第3話

 全員が視線を向けると、客室のドアを開けて恋鐘が顔を覗かせる。


「お待たせいたしました。面談は終了です」


「終了? 本当ですか……?」驚いた佐野母が立ち上がる。


「あの、洋平は? どうして?」

「ドア越しに話を聞いたので様子はわかりませんが、特に目立った反応はありません。今も部屋の中で過ごしていると思います」

「そう、ですか」


 佐野母は気落ちしたように下を向く。状況が変わってくれることを、心のどこかで期待していたのかもしれない。


「ではこれから、仮想認知療法のための映像資料作成に取りかかります。恐れ入りますが、実施の際はまたお伺いすることになります。お母様には彼用のヘッドセットをお預けしますので、洋平君に渡してくれますか」

「あの、でも、洋平が実際にやってくれるかわかりません。部屋に持っていっても、言うことを聞いてくれないかも」

「そのときはまた別の方法を考えますが、彼なら大丈夫です。話をしていてわかりました。洋平君はきっと、映像を見てくれますよ」


 自信満々な返答に佐野母は困惑しつつも、縋るように頷いていた。


「あ、そうだ。もう一つ、佐野さんにお聞きしたいことがあります」


 恋鐘がぴっと人差し指を上げる。


「ご家族でよく行っていた旅行先はありますか? 好んで行った場所とか、強烈に覚えている思い出の場所とか。あれば教えてください」


 あまりに唐突かつ無関係の質問に、佐野母は目を丸くしていた。緑栄もまた、何を言ってるんだこの人は、と唖然とするしかなかった。

 理解者である加藤だけが、困ったように苦笑して見守っている。


***


 夕暮れの中、帰路を三人で歩いていると加藤が別の方向を指さす。「私はここで失礼しますね」


「もう一件、会っておきたいクライエントがいるの」

「そうですか。登紀子さんも忙しいですね」

「仕方ないわ。でもこの仕事が好きだから。また連絡お待ちしてますね」

「はい。映像が出来たらお伝えします」


 加藤は微笑すると、手を振って別の道へ進んでいく。夕暮れに照らされた背中は小さかったが、逞しくも感じた。

「んぅー肩こった」恋鐘がぐいっと腕を上げて伸びをする。そのせいで大きめな胸が強調され、緑栄は気まずさを覚えた。


「洋平君とはどんな話を?」


 紛らわせるために話を振ってみる。恋鐘はポニーテールに結んでいた髪ゴムを取って、頭を軽く振った。さらりとした髪が優雅に舞う。あんなにボサボサ頭だったのに、何を使ったらそんなキューティクルを保てるのだろうか。


「引きこもりになる前の話とか、最近調子はどうかっていう聞き取り。会話は録音してるから、後で聞かせてあげよう」

「え、録音してるんですか?」

「大体の内容は記憶してるけど、やっぱり話の流れや声のトーンも映像作成には関係してくるからね。もちろんクライエントには許可を得てるよ」

「よく許可してくれましたね。普通は嫌がりそうなものですけど」

「ただの世間話だし、面談一回だけという約束だからね。それなら、と譲歩してくれる人の方が多い」


 緑栄は虚を突かれた。

 恋鐘の隣で歩きながら、彼女の顔をマジマジと見つめる。


「一回?」

「うん?」

「面談が?」

「そうだけど?」


 何を驚いているんだろう、という風に恋鐘が首を傾げる。そんな反応をされるとこちらの方がおかしいのだろうかと勘ぐってしまうが、そんなはずはない。


「だ、だってそれはつまり、クライエントと一回会話をしただけで映像資料を作るってことですよね?」

「そうなる」

「できるんですかそんなの?」

「難しいことじゃない」


 口ぶりからは嘘をついている感じはなかった。あまりにも平然と、できるつもりでいる。


「まぁ、私はポリシーとして一回と決めてるからね。他の人だと数回は必要になるかな?」


 仮想認知療法を行う人間が全て恋鐘みたいなことができたら、さすがに度肝を抜かれるだろう。職業としてあまりにハードルが高すぎる。恋鐘だけであってほしいと願いつつ、なぜそんな制約を課しているのかが気になった。


「どうして一回だけなんて縛りを」


「理由は二つ」いつぞやのように、恋鐘は細い指を二本立てる。


「一つはクライエントへの負担を増やしたくないから。基本的に、クライエントには精神科医なりスクールカウンセラーなり総合的なサポートを行う人間が付いている。けれど彼らは仮想認知療法を行う技術がない。そこで私のような外部の人間が協力する。が、当然のように関係者が増えて、クライエントと接する人間も多くなる。それはクライエントにとって負担だし、やはりサポーターとの関係性、信頼性があっての治療だ。外部から来た人間は一時的な関与であったほうがいい。接触も短ければ短いほど良いと思う」


 だからと言って一回の面談は極端すぎる。そうツッコみたかったが、恋鐘が細い指を一つ折って「もう一つだが」と続けたので口を閉じる。


「仮想認知療法はまだ国民健康保険に適用されていない。提唱されてから日の浅い心理療法で、その存在を知らない人も多い。認知行動療法が保険適用された経緯や時間を考えると、仮想認知療法もまた長い時間がかかると思う。つまり今の段階では、仮想認知療法は自由診療の範疇になる」


 自由診療になる。その言葉の重みを、緑栄はその人生経験からすぐに察知することができた。

 つまり患者の自己負担が10割、全額を払わなければいけないことを意味している。


「私はね、緑栄。この療法がもっと身近に、気軽に使えるようになってほしいと願っている。でもクライエントの精神的、金銭的負担が大きいと、せっかく効果があっても評価は低くなってしまうものだ」

「それで、1回しか面談しないことで、負担を少なくしようとしてるんですか」

「もちろん数回必要な場面もあるだろう。でも私が可能な限りは実施していきたい。今日の案件も一回で済みそうだよ」


 恋鐘は肩に掛かった長い髪を手で払う。

 その真っ直ぐな視線は、何に向けられているのだろうか。彼女の視界に映るのは一体どういう光景なのだろうか。

 知りたい――緑栄は自然と、そう考えるようになっていた。

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