ。今夜にはご馳走にありつけるパーティがあるんだよ? 食欲が満たせるんだ、こんなに喜ばしいこと、他になにがあるってんだい」

「ねぇグルタ、僕らの話しを聞いて欲しいんだ」

 そこまで言うとグルタは眉を八の字にして、あからさまに面倒くさそうな仕草を披露した。額には何重にもなったシワが刻まれて、ダブついた顎を上げている。

「アンタねぇ! さっきパンを届けに来たエリサから聞いたよ、妙ちくりんな遊びに私を巻き込むんじゃないよ。私は夜会の調理担当なんだよ、忙しいんだ」

 相変わらずのぶっきらぼうな口振りに肩を落とした僕は、溜息を吐いて酒場を後にしていく。

 空っぽのカゴを持ってトボトボ大通りを歩いた。魔女の呪いのことなどつゆ知らないみんなは、朗らかに笑い合って未来を信じて疑っていない。

「僕らが大人だったら、みんなに話しを聞いてもらえたのかなぁ」

 そう僕が言うと「このままだったら、僕らはいつまでも子どものままさ」と返って来た。スノウの言う通りだ。無いものをねだったって仕方が無いんだ。今ある状況で、この呪いに立ち向かわないと何も変わらない。

 するとそこでスノウの視線が遠くへと投じられた。向こうに小さいミルクタンクの影が見える。そこで僕は閃く。大人はダメでも、僕らと同じ子どもならこの話しを信じてくれるのでは無いかと。

 程なくすると、ヤギのミルクを頭に抱えたティーダが僕らの前に現れる。走り去って行こうとする彼を遮るように、僕は道を塞いだ。

「待ってティーダ!」

「うわっ、レイン危な――っ」

 バランスを崩したティーダと衝突して、ミルクまみれになって倒れ込んだ。やってしまった、と言うのを口にしないでもわかる表情で、右膝を擦りむいたティーダが体を起こす。

「いてて、なんてことするんだよレイン! ミルクが無かったら夜会が台無しじゃないか。あぁ〜ママに怒られる」

 頭からミルクを被った僕は、狼狽するティーダの肩を掴んで必死に訴える事を先決した。

「どうか僕らの話しを信じて欲しいんだティーダ」

「え……え? 何?」

 目を丸くしたティーダに僕は事のあらましを伝える。過ぎゆく村人が僕らを変な目で見るけど、そんな事関係ない。……やがて事態の説明を終えた僕らはティーダの反応を窺う。

「それ……本当なのかレイン!」

 これまでにない反応が嬉しくて、僕とレインは視線を交わして薄く微笑み合った。だがティーダは言う。

「キミたちが、こんな嘘を言う訳がないとは思うけれど、でも……とてもじゃないけれど、まだ信じられないよ」

 そう言われ、僕はティーダに証拠を見せると言った。彼に伝えたのは、向こうに見えるあの大木のところに、やがて見たこともない仮面の男が現れて村の女たちに取り囲まれるという事。それと彼の話す無茶苦茶な話しの内容だった。

 僕らは三人井戸のヘリに腰掛けて仮面の商人を待った。程なくポツリと雨が垂れて来ると、衆目に晒されたまま、身振り手振りで一人葛藤している、手足の長細い仮面の男が歩いて来た。

「本当に来た!」

 興奮混じりのティーダの様子に、僕らは静かに頷いてみせる。そうして怪しい男の様子を眺めると、なにやら火が付いたみたいにモゴモゴ喋り続けているのに気付く。

「妙だ、誠に妙だ。理解ができない。夢を見ている? そうか、私は夢を見ているに違いない。でなければ、あの石の壁の向こうに、このようにして、牧歌的に暮らす人々の光景など見える訳がなかろう。そうか、であれば今私の目撃している景色は全て夢想に過ぎず、そこに生きているように見える人間の数々も、実態のない幻影であると思われる……」

 ぶつくさぶつくさと喋っていた仮面の男は、やがて村人に囲まれ、大木に背を預ける形で追いやられる。そして僕らが予言した通りの事を語って、「妙だ、誠に妙だ」と繰り返していた。程なく出来た人だかりで仮面の男が見えなくなると、ティーダは色を失いながら僕らに振り返った。

