第2話

「お嬢さま。お支度が整いましたよ」


 鏡越しに、ジェシカが柔らかな笑顔で告げる。彼女の声にはっとして、慌てて笑みを取り繕った。


「……ありがとう、ジェシカ」


 鏡には、痩せ細った自分の姿が映し出されていた。それでもジェシカが丁寧に亜麻色の髪を梳いて、薄く化粧を施してくれたおかげで、すこしは見られる姿になったと思う。


「……また、殿下からのお手紙をお読みになっていたのですね」


 ジェシカはまつ毛を伏せて、気遣うように微笑んだ。


 言葉もなく頷いて、何度も読み返した手紙に視線を落とす。


 王太子殿下からの手紙は、私が目覚めた翌日に届いた。美しい筆跡で綴られたその内容は、「落ち着いたら会って話がしたい」というものだった。


 殿下にお会いするという目標ができた私は、空っぽの心に鞭打って前向きに療養に専念することにした。


 それが功を奏したのかはわからないが、医師も驚くほどの早さで私の状態は回復を見せたのだ。「まるでお伽噺の時代の魔術のようだ」と、医師らしからぬ非現実的な言葉がこぼれるくらいには、異様な回復速度らしい。一週間経った今では、こうして椅子に座って会話をできるほどだ。


 私をこうして元気にさせてくれたのが、神さまのおかげなのか魔術師さまのおかげなのかはわからないが、動けるようになった私はさっそく、殿下へお返事を出すことにした。


「万全の状態とは言えませんが、私も殿下にお会いしてお話がしたいです」と。


 回復したとは言っても、以前のように繊細に指を動かすのは難しかったので、手紙は初めて代筆を頼んだ。


 でもきっと、殿下は気づきもしないだろう。かたちばかりの婚約者だった私の字なんて、そもそも覚えていないに違いない。


 そして今日、ついに殿下が公爵邸を訪れる。大方、私との婚約が破棄された経緯と、ローゼの話をしにいらっしゃるのだろう。


 この一週間で、私が眠っていた二年間のことをずいぶんと知った。大事件や王国の南部で起こった災害、名家が代替わりしたなんて話から――殿下とローゼはずいぶんと親しかったという残酷な事実まで。


 ……無理もないわ。あんなに美しいローゼが婚約者になって、愛さずにいられるわけがないもの。


 殿下とローゼの話を聞いてから、ふたりが並んで歩く姿を何度も何度も想像した。


 殿下の銀髪と、ローゼの白金の髪はきっとよく似合うだろう。厳格な殿下と、奔放で華やかなローゼの姿は、案外釣り合いが取れたかもしれない。ローゼの明るい声に、殿下はきっと微笑みながら耳を傾けるのだ。


 何度思い描いてみても、ふたりは幸せそのものの姿だった。かつて私という婚約者がいたことなんて、きっとみんな忘れていただろう。


 ……でもどうして、逃げ出してしまったの、ローゼ。


 殿下の深い寵愛を振り切って逃げるなんて、なんてひどいことをするのだろう。殿下はきっと、深く傷ついているに違いない。


 ……せめて私がもうすこし、ローゼのように美しければ、殿下の心をお慰めすることができたかしら。


 どうにもならないことを嘆いて、ふ、と乾いた笑みがこぼれた。


 きっと今日が、殿下とまともにお話をする最後の機会になるのだろう。別れの言葉はもう、何百回も心の中で練習した。


「……お嬢さま、王太子殿下がご到着なさったようです」


「ええ……」


 本来なら出迎えに行くべきだが、私の体を気遣ってくださったようで、客間で待つよう指示されていた。殿下がくださった最後の優しさを噛みしめながら、姿勢を正して、まもなく入室してくるであろうそのひとを待つ。


