第二節 Die Abfahrt

Episode.drei.日常 ver.1.1



 轟雷夜イムベル・フルメンに呼び起こされてから約一年。彼女は様々な物事を驚異的な速度で学んでいた。

 元より知識欲は強かった方だがそれにも限度はある。彼女のそれは最早、貪欲という言葉で片付けられる範囲を超えていた。自由時間は常に書物を読み漁り、徹夜をしてしまうことすら珍しくない。加えて一度興味を抱いた物への執着は凄まじく、納得の行くまで止まらないのだ。叶うならば現地へ赴いたり、実際に触れてみたいと言うのだが──それは時間的にも厳しいし、当然金銭的にも厳しい。これらの点は彼女も理解していたので、ひたすら文献を読み漁っていたのだ。


 ──しかし、感情の理解だけは遅々として進まなかった。

 彼女もそれは理解していた。だから舞台、演劇、芸術、文学作品と言ったヒトの創作物を通して、ヒトの感情を学ぼうとしたのである。けれど創作物へ触れる程、彼女の中では疑問だけが膨らみ続けていった。その疑問を解消しようとして、新たな創作物へ手を伸ばす。

 そうして幾千もの創作物へ触れた結果、喜怒哀楽の基盤に当たるモノは理解できた。けれどその先にあるもの──愛と憎しみのような相反する感情への理解は遠のいてしまったのである。

 けれど、彼女が手を引くことはなかった。今も尚、その感情を理解しようと必死に藻掻き続けている。


 ──人々が美しく、尊いモノだと謳う『愛』とはなんなのか?──


 こればかりはきっと、ヒトとの関わりの中で覚えていくしかないのだろう。喜怒哀楽の基盤を軸として、彼女なりの感情を育てていく他無いのだ。

 感情──とりわけ、愛については誰かが教えられるものでもないし、教わるようなものでもないのだから。



 話は少し変わるが、彼女と関わりのあるヒトは少ない。

 創造主しゅじんであるルーザー、普段利用する市場の店員達。そして国営図書館のリヴラという司書だ。

 そして会話をする程の仲となれば、ルーザーとリヴラしかいないのである。勿論市場の店員達とも話はするが、その内容は値段の確認や品物の調理法といったもの。そこに雑談や世間話といったものは一切含まれない。

 とはいえ、これは仕方無い事でもある。生者からすれば、帰還者レウェルティという存在は誰かの隣人だ。

 ──あれらは目的があって呼び戻された魂であり、ほんの少しだけ人間に近しい者。

 故に人造人間Frankenstein•Monsterへ向けるような感謝は抱かれない。

 保有者以外が贔屓する事はないし、余程の事がなければ邪険に扱われることもない。

 ……ただ単純に、他人へ迷惑をかけなければなんだって良いのである。

 これが世間一般的な帰還者レウェルティへの見解であり、共通の認識であった。後は目的地に合わせた衣類を纏わせ、特有の臭いを誤魔化せば何処へ連れて行こうと文句は言われない。


 それ程までに、人造人間Frankenstein•Monsterは人間社会へ浸透しきっているのだ。

 人々は感謝建前を胸に生きる事を選んだのである。怪物達はもう自分達にとって、なくてはならない存在になってしまったから。

 そうして身近な存在になった今、様々な理由で帰還者レウェルティは望まれている。

 大災厄を乗り越え、人口が回復したといえど──人造人間Frankenstein•Monsterの需要が衰える事はない。それどころか需要は増える一方であった。


 だが残念なことに、人造人間Frankenstein•Monsterに比べ帰還者レウェルティの維持費は高い。なので街中で見かけるのは基本、安魂教会アニミス•エレクシアから派遣貸し出されているものだ。その利用料は期間と用途にもよるが、概ね五十ルーブルから一万ルーブル程とされている。