「……すごい、本当だ! 未来のことがわかるって事は、キミたちの言っている事は全部本当の事だったんだな、信じられないよ!」

 僕らの事を信じてくれた様子のティーダ。良かった、この繰り返しの謎に挑む者が一人増えただけでも随分と心強い。

 周囲から見たら、今晩の夜会の準備を堂々とサボっているだけにしか見えない僕らは、バツが悪いのでその場を後にしようとした。けれどそこでスノウが僕の背中を掴んだ。細い視線に振り返ると彼は耳元で囁いた。

「あの商人はいつここに来たのかな?」

 ……確かに言われてみれば変だと思った。その疑問を口にしながら、僕は難しい顔で腕を組んだ。

「……村の誰もがあの商人に見覚えが無いと言うし、僕らのメモにもあの商人の記載は無かった。あんな奇怪な男が現れたら必ずメモに残す筈なのに……なら彼はいつこの村に現れたんだろう?」

「誰も見たことがないんだから今日だろう?」

 そうティーダが言ったので僕は説明する。あの男は昨日もここで、“今日”ここに来たと言っていたんだという事を。合点がいったのかそうでもないのか、一度空へと視線を投げたティーダは色黒の肌を擦りながら口を開いていく。

「仮面の商人の言う“今日”と、僕らの“今日”がズレているってこと……かな?」

「“今日”が……ズレている?」

 小首を傾げたティーダと一緒に考える。間違いなくあの仮面の商人は、終戦の知らせを受けた日――つまり村人の言う“昨日”までは、この村に存在しなかった。まるで煙の様に現れた見たいじゃないか……彼はいつ、どのタイミングで湧いて出たのだろうか。それと彼は死の霧は無いなんて呟いているけれど、僕らのメモには既に死の霧は石の壁の外に充満していると書かれている。彼の口にするあまりにチンプンカンプンな話しの内容も相まって、ひたすらに怪しさが増していくばかりだ。そもそもからして、今日ここに来たというのも、彼のデタラメの一つなのかも知れない……なんて考えていたら、だんだんと思考が煮詰まってきた。

「あらあらレイン、こんなところでどうしたのかしら?」

「あ……フェリスっ」

 突然背後から声を掛けられて慌てふためいていると、フェリスの視線はティーダにも向いて、彼を跳び上がらせる。

「ティーダも居るわ、どうしたの、夜会の準備は?」

「あわっ、違うんだこれは……あわわ、お母さんに言わないでぇ」

 通り掛かったフェリスに目を丸くされ、僕らは一目散にその場を後にした。


   *


 雨脚が強くなってきた中、僕ら三人は村外れにある掘立て小屋で額を突き合わせていた。ソワソワした様子のティーダは、擦りむいた右の膝頭に視線をやりながら僕に尋ねる。

「今何時? 本当にミルクを届けないでいいのかなぁ?」

 スノウの懐中時計は十六時を示していた。頭を抱えるその様相から、ティーダは今更になって自分の決断の後悔をしているらしい。

「ううー、お母さんに怒られちゃうよ、どうしよう。今からでも間に合うと思うんだけれど」

「僕らだって卵を半分も届けてないんだ。怒られる時は一緒だよ」

 ティーダの反応はわからないでもない。繰り返しを確信してる僕だって少しドキドキしているんだ。

 だけど僕には確めたい事があった。そう行動する筈であった僕らがそうしなかったら、村のみんなの行動にどのような変化が表れるか、という事だ。ミルクと卵がないんじゃディナーは台無しだ。夜会を中止するまではないでも、普段とは違う事が起きる事は明白だった。僕らはとにかく、同じことを繰り返し続けるこのループから外れなければいけないんだ。

 押し黙っていたスノウが、降りしきる雨を仰いでから僕に話し掛けてきた。雨粒の乗った肩を払い、伏せた長いまつ毛が、見るともなく僕の足元に注がれる。

「そもそも、今夜の夜会には行くのかい?」

 ……その問いに悩み抜いた僕だったが、脳裏にはお母さんの涙が浮かび上がった。僕らが家に帰って夜会に出向かなきゃ、お母さんはきっと不安になる。気丈に振る舞ってはいるけれど、内心は死の霧に怯えているんだ。お母さんを悲しませるような事はしたくない。……するとそこで、僕の心情を汲み取ってスノウは言う。

