荒野に立つ紳士 ROUND3

 ……怖い男だ


 ロナルドは、改めて雄吾という男に感嘆を覚えていた。

 どれだけ自身が試合の流れを掴んでいようと、目前に立つボクサーを侮ったりなどしない、それがロナルドという男だった。

 リングに上がって試合が始まれば、相手が敗北を喫するまで気を緩ませることなど絶対にしない。

 勝負がついていないにもかかわらず確信を抱くのは敗北への一歩である──その事を十五年以上に及ぶ長いキャリアを踏破してきた男はよく知っていた。

 リングチャンプになった以上、無様な敗北など決して許されない。

 何より、ロナルドには夢がある。

 このボクシングという勝負の世界で形にしたい夢が、男にはあった。


『夢』──火星に本来あるべきボクシングを取り戻し、いずれは地球のレベルをも超える、それが男の夢だった


 火星のボクシングは未熟だ、ルールも何もあっちゃいない殴り合いでしかない代物がそこかしこのリングで行われている。

 リングチャンプとしてロナルドが君臨するこのリングも、かつては例外では無かった。

 このリングで、ロナルドの父親は片目を失った。

 緻密な計算と戦略、積み上げてきた繊細な技術を持ち味とした本来のボクシングに負けそうになった相手が、拳に親指を立てて右の目を抉ったのだ。

 火星のリングではこういうことも珍しくはない、勝負事に熱くなる気象の荒い男たちが集うのもリングの特徴だ。

 しかし、ロナルドの父親は勝利した。

 その試合が人生最後の試合となりながらも自身のスタイルを曲げずに貫き通し、勝利したのだ。

 ロナルドは、そんな父親を尊敬している。

 父親から受け継いだ打たれずに打つを理想とする、本来のボクシングを誇りに思っている。

 そして、火星を愛していた。

 たとえ火星が負け犬の星と言われようと、生まれが火星ならば育ちも火星だ。

 貧困と過酷な労働の中にあっても、手を取り合って共に生きてきた火星の人々をロナルドは知っていた。

 父親と自分を愛してくれる火星の人々の温かさに、何度も救われてきた。

 故郷をどうして愛さないでいられるか。

 地球が全てではない。火星であってもボクシングは地球を超えることができる。

 それを証明するために、ここまでやってきたのだ。

 リングチャンプとなり、かつて父が右目を失ったリングから野蛮なボクシングを淘汰した。

 さらに名を挙げれば、火星中に本来のボクシングというものが広がるはずだ。

 その日が来るまでは、敗北という二文字を己に許さない。

 勝負の世界では、リングを囲む観客が思っている以上にシビアだ。

 勝者であり続けなければ、ロナルドの夢は現実にはならない。

 勝者が体現するものこそが、勝負の世界では唯一絶対の真理であり真実。

 なればこそ、ロナルドは常に勝者であらんことを己に課した。

 それも卑怯な勝者ではなく、威風堂々とした勝者だ。

 父から受け継いできたボクシングの理想を体現したスタイルで、真正面から相手と対峙し、勝利を掴む。

 それでこそ、彼は夢へと一歩、また一歩進んでいくと信じていた。

 そのために、リングチャンプとなって随分と経ち身体が三十路の下り坂に入ろうと、夢を現実のものとするために日々のトレーニングを欠かさなかった。

 食事も徹底して管理し、自らが十全のボクシングをできる身体を作り続けてきた。

 自信に満ちたガワの下には長年培ってきた血の滲む努力と、そして、常に糸を張るような緊張感で満ちていた。

 誰が相手であろうと──強者からそこらのチンピラに至るまで、ロナルドは絶やさない。

 勝ち続けるという難しさを、男は痛い程知っている。

 勝負を挑み続ける以上、敗北は常に自身の背後に迫っている。

 振り切るのは難しい。

 故に、男は驕らない。

 己がリングに上がった男達を、リングチャンプは加減無しに沈めていった。

 リングで勝利を掴み続けんと最善を尽くし、全身全霊をもってリングチャンプという座を守り続けていたことが、何よりの結果である。


 雄吾というリング荒らしの野良犬に対しても、男の態度は変わらない。


 無法者であろうが、男が為すことは堂々とした勝利ただ一つ。

 そのために、これまでの雄吾の試合の動画を仕入れ、実際に目にした三戦からも奴を研究しつくし、対策を立てた。