 ──ある日の朝、シオは珍しく寝坊をした。

 時刻は午前六時。あと三十分もしないうちに、ルーザーは家を出るだろう。急ぎ着替えを済ませ、リビングダイニングへと急ぐ。

「ごめんなさい、マスター。寝坊した」

 扉を開き、そのままキッチンへ直行。

「おはようシオ」

「おはよ、う……?」

 そしてカウンター越しに挨拶を交わした直後、彼女は手を止めてしまった。なぜなら彼が、寝間着のまま新聞を読んでいたからである。普段であれば、既に身支度を終えてそろそろ家を出るはずだ。一瞬祝日かと思ったが、次の祝日は八日後。つまり今日は平日であり、彼は出勤日のはず。

「ねぇマスター、お仕事は?」

「今日は休み。だからゆっくりでいいよ」

「……なら良かった」

 そこからはゆっくりと、余裕を持って朝食を用意する。まずはベーコンを弱火でじっくりと炙り、水分を極力飛ばした。なんでもこうすることで、どんな安物ベーコンも美味しくなるのだとか。

 その後はサニー・サイドアップの卵とプチトマトを添えて、パンを焼けばおしまい。そんな何気ない朝食を終えた二人は、食後の珈琲を楽しんでいた。


「マスター、見たい映画があるの」

「映画?」

「H,D.Lovers──あの映画が、観たい」

 彼女が唐突に要求したのは、非常に古くマイナーな映画である。

 人と化生の交流を描いたゴシック・ロマンスであり、様々な愛のカタチを映し、問い掛ける大人向けの作品だ。

 端的に言ってしまえば人を選ぶ作品であり、決して万人受けするような作品ではない。故に初回上映以降、再上映の機会に恵まれていなかった。それ故に、ある種幻の映画とさえ呼ばれる始末である。

「……本当に?」

「今やってるアレ、滅多に、やらない」

 急に側へ寄って来たかと思えば、彼女は突然自身の胸元へ手を突っ込んだ。そしてややあってから、折り畳まれた一枚のチラシを取り出し彼へと手渡した。

「えっと、たしかにそうなんだけどもさ。

 そのチラシは一体どこから出したか教えてくれないか、シオ?」

右乳房みぎむねと、下着ブラジャーの隙間。そこに、隠してた」

 恥ずかし気もなく答える彼女を前に、若干の目眩を覚えたらしい。彼は額に手をつくと、一つ大きなため息を漏らした。

「……シオ、それは人前でやらないでね」

「なぜ? 大事なものはここに隠すって、映画でやってた」

「それは映画だから許されるものなんだ、シオ。

 それに公序良俗コウジョリョウゾクに反する可能性があるから止めたほうがいい。あと自分の身体とはいえ、人前で胸を触るものじゃないよ」

公序良俗こーじょりょーじょく……うん、わかった」

公序良俗コウジョリョウゾクね。凌辱りょうじょくだとまた違ったものになるから間違えないように」

「良俗、覚えた」


 不安を胸に抱えつつ席を立つと、彼は最寄りの映画館へと電話をかける。件の作品上映スケジュールを確認し、座席の予約を行った。大人一枚と屍者一枚の合計は、三千六百ルーブルとのこと。ここ一年で少しばかり値上がりしていたようだ