「でも、明日になったらみんな忘れるんだよ? 僕らが夜会に来なかった事も、お母さんのその不安も」

 足元に出来た水溜りを靴のつま先でつつきながら、暗がりに灰の瞳が光っていた。

「そうしたら、この村の謎を解く時間がグッと増す。僕らが今すべきことは、一秒でも早く、お母さんと村のみんなを、この呪いから解放することだろう?」

 僕が言葉にひんしたその時、裏通りの方角から、木材をまとめてひっくり返すかの様な物音が起きて飛び上がる。目を剥いた僕らは一も二もなく掘立て小屋を飛び出すと、物音のした路地の方へと走った。

 空の酒樽の転がった雑多な裏通り。とうもろこしを握ったその手を強烈な巻き毛の女に捻り上げられていたのは、僕らと同い年の少女だった。黒のボロきれを着た少女の姿はみずぼらしく、傷の幾つかが肌に刻まれているのがわかる。漆黒の長髪は真っ直ぐで艶めいているけれど、泥が付いて汚れていた。そして何より彼女を象徴するのは、僅かに尖ったその耳だ。

「どうしてなんだいリズ……なんとか言いなよ!」

「……っ!」

 状況から推測するに、よりによってリズは村で一番手の早いイリータのとうもろこしを盗んだらしい。抵抗を続けるリズにイリータが手を振り上げたのを見て、僕は声を上げていた――

「やめてイリータ!」

「ん……レインじゃないかい。どうしたんだこんな村の外れで」

 イリータはリズから手を離した。立ち所に変化した柔和な目が僕らに向き始める。そして罰が悪くなったらしい彼女は、地に伏せている少女を捨て置いて立ち去っていった。

 リズは最後まで何も言わなかった。夕暮れに染まり始めた空の下で、少女は青い宝石のような瞳を上げた。

「なんで……?」

 彼女はそう言って僕の事を穴が開くほどに凝視し続けた。ただでさえ大きな目をさらに見開いて、鳩が豆鉄砲を食ったような表情を続けている。そんなに僕らの行動が意外だったのだろうか? 未だ僕を見つめているリズにたじろいでいると、ティーダが僕の肩を押した。

「行こう、彼女を守れたんだからそれでいいじゃないか」

 何だか後ろ髪を引かれる思いで、僕はとうもろこしを大事そうに抱えた少女から離れていった。

「助けてくれなくても、イリータは手を上げなかったのに」

 ……そんなリズの声が微かに聞こえたけれど、僕はその意味がわからないままティーダに押されてその場を立ち去る。


「で、夜会はどうするの? もうお母さんを迎えに行く時間だ」

 裏通りを過ぎ去りながら、スノウは空の向こうの雲間に見えるオレンジを眺めながら言った。

 村の中心へと続く大通りに出ると、夜会に出向く村人たちが目に入った。彼女たちの足取りはそれぞれで、微細に動く視線や声の抑揚はもう、そこで息をして考えている生者と相違なかった。

 ――みんな、とっても幸せそうだ。

 彼女たちのそれぞれが同じ演劇を繰り返し続けるマリオネットだなんて、やっぱり僕には思えない。今日の夜会を楽しみにしているであろう彼女たちに対して、ミルクと卵を運搬しなかった事への懺悔の念を覚えながら、僕は大きく息を吸い込んで振り返る。

「明日全部忘れるんだとしても、今日という一日を、みんな生きているんだ」

 ――何も知らずに、だけれど精一杯に。明日が来ると信じて……

 雨粒に濡らされた僕らは、夕日に揺れて、長さを変える自分たちの影に視線を落とす。影が二つしかないように見えた。でもそんな筈はない。確かめようと、もう一度視線を落とす頃には、雲が流れ込んで影は見えなくなっていた。地面を濡らす水溜りの反射が、僕にくだらない錯覚を覚えさせたみたいだ。


   *


「こんの、悪ガキども!」

「いたァっ!」

「ウェぇえ、ごめんよグルタぁあ」

 一度解散してから酒場に集った僕たちは、グルタの太い腕に巻き付かれてヒーヒー言っていた。何故かスノウだけ知らんぷりをしているが、それはミルク係と卵係が僕とティーダに任された役目だったからだろう。ティーダなんてお母さんにも絞られて泣きべそをかいている。うちのお母さんは村のみんなにペコペコと謝っていたけれど、全員尻を叩かれる僕ら見て腹を抱えて笑っていた。

