第13話
「ん……」
微睡の中を彷徨いながら、重い瞼をこじ開ける。
ふわり、と甘い花の香りがした。この香りはきっと、白百合だ。
「あら? お目覚めかしら……」
兄さん! と誰かを呼ぶ溌剌とした声がする。光に目を慣らしながらゆっくりと瞼を開けると、視界に黒髪の女性の姿が飛び込んできた。
「おはよう、気分はどう? 気持ち悪くないかしら……」
紫紺色の瞳を持つその女性は、眉を下げて心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
彼女に支えられるようにして、ゆっくりと上体を起こす。どうやら私は寝台の上に寝かされていたらしい。
丁寧に整えられた室内は、年季の入った調度品ばかりだがどれも質の良いものだとわかった。修道院にしては豪華すぎる設備だ。
……修道院? そうだわ、私……。
はっとして、もういちど辺りを見渡そうとするも、鋭い頭痛に遮られてしまった。思わずこめかみに手を当てて、軽く身をかがめる。
「大変、頭が痛むのね。すぐに痛み止めを作ってあげるわ」
黒髪の女性は、労るようにそっと私の背中を撫でてくれた。温かい手だ。
「あの……ここは……」
「ここは幻の王都のルウェイン邸よ。……兄さんの転移魔法で、あなたは気を失ってしまったの。――まったく、気遣いができなくて本当に嫌になっちゃう。魔術に慣れていない女の子をいきなり転移させようとするなんて……」
兄さん。その言葉に、礼拝堂で出会った不思議な青年の姿を思い出した。
よく見れば、目の前の女性の顔立ちはあの青年とどことなく似ている。あの青年ほど人間離れした印象は受けないが、甘く整った目鼻立ちは血のつながりを感じさせた。
「私はあのひとの妹のシャルロッテよ。ここであなたの看病をしていたの。兄さんには触らせてないから安心してね」
シャルロッテと名乗った女性はにこりと微笑んだ。相手に安心感を与える笑みだ。
「ありがとうございます。シャルロッテさん。私はレイラ・アシュベリーと申します」
「――ああ、やっと名前を知れた。レイラっていうんだね、君」
甘く優しい響きを帯びた青年の声に、はっと顔を上げる。気づけば部屋の入り口には、礼拝堂で出会った青年の姿があった。
「魔術師さま……」
「できれば名前で呼んでほしいな。この街には魔術師しかいないからね」
「兄さん、女性の部屋に入るときはノックくらいして。着替えでもしていたらどうするの」
シャルロッテさんに叱られながら、魔術師さま――リーンハルトさんは寝台のそばに近づいてきた。ふたりとも仲が良さそうだ。
「リーンハルトさん、シャルロッテさん、申し訳ありません。ご迷惑をおかけしてしまったようで……」
「いいのよ。兄さんの魔力に当てられてなんともないほうが不気味だわ。一週間で目覚めてよかったわね」
「……一週間?」
シャルロッテさんの言葉に、すっと血の気が引いていった。私は、そんなにも長い間意識を失っていたというのか。
「そ、んな……」
まずい事態になった。一週間も姿を消していたら、今ごろ公爵家や王家は大騒ぎだろう。公にはなっていないかもしれないが、殿下の婚約者という立場で一週間も消息を絶つのは一大事だ。
「リーンハルトさん、シャルロッテさん。お世話になりました。お礼もできていない段階で申し訳ないのですが、私は王都へ戻らなくてはなりません」
寝台から足を下ろし、支度をしようとしたが、ふわり、と目眩に襲われてしまった。一週間も眠っていたなら無理もない。
「急に動いちゃだめよ! まだ安静にしていて?」
「しかし……」
「そう焦らなくとも、君が眠っている間に妹さんの居場所を見つけておいたよ。髪を数本追加でいただいてしまったけど、許してほしい」
リーンハルトさんは宥めるように穏やかな声を出しながら、私に地図を見せてくれた。それは王国と隣国の狭間にある小さな町の地図のようだった。
「君の妹さんって、白金の髪に空色の瞳をした子かな? この町の外れにある家で暮らしているみたいだったよ」
「ローゼが……ここに」
王都からは、深い森を抜けなければたどりつけない辺境の地だ。捜索隊の手も十分に回っていなかったのだろう。
「明日の朝、君をここへ連れて行くよ。そのあと、この町の近くにある古城に送り届けてあげる。一日に何度も転移魔法を使うよりは、君の体に負担がかからないだろう。迎えはその古城に頼めばいい」
手紙は私が出すわ、とシャルロッテさんがにこやかに笑う。ふたりとも、どこまでも親切なひとたちだ。
ちらりと窓の外を見やれば、今は夕方に差し掛かろうかという頃合いのようだった。今日下手に行動を起こすよりは、ふたりの言う通り、明日動き出すほうがいいのかもしれない。
……王都のひとたちには迷惑をかけてしまうけれど、でも、これが最も早い帰り道だわ。
そう判断し、もう一晩だけ彼らのお世話になることに決めた。
「ありがとうございます。リーンハルトさん、シャルロッテさん。看病していただいただけでなく、妹の行方まで見つけてくださるなんて……なんとお礼を申し上げればよいかわかりません」
「いいのよ。そんなに気にしなくても。私たちの魔術でレイラさんの困りごとがひとつ解決するならよかったわ」
屈託なく笑うシャルロッテさんに、じんと胸が熱くなる。貴族社会にいると、こんな純粋な優しさに触れられることは滅多にない。
……殿下は、お優しかったけれど。
あれも、計算されたものではない「純粋な優しさ」だと信じたい。彼への初恋を灰にしないために、私は明日ローゼに会いに行くのだ。
「せっかくだから、言える範囲で君の話を聞かせてよ。……君が、どんなふうに生きてきたのか、知りたいんだ」
リーンハルトさんの言葉はやっぱり意味ありげに響いたが、不思議と不快に感じない。ふたりの持つ独特な雰囲気は、私にあっているようだった。
……ずっと、ここにいたいと思ってしまうくらい、安らげる場所だわ。
「わかりました。そう、面白い話ばかりでもありませんが……」
ふっと頬を緩ませながら、ぽつぽつと自分の身の上を語り始める。彼らは私が言葉を結ぶまでずっと、静かに耳を傾けてくれていた。
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