 奴が得意とするインファイトには付き合わず、身の毛がよだったレバーブローには様々なタイミングでカウンターを喰らわすトレーニングも積み重ねた。

 結果、第2ラウンドで奴の持ち手を封殺し、ダウンをも奪い取った。

 試合の流れは、ロナルドが完全に掴んでいると言っても過言ではない。

 だから、嬉しかった。

 奴の飢えた眼差しに目を向けてみろ、煌々と焔が揺蕩うあの瞳は、決して死んじゃあいない。

 体の軸はまだテンプルへの一撃で揺らいでいるはずだろうのに、奴の眼差しはロナルドを離さない。

 手負いの野良犬は、まだ何かを仕掛けてきそうで、腑が震えた。

 骨のある男に、久々に出会えた気分だった。

 いくつものリングを荒らしたというこの男に、元から興味はあったのだ。

 この男を倒すことができたのなら、より一層自身の夢に近づくことができるのではないかという期待も俄かにあった。

 このラウンドに至って、手応えは予想以上だった。

 背に、ゾワゾワとしたものが首をもたげている。

 奴の瞳に自分が映れば映るほど、怖気が首をもたげてしょうがない。

 何度も打たれたジャブで体の底に鉛が溜まったようなダメージがあるはずだ。

 テンプルへの一撃でかなりの消耗をしているはずだ。 

 そんなグロッキーの身体で、それを知ったことかと奴はひたすらに己が喉笛に狙いを澄ましていた。

 それも、ダウンをもらう前よりもずっと澄んでいるような眼で、だ。

 やせ我慢だとかいうちっぽけな類ではない。

 威勢だけは一人前の怒りに燻み切った畜生でもない。

 ロナルドと同じ歴戦が狩人の眼だった。

 ここにきてそんな眼をできるこの男に、どうして恐怖を覚えないでいられるか。

 諦めの悪い男ほど、怖いものは無い。

 執念深い男ほど、勝利に近い者はいない。

 ロナルド自身が、そうして勝利を掴み続け、リングチャンプという高みに立っているからだ。

 

 ──いいだろう、狩れるものなら私を狩ってみるがいい

 私はリングチャンプだ

 チャレンジャーの君がまだ勝負を捨てぬと言うならば、全力をもって沈めることがリングチャンプとしての役目だ──

  

 ロナルドは、雄吾にプレッシャーを強めるようにしてジリジリと迫り、動いた。

 サイド左右にとめどなく舞うようなステップワークで雄吾の目を翻弄させ、さらに速度の増したジャブで四方から突く。

 レイピアのように鋭く、固めたガードの僅かな隙を狙った突きだ。

 雄吾は、もつれるような足捌きでロナルドのジャブの餌食にならないようにするだけで精一杯だった。

 顔面にボディと上下に意識を散らしつつ、左右からの華麗なステップを混ぜ合わせることで、雄吾自身にどう動いているのか理解もさせない。

 幾度目にもなるジャブをステップで躱したとき、背中にたわむロープの感触があった。

 振り返ると、雄吾の体はいつの間にかロープを背負ってしまっていた。

 ジャブを凌ぎつつ、なりふり構わず体力回復に努めていたことが裏目に出たらしい。

 左右のステップもジャブも、雄吾をロープ際へと誘う罠だったのだ。

 ロナルドにまんまと嵌められてしまっていたのだ、雄吾は。

 後ろへは、逃げられない。

 左右のサイドから逃れようとしても、ダメージがまだ回復しきっていない足ではロナルドのステップに追いつかれて痛手を喰らうだけだ。

 あとは、などという雄吾の次の思考をさせる間などロナルドは与えない。

「シェアッ!」

 リングチャンプが息吹く。

 ワンツーが奔った。

 凄まじい速さに、ガードごと雄吾の体がロープへと叩きつけられる。

 倒れない。

 ロープの反動にはねつけられながらも、足はまだしっかりとリングのキャンバスを掴んで体勢を保っていた。

「なら、これはどうかね──雄吾くんッ」

 ロナルドの拳が、止まらない。

 横から、上から、下から、四方から拳がとめどなく雄吾を襲う。

 連打だ。

 中距離を保ちつつ、固く閉じた雄吾の腕を突き崩さんと礫の嵐が吹き荒ぶ。

 手負いだからと手加減をする甘さなど、ロナルドは持ち合わせない。

 否、手負い故にロナルドはここぞとばかりに勝負をかけるのだ。


 勝利とは、手負いの一兎であれど全力で牙を剥くことで、初めて掴むことができるのだ──!