 僕の尻をペシンと叩いたグルタは言う。

「この不良! アンタたちがサボった分の卵とミルクはみんなで運搬したんだよ! ほら、みんなに謝んな!」

 宙吊りにされた僕らが声を合わせて謝ると、また笑いが起きた。

 ようやっと解放された僕は、みんなが座った大きなテーブルに、昨日と変わらぬご馳走がしっかり並んでいるのを眺めた。賑やかになっていった喧騒の中、四つん這いになった僕は鼻を赤くしたティーダと涙目を突き合わせる。

「卵とミルクを届けなくても、メニューの一つだって変えられなかった!」

「そんな〜、レイン〜」

 魔女の呪いの恐ろしさを痛感した僕らは、みんながわいわいやり始めた大きなテーブルの下にしゃがみ込んだ。するとそこにグルタが戻ってきて輪に加わった。大きなお尻を地面スレスレにして、僕らと視線を合わせるようにして座り込む。彼女の厳めしい顔を見てとったティーダは、何やら勘違いをして悲鳴を上げていた。

「なぁお前たち、どう言う訳か村長が来てないんだよ。他にも何人も欠席してる。もう十八時になる頃だ。何か知らないかい?」

 言われた僕は、沈んだ目つきでお母さんの隣に腰掛けたレインと視線を合わせる。朝セレナが言わなかったから失念していたけれど、昨日までいた村人が、リズを除いて五人――セレナの祖父オルト爺さんと、小麦屋のフィル婆さん、そして白髭の村長と、僕らより少し年下のロイド、それとキノコ屋のアンおばさんが来ていない。

 ここに来ていない人たちは一体どうしたんだろう。どんな理由があったとしても、今晩の夜会に出向かないなんて事、ある筈がないのに……

「ま、料理は余らないけどね、私が食ってやるから」そう言ってグルタは豚鼻を慣らして立ち去っていった。

 するとそこで、前に出たフェリスが声高々に言った。

「皆さん良くお集まり下さいました。これより戦争の勝利のお祝いと、共に手を取り合って、今日という夜を越える為の夜会を開催します」

 フェリスの合図でグラスを傾けあった大人たち。僕らもテーブルの上の料理に手を伸ばし、空腹に任せてしばらくみんなと騒ぎ合った。浮ついた様子のティーダが僕らに寄って来る。

「すごいよレイン! 僕、こんな……こんなに沢山シチューが食べられて幸せだよ!」

 そうは言っているけれど、ティーダのスプーンはあまり進んでいなかった。無理に明るく振る舞っていた賑わいはじきに途切れ途切れになっていき、沈黙が長引いて、やがて食器を鳴らす物音だけになった。一人二人と食事の手さえ止めていく。

 ――理由はわかっている。みんな喉を通らないんだ。刻一刻と忍び寄る死の恐怖に怯えて。

 誰かが皿を落とすと何人かの顔が青褪めて、肩が飛び上がるのが見えた。静謐せいひつとなった室内で、押し殺そうとする涙の声を聞きながら、僕はみんなへと振り返る。

 ――こんなの保つ筈がない……。

 泣くまいと必死に堪えながら唇を噛んだフェリス。テーブルの下で拳を握り、しかめた眉を震わせるセレナが痛々しくて見ていられない。

 ――たとえ一日で、この恐怖も全て忘れ去るのだとしても……

「心が、保たないよ……」

 忘れていても、深い悲しみや恐怖の感情はきっと、僕らの胸の何処かに蓄積されている。全てを忘れているが故に、それは鮮烈に、それぞれの心を痛め付けているんだ。毎日、毎日毎日、こんな……感情の起伏を。

「大丈夫……」

 絶望の淵。ただ一人平静のままスノウは立ち上がった。すると助けを求めるかのような声音で、ティーダが小さな口を押し開いていた。

「いってらっしゃい」

 彼の視線は僕に向いていた。……いや、僕の背後で壇上に向かう、スノウの背中に囁きかけたんだ。

 暗い暗い闇の中に立ち尽くす白銀の天使。ピアノの前に腰掛けたスノウは、天窓から射した薄い月光に照らされて、まるで血の通っていないかのように白く、薄く瞬いた指先を振り上げる――