 やがて、客間の扉が軋むことなくなめらかに開いていった。それを見て、椅子の肘掛けに体重をかけ、無理やり立ち上がる。


「お嬢さま……!」


「……今だけお願い、ジェシカ」


 ジェシカの咎める声を無視して、なんとか姿勢を保つ。玄関まで降りることは叶わなかったが、せめて立って出迎えたい。


 慎ましく礼をする使用人たちの間から、そのひとは現れた。


「っ……!」


 ……ルイス王太子殿下。


 月影を宿したような銀の髪。すべてを見透かすように深い蒼の瞳。彫像のように冷たく整った顔立ちは、記憶の中のものよりもいっそう大人びて美しさを増していた。


 何より、彼の纏う空気感に圧倒される。


 以前から厳格な雰囲気を纏っていたが、今の殿下を取り巻く空気は、翳りすら思わせるほど重厚なものだった。王族としての威厳ともまた違う、痛みを伴うような雰囲気だ。


「レイラ……」


 てっきり、「アシュベリー公爵令嬢」と呼ばれるものだと覚悟していたのに、殿下はまるで婚約者だったときのように私の名を呼んでくださった。


 ……それだけでもう、充分よ。


 淡い初恋を、綺麗な思い出のまま終わらせられる気がする。目頭が熱くなるのを隠すように、私はゆったりとした菫色のワンピースをつまんで礼をした。


「もういちど、お会いできて光栄です。……ルイス王太子殿下」


「……まだ立つのは難しいと聞いていた」


「ええ、でもすこしの間なら――」


「――早く座るんだ」


 突き放すような言い方は、二年前よりも冷たい響きを帯びていた。彼の声自体、氷のような鋭さを増したせいもあるかもしれない。


「申し訳ありません。……では、お言葉に甘えて」


 心配してくれたのか、あるいは無理して倒れるような無様な姿を見たくないだけなのか、彼の声音からはとても窺い知れない。私はただ、言われるがままに椅子に座るだけだ。


 椅子に腰掛けたあとも、殿下の顔はうまく見られなかった。何か話すべきだとわかっているのに、言葉が見つからない。


 ぎゅう、とワンピースを握りしめていると、ふっと伏せた視界に影がかかった。反射的に顔を上げれば、いつのまにか殿下が目前に迫っている。


 ふたりの視線が、ぴたりと重なる。深い蒼色に吸い込まれるように、私は礼儀も忘れて彼の瞳に見入っていた。


 ……なんて、深い翳りなの。


 彼の瞳は、夜のように陰鬱な翳りを帯びていた。ローゼがいなくなったことが、彼の心に深い傷を残したことは明らかだ。


「レイラ……」


 静謐な森を思わせる蒼の瞳が小さく揺れる。まるで何かに焦がれるような、切ない眼差しだ。何事にも心を動かされない彼にしては珍しい反応だった。


 ……私に、ローゼの面影を見ているのかしら。


 彼女の美しさには到底叶わないが、血の繋がった姉妹なのだから、自覚していないだけで似ている部分もあるのかもしれない。例えば声なんかは、小さいころは聞き間違えられるほどによく似ていた。


「……殿下?」


 私の呼びかけに、彼ははっとしたように瞳を動かすと、ゆっくりと私の目の前に花束を差し出した。彼の雰囲気に気を取られるばかりで気にしていなかったが、思えば入室時から手にしていたものだ。


「見舞いの品だ」


「まあ……ありがとうございます」


 鮮やかな色彩は、目に眩しいくらいだった。どれもが美しく咲き誇る見事な花ばかりで、見ているだけで頬が緩んでしまう。


 ……アネモネもあるわ。


 私がアネモネを好んでいることを、二年経った今も覚えていてくださったのだろうか。


 ……思えば殿下から直接贈り物をいただいたのは、これが初めてかもしれないわね。


 婚約者だったころ、贈り物はいくつもいただいたが、手紙のやりとりに添えられることが多かった。私たちの婚約関係が終わって初めて、こうして手渡されるなんて。


 ……名残惜しくなってしまっていけないわ。


 こんな調子では、うまくお別れの言葉を言えなくなってしまう。何百回と練習したのに、殿下を目の前にするとこんなにも心が乱されるなんて。


 そっとまつ毛を伏せて、苦い感情に耐える。いまだに過去の関係に縋ってしまう私は、自分で思っている以上に弱い人間だった。


「……気に入らなかったか?」


 ぽつりと降ってきた殿下の声に、はっと顔をあげる。


「いいえ……! とってもすてきな花束を、ありがとうございます。本当に嬉しいです」


 慌てて笑みを取り繕い、色鮮やかな花束を抱きしめた。


「……ならなぜ、そんなに翳った表情をする」


 蒼色のまなざしが、真偽を見定めるかのように容赦なく突き刺さる。


 殿下はやはり、鋭いひとだ。下手に取り繕うだけ無駄なのかもしれない。


「……申し訳ありません」


「ローゼのことか?」


 私がいちばん気にかかっていることは、正確には「ローゼと殿下のこと」だ。だが、概ね間違いとも言い切れないだろう。ぎこちなく頷けば、彼は小さく息をついた。


「そのことで、話に来た。……君の今後にも関わる話だから、聞いてほしい」


「はい、もちろんです」


 殿下は忙しい合間を縫って会いにきてくださったのだ。私がいつまでもうじうじとしている訳にはいかない。


 殿下と話をして、区切りをつけよう。震える指を隠すように花束を握りしめて、まっすぐに殿下を見上げた。


「喜ばしい話ではないのだろうとわかっておりますが……こうして殿下とお話しできるのを、ずっと楽しみにしておりました」


「……っ」


 目が合った瞬間に、彼はふい、と視線をそらしてしまった。何かいけないことをしてしまっただろうかと、不安が立ち込める。


「……殿下?」


 彼は答えずに、そのまま私の向かい側のソファーに腰掛けた。私もそれ以上聞けぬまま、俯いて沈黙を破る鍵を探す。


 ……婚約者だったころも、こんな空気になったわね。


 きっと、ローゼと一緒にいるときには、こんな重苦しい雰囲気にならずに済んだのだろう。


 私はいつもいつも、間違えてばかりだ。


 やはり殿下に相応しいのは私ではないのだろう。そんな残酷な事実を受け止めたつもりになりながらも、彼から贈られた花束を手放せずにいる私は、誰がどう見ても叶わない恋に縋る滑稽な女だった。

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