 拳を阻む腕と腕とに、僅かな綻びが見えた。

 そのチャンスを、ロナルドは逃さない。

 ドライブを効かせた右が躊躇いもなく突き刺さった。

 ガードを抜けて雄吾の顔面を確かに捉えた手応えがあった。

 血と汗とが弾けた体が吹っ飛ばされ、ロープがまたたわむ。


 ────グローブの向こう側で野良犬は、微かに笑っていた。


 雄吾の体が大きくはねつけられる。

 今度は勢いを抑えることができなかった。

 いや、抑えなかったのか。

 反動を使って雄吾は腰を屈めて、さらに地を蹴っていた。

 前進だ、ロナルドのボディめがけ雄吾の体が駆けた。

 腕が俄かに伸びる。

 クリンチ───

 しかし、掴めなかった。

 ロナルドも馬鹿じゃない。ロープ際に追い詰められたボクサーが何を目論むのかなど、男は容易に読んでいた。

 バックステップで雄吾の体を躱すと同時に放ったは、渾身の右スマッシュ。

 テンプルを再び狙った真っ白な閃光が、ブレ一つない軌跡を描いた。

 凄まじい速度のそれは雄吾の鼻先を──掠めなかった。

 瞠目だった。

 閃光は雄吾の伸びた前髪を揺らすだけだった。

 前進をとったはずの前足が、ブレーキを踏んでいた。

 男の眼をよくよく見てみれば、クリンチなどという逃げの一手を打つような臆病者の目をしちゃあいなかった。

 野獣の眼光だ。

 燻みが、もうこれぽっちも見えないほど澄んで、純粋が過ぎる瞬きしかなかった。

 獲物を狩ろうどころではない。

 食い散らかし、首を掲げ勝利を獲らんと牙を剥く、ギラギラとした野獣の眼光が男にはあった。

 後ろ足が、地を蹴る。

 左腕が動く。


 ────レバーブロー……!


 分かっていた。

 ロナルドにはそれが……散々見せつけられた奴の十八番が来ると、分かっていたはずだった。

 そのロナルドの反応が、置いてきぼりにされていた。

 ボディに意識を集中させるその前に、豪打は既に脇腹深く突き刺さっていた。

 重い。

 体が槍で一刺しに貫かれたようだった。

 絞り上げ密度を高めたはずの脇腹の肉が波を立てる。

 肝臓の筋膜から全身の神経に電流を流されたような衝撃に、苦悶の嗚咽を吐かされた。

 堪え、られなかった。

 一瞬、それでもとファイティングポーズをとってみせたのが、せめてもの意地だった。

 ロナルドの膝が、途端にリングに着かされた。

 ダウンだ。レフェリーは自身のリングチャンプが倒されたことに動揺を隠し切ることができなんだながらも、冷静に努めてカウントを取る。

 リング外が響めきと不安げな雰囲気に支配されていく。

 末端に至る神経まで奔る激痛に、リングチャンプらしい堂々とした面影は無かった。

 つい数分前は笑みを薄く貼っていた顔が、歪んでいる。

 食いしばったマウスピースから荒立った息がとめどなく漏れていた。

 盤上がひっくり返された。

 ニュートラルコーナーに下がっていた雄吾だったが、しかし、目に物見せてやった反撃に酔いしれる事はなかった。

 むしろ、今か今かと待ちきれぬ様子で前のめりになっている。

 レフェリーが許せば、鬱陶しい首輪を外した犬のように噛み付きに行かんばかりだ。

 当然だ、試合はまだ終わってなどいないのだ。

 リングチャンプの顔は俯いてなどいない。

 表情を歪めながらも、ロナルドの瞳に闘志は失われちゃいなかった。

 肝臓という致命的な急所に重い一打をもらったにも関わらず、リングチャンプは敗北を認めてもいなければ、勝負を捨てる気もさらさら無いと語っているようだった。

 己が敵を視界から外すまいと雄吾を見据え、ロナルドは立ち上がろうとしていた。

 

 そうだ、その眼だ……

 その眼と拳が、俺を覚ましやがったんだ

 ここで終わってくれちゃあ、困るんだよ……!