 強く、これ以上ない程に力強く奏でられた楽想は、僕の予想を裏切る事になる。


 フレデリック・ショパン『練習曲作品10−12』より――「革命」


 沈み込んだみんなの心を、屈強なる力で突き上げ、鼓舞するが如く、

 スノウの熱が旋律に乗って溢れ出す。

 彼の張り詰めた指先を見ればわかる。忙しなく動き回る左手に続き、その右手には比類無き力が込められている――

 それはまるで、悲嘆に暮れる戦果の都で、

 名も知れぬ勇猛が、民に革命を促しているかのように、

 階段を転げ落ちるようにして奈落を覗き、

 苦境を受け入れようとしている民に、反旗の狼煙のろしを上げるかのように――

 革命を起こす刹那の心情を、未来を勝ち取る蜂起ほうきの瞬間を思わせた。


 ハッと顔を上げていく面々を見ると、強い楽想にその背を押され、この境遇に打ちのめされまいと、奮起していく女たちの顔が見えた。

 スノウの打ち出す熱が渦巻き、このホールを飲み込んで、僕らの心に火をつけていく。

「魔法みたいだ……これが、音楽の力なんだ」

 スノウの演奏が村人たちに変化をもたらしている。僕らの声や行動が届かなくても、スノウのピアノは違う。彼の奏でるピアノの旋律は、聴いた人の心を打つんだ――

 みんながメロディーに酔いしれ、勇気を奮い立たせていくのを圧巻と眺めたまま――何故かこの時、僕の頭に一つの疑念が舞い込んだ。流動体の如く流れ去っていくメロディにさらわれ、思考が目まぐるしい濁流に飲み込まれていく。

 ――僕らどうしてこの日をループし続けるんだ。魔女はなぜこの日を選んだ、どうしてこの日にリセットが発生する?