「予約、とれた?」

 受話器を戻したと同時に彼女が話しかける。その表情に変化はないが、声だけはワントーン上がっていた。

「二人分取れたよ。時間は夕方の四時からだってさ」

「ありがとう、マスター」

 そう言って、彼女はごく自然に笑ってみせたのである。いつかのように、指で口角をもち上げずに。あの時よりも可愛らしい笑顔を見せたのだ。


 ──それから暫し時間は経ち、午後二時を迎えていた。

 上映開始まで残り二時間となっても、二人はまだ自宅に居たのである。

 屋敷から映画館までは、大体五十分程。なので余裕を持っていくのなら、もうそろそろ出立しなくてはいけないのだが──

「マスター。こっちなら、いいの?」

 身支度を整えた彼は、彼女の部屋で頭を悩ませていた。

 実のところ、劇場へ彼女を連れて行くのは初めてなのだ。それにあたり、どんな服装にするかで一時間以上悩んでいる。

「多分……? うん、大丈夫なんだろうけど」

「けど?」

「自信がないんだよ……もう少しフォーマルな方がいいのかな。それともこれくらいのカジュアルさでいいんだろうか?」

 フォーマル色の強い服装をした彼女が小首を傾げ、難しい顔の彼に問いかける。恐らく大丈夫と答えるものの、その声には全くと言って良い程に自信がない。彼が悩み困っているのは、誰の目にも明らかであった。

「マスター………マスター。もう寒いから、そっちがいい」

「えっ、これかい?」

 他候補の服を持ちながら右往左往する彼を呼び止め、彼女が指をさす。それはカジュアル寄りではあるものの、落ち着いた印象のある組合せだった。

「けどこれ、カジュアル過ぎないか……?」

「マスター、悩みすぎ」

「わかってる。わかってるんだけどさ──」

「──……貸して」

 彼女の方が耐えられなくなったのだろう。煮えきらない彼から服を強奪すると、その場で着換え始めてしまった。そんな彼女の行動に驚きつつ、彼は脱ぎ捨てられた衣類を拾い畳んでいく。

 その間に着替え終えた彼女が彼の前に立つ。その姿は先程の組み合わせよりもカジュアルながら、大人らしい雰囲気が残っていた。

 想像していたよりも良い印象だったのか、彼はその着こなしを見て固まっていた。

「これなら大丈夫。でしょう?」

「う、うん。そうだね」

 彼女はこの組合せに対し、非常に満足している様子だった。こんな風に両手を腰に当てて、胸を軽く反らすなど見たことがない。

「用意できたら行くよ、マスター」

「わかってるから、そんなに急かさないでくれ」

「マスターが、遅いだけ」

 これではもう、どちらが主人なのかわからなかった。

 窓は全て閉めただろうか。金庫の鍵は閉まっているのだろうか。他にも色々と確認を行う彼を、彼女はやや呆れ顔で眺めていた。

 そうこうしている内に、時間もギリギリとなっていたのだろう。痺れを切らした彼女は、彼の手を掴むと強引に玄関へと向かっていく。

「まっ、待ってくれシオ。まだ君の必需品を纏めて──」

「──もうまとめてある。行くよ、マスター」

 手早くブーツを履いた彼女は、ハンドバッグの留め具を外し、その中身を彼に見せる。

 化粧道具や香水、簡単な補修キットといった帰還者レウェルティの必要品は確かに詰められていた。それを確認した彼は急ぎ靴を履くと、劇場へと急いだのであった。





 ──大変長らくお待たせ致しました。十六時より七番スクリーンにて上映致しますH,D.Loversをご覧のお客様、只今よりご入場を開始致します。


 チケットをお持ちの方は劇場入口までお越しくださいませ。電話にてご予約を済まされた方は、お手数ですが発券所にてチケットを受け取ってから劇場入口へとお願いたします──


 二人が劇場へ着いたのと、ほぼ同時に開場のアナウンスが流れていた。自宅からここまで駆け足で向かった為、彼は軽く汗をかいている。だが彼女は涼しい顔のまま、彼の傍らに立っていた。

「……大丈夫?」

「なんとかギリギリだったけど、大丈夫だよシオ」

「そっちじゃなくて、マスターの方」

「少し息切れしただけだからね、大丈夫さ」

「なら、いいけど」

 と言いつつも、未だに息を乱している彼へとハンカチを差し出す。彼は礼を述べてから受け取り、額の汗を拭うと、一人で発券所へと向かっていった。

 ──余談だが、世間一般的に劇場等へ帰還者レウェルティを連れて来た場合、チケットの発券などは帰還者へと任せる事が多い。現に発券所へ並ぶ者の殆どは帰還者レウェルティ達であり、人間はルーザーの他に片手で数えるほどしか居なかった。