 雄吾に、もう怒りと言う燻んだものは無かった。

 脳髄まで沸騰するような嫌な熱は、とっくに失せていた。

 キャンバスには、まだ乾ききっていない赤い雫が夥しく染み付いていた。

 雄吾の血だ。

 頭に上った血は、すっかり流れ落ちている。

 流してくれたのは、全てあのリングチャンプの拳だった。

 見た目通り、相当なグロッキーだった。

 立っているのがやっとの死に体だった。

 残っているだけの気力を振り絞っても、あまりにままならない体で嫌になった。

 拳を繰り出すことも許されず、リングチャンプが放つパンチを堪えるばかりだった。

 観客にとって、これほどつまらない試合はないだろう。

 誰もが既に勝敗は決まっているようなものに見えていた。

 もうダウン寸前のボクサーが諦め悪く足掻いている様など、彼らには興味もない。

 それが、自分達のリングに泥を塗り土足で踏み荒らしていくリング荒らしならば、尚更だ。

 潔く負けを認めた方がずっと男らしいぞ、などと冷やかす客もいたほどだ。

 それでも、負けるのだけは嫌だった。

 負けたからこそ得る物があるとほざく人間もいるだろうが、雄吾はどうしたって嫌だった。

 勝ちを獲らなきゃ、このあとまたずっと負けた自分に嫌気がさす。

 折角食った肉の味も不味くなる。


 そもそも、勝ちもしねえで肉なんざ食えるかッ

 負け犬に食らう肉なんざありゃあしねェ

 嫌気どころか、俺は俺をブッ殺したくなるんだよッ

 勝ちを獲らなきゃあ、俺はしょうがねぇンだよ……ッ!


 そんな、執念だけだった。

 どうしようもない執念だけで、男は体を動かしていた。

 その雄吾を、奴の眼は最後まで一端の敵として映していた。

 何度も向けられた狩人の眼差しだけじゃあない、拳もまた証拠だった。

 どの拳も、生半可ではなかった。

 一秒でも気を張っていなければ、膝が落ちる。

 一瞬でも体から力を抜いてしまえば、もうこの試合では立つことすらできない。

 喰らった拳のどれもに、油断だとか嘲りだとかいう言葉はなかった。

 手の抜きどころなどどこにも無い、本気だった。

 そこにいるボクサーは『まだリングに立っている』、その意味をよく理解している拳だった。

 昔っから散々拳を喰らい続けてきた雄吾には、分かる。

 拳に嘘はつけない。

 拳は口以上に物を語ってみせる。

 体に刻まれた痛みは、どんな言葉よりも本物だ。


『敬意を払えってんだ、じゃあねえと勝てるもんも勝てなくなるぜ?』


 もう随分と聞いていない声が脳裏に蘇る。

 やたら頭にこびりついて離れない、懐かしいダミ声だった。

 いつかその言葉を聞いた時は知ったこっちゃあねえと右から左へ聞き流しだったが、今更になって理解できるなんざ思ってもみなかった。

 事実どうだ、リングチャンプのあの姿勢は雄吾を侮るどころか、敬意すら払っていると言えるんじゃあないのか。

 死に体相手に慢心も油断も無く、リングに立つボクサーとして確実に沈めようとする姿は、敬意を払っていなければできやしないのではないか。

 おかげで、目が覚めた。

 奴のことを見ていたようで何にも見ていなかった己を嘲笑うくらいには、目が覚めた。

 侮っていた、そう言われても否定なんてできない。

 気に入らなさが先に立っていた。

 自分よりも強い者はいないとばかりの自信満々なツラが、戦ってもいない自分を負け犬のように嘲笑っているような気がして、しょうがなかった。

 奴の力量も見ず、上っ面に熱が煮えたぎって目が燻んで、何も見えなくなっていた。

 今は、違う。

 強烈な一撃でダウンを奪われ、死に体で立ってなお本気の拳を喰らって、ようやく目前のリングチャンプがハッキリと見えた。

 初めから今に至るまで、自分を一端のボクサーとして認める風に対峙するリングチャンプの姿が、ハッキリと見えていた。

 その気高さに応えなきゃ、勝ちを獲るなんざたわけた話に他ならない。

 

 あァ、払ってやろうじゃねえか……テメェに敬意ってやつをよ

 それで勝ちを獲れるってんなら払ってやるよ、いくらでも……ッ!

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