 流れるような炎のうねりの中で、漠然とした不安が僕の背に取り憑いた。

 そこに存在する不明瞭なる気配が、僕の耳元に、混沌の道筋を示唆する。

 ――今日という日は、僕らが死の霧に飲み込まれて死ぬかも知れない日だ。

 偶然じゃない。“今日”この日は、僕らの命運を分つ決定的な一日だ。

 メモに記した一文が呼び覚まされる――

・〈これら全てが、霧の魔女によって仕向けられた呪いである〉

 ――そう……魔女の残した死の霧呪いが、僕らを襲うのだ。

 合致した条件に、仮面の商人が呟いた言葉が蘇る――

『全て夢想に過ぎず、そこに生きているように見える人間の数々も、実態のない幻影であると思われる』

 ……今、確かに感じる魔女の気配を背に、ゾクリと肌にあわが生じる。

 そうしてこの瞬間、あってはならない一つの仮説が僕の脳裏に浮上する――


「僕らはもう、? 延々と死の淵を彷徨い歩くように、?」


 リセットとはつまり、死の霧が村に流れ込み、この魂が尽きる瞬間を意味しているのかも知れない……

 ――これが魔女の呪いであるのだとすれば、僕は、僕らは……

 そこで演奏が終わり、酒場を震わす歓声が巻き起こった。拍手の喝采は鳴り止まず、村中に響き渡る喜びの声は止むことが無かった。

 音楽に勇気を貰い、また騒ぎ始めた彼女たちの姿に、もう絶望の色は無い。


   *


 夜会を終えた帰り道、興奮冷めやらない声に包まれた中で、僕はお母さんの手を握ったまま、ジッと足元を見ていた。

「今日はすごい演奏が聞けたよ! また明日ね、レイン」

 ティーダはそう言って、頬を好調させた笑みを僕に向ける。首を振った僕は、活気の無い声を彼へと向けた。

「ダメだよティーダ。言っただろう、今夜はうちで一緒に眠るんだ。出ないとキミは、また今日のことを忘れて――」

 愛くるしそうにティーダの頭を撫でた彼の母親が、僕に困ったような表情を見せる。

「ごめんねレイン。もっと遊びたいのはわかるのだけれど、今夜だけは、それぞれの家庭で過ごすべきだわ」

「でも……」

「また明日。明日を迎えられたら、またティーダと遊んで頂戴」

 そう告げて、ティーダは母親に手を引かれて夜闇に消えていった。結局ティーダも僕らのごっこ遊びに付き合っていただけなのだと、その時悟る。

 ――やっぱり僕らが何をしたって、訪れる結果は変えられないんだ。

 僕は俯きながら帰路に着く……


   *


 お母さんとの長い抱擁を終えた僕らは、抱き寄せるままに告げられる。

「おやすみレイン、それにスノウ。明日もきっと同じ一日が来る。頭の中でスノウのピアノを繰り返すの。そしたらすぐに眠りにつくわ……心配しないで」

 昨日聞いた台詞を繰り返すお母さんに、僕は強張った笑みを返すと、スノウと一緒に二階の寝室へと向かっていった。

 扉を開けるや否や、着替えることもせずにベッドにうつ伏せになった僕にスノウは何も言わない。ただ僕の頭の側に腰掛けると、かすように僕の髪を何度か撫でる。

「着替えないの?」

「……明日になったら、服も全部着替え終わってるんだろ」

 依然顔を上げていないので、スノウの表情は窺い知れないけれど、いつものように平静としている確信があった。

 僕の思惑を全て悟ったらしいスノウは、部屋に灯したランタンを消して、床頭台の蝋燭の火だけを残した。彼は寄り添うように僕の側に寝転んでシーツをたくし寄せる。

「ここで眠るんだね。いいよ、キミがそう決めたなら」

 スノウはそう言った。そこに感情がないかのように淡白に。

「怒ってない、スノウ?」

 僕の背後でスノウは「レインが決めたことに、僕は従うよ」と囁いた。

 やがて消灯の鐘が鳴ると、スノウの指先が蝋燭の火を消した。寝室は闇一色に染まり、静まり返った僕らの耳には、窓に打ち付ける雨音だけが続く。僕はスノウに向けて自暴自棄になったこの心情を吐露する。

「変わらないことを、僕らは望んでいるんだ。悲惨な結末を見るくらいなら、この繰り返しの中で、何も気付かないでいる方が幸せじゃないか」

「…………そう」

「この呪いを暴くことが、破滅に繋がっているんなら」

「……」

 窓を打ち、大地に水滴が垂れ落ちる音が、世界を支配する。

 スノウは月明かりの下で、開いた掌を眼前に突き出して、灯った灰の眼差しをぼんやりとそこに注ぎ続けていた。彼の考えている事はわかっている。悲しいだとか、悔しいだとか言って抗議すれば良いのに、彼は黙って、自分のを心の奥底に仕舞い込んだんだ。いつだってそうなんだ。彼は決して僕を否定しない。僕の背後にピタリと付いてくるだけだ。

 スノウの夢は、を奏でる事だ。譜面はもう頭に入っているらしい。眠りに就く前に、もう何年も、ああして夢想しているのがそれだ。

 ……だけどあの曲を奏でるには、スノウの手は余りにも小さ過ぎるんだ。

 譜面に求められている鍵盤に指が届かない。

 つまり彼は成長を望んでいるんだ……明日の来ない、この繰り返しの中で。

 もう誰も声を上げない微睡まどろみの中で、僕は今日の出来事を振り返る。

 何故だろう。悲しみに暮れるみんなの様子ばかりが思い起こされる。

 そのせいかいつまでも深淵に辿り着けなくなった僕は、記憶の中にある、今日限りで消えるメモリーを再生した。

 ――こんな毎日が、いつまでも続いたらいいね。

 ――僕らはずっと二人で一人だ。

 ――置いていかないで、スノウ……。

 ――また、思い出したんだね……レイン。

 ――でも、明日になったらみんな忘れるんだよ。

 ――今日という一日を、みんな生きているんだ。

 ――心が、保たないよ……。

 ――いってらっしゃい。

 ――忘れていても、深い悲しみや恐怖の感情はきっと、僕らの胸の何処かに蓄積されている。

 ――明日もきっと同じ一日が来る。頭の中でスノウのピアノを繰り返すの。


 瞬間、ショパンのつづった「革命」のメロディが、僕の脳細胞を掻き鳴らしていた――


 頬を引っ叩かれるような衝撃に襲われた僕は、シーツを蹴り上げ、飛び起きていた。

 驚いた様子のスノウを揺すり、再び灯した蝋燭の火で、彼の生白い顔を照らす。

「やっぱりダメだ。僕らの望んだのは変わらない今日じゃない。変わらないなんだ」

 ――僕の仮説が確定した訳じゃない。たとえこの先に、さらなる暗黒が待っているのかも知れなくても、僕らは不安に押し潰されそうな、こんな毎日を望んでるんじゃない。

 寝ぼけまなこで僕を見上げたスノウは、一度瞼を瞬き、細い目のまま歯を見せて笑った。


 屋根裏に移った僕らは、今日までにあった出来事をメモに記してから、疲れに任せて眠りについた。

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