 ──あらみて、最近の屍者レディーレは随分と良いご身分なのねぇ──

 ──まぁ本当。もしかして婦人レディと勘違いしてらっしゃるとか?──

 ──やだ、笑わせないで頂戴。屍者レディーレ私達レディは別物なのよ?──

 ──ちょっとしたジョークよ、そこまで本気にしないでくださいな──


 ふと、そんな会話が彼女の耳に入った。今迄であればスルーしていたのだが、この時ばかりは何故か気になったらしい。彼女は周囲を見渡し、発言者を探していた。

 しかし劇場のエントランスホールは多くの人々で賑わっており、声を頼りに探すのは不可能に等しい行為である。

「ごめんシオ、待たせちゃって」

「──……」

「シオ?」

「なんでもない。いこう、マスター」

 余程人探しに夢中だったのだろう。二度目の呼びかけで、彼女はようやく反応した。そんな彼女に違和感を覚えつつも、彼は手を取り劇場の入口へと向かっていく。

「シオ、何か気になるのかい?」

「……ううん。なんでもないから、気にしないで」

 指定された席についても、彼女は何処か上の空といった具合である。彼はそんな彼女に若干の戸惑いを覚えつつ、静かに上映開始を待った。



 ──本日はイムベル・シネマにご来場いただき誠にありがとうございます。


 上映に先立ちまして、ご来場のお客様各位にお願い申し上げます。


 客席内でのご飲食はお控えください。また、全席禁煙となっておりますことも合わせてご了承ください。


 アラーム付き腕時計等は他のお客様のご迷惑となりますのでアラームの解除をお願いいたします。

 また、許可のない撮影等を固くお断りいたします。

 その他不審な行為、及び迷惑行為を確認されましたら劇場スタッフまでお知らせください。


 それでは、間もなく上映開始となります。

 素敵な一時をお過ごし下さい──


 アナウンスが終わると同時に、上映開始を告げるブザーが鳴り響き、館内の証明が落とされた。







 ──……以上を持ちまして、本日の上映を終わりとさせていただきます。

 場内にお忘れ物のないよう、お気をつけてお帰りください。

 都心部への送迎車をご利用の方は、正面玄関口より左手へお進みください。個人送迎車をご希望の方はエントラス総合受付へお願いたします。


 本日はご来場誠にありがとうございました。

 またのご来場を職員一同、心よりお待ちしております──


 終演のアナウンスと共に、観客たちは帰路へとついていく。劇場最上段の中央付近に席を取っていた二人は、最後に出るつもりなのだろう。座席にかけたまま、ぼんやりと出口へ吸い込まれていく観客を眺めていた。

「そろそろ出ようか」

「うん」

 一番最後に劇場を出ると、ガス灯が街を照らしている。強くはないが弱くもない。そんな心地よい明るさの中、街は多くの人で賑わっていた。

「……ねぇマスター。一つ、聞きたい」

「なんだいシオ?」

「マスターは、愛した人……いるの?」

 しばし歩いた所で彼女が彼に尋ね、彼はその歩みを止めてしまう。突然の事に対応しきれず、彼女は少し後ろに引っ張られた。

「マスター。急に止まるの、危ない」

「いやごめんよ、ちょっと驚いちゃってさ」

「……そんなに驚く質問、だった?」

「まぁ、うん……結構びっくりしたよ」

「そう。それで愛した相手は、いるの?」

「あぁ、勿論居たよ」

 そう言って優しく微笑むと、彼女の頭を撫で始める。それは親が子の頭を撫でるような、優しくて温かいもの。

「……どうして撫でるの?」

「さぁ? なんでだろうね」

「変なマスター」

 暫く撫でられていた彼女の顔は、満更でもないように見えた。


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