第11話 コマドリ

 

 誰もが、「君は恵まれてるね」と言った。

 けれど私は、一度だってそう思ったことはない。


 私はいつまでも、羽ばたけない籠の鳥だ。






 母が亡くなった時のことは、良く覚えている。

 父は私が何も知らないと思っていたようだけど、あの頃私はもう6歳だった。

 十分に状況を理解していたし、今でも鮮明に思い出すことが出来る。


 あの日私は、父の言い付け通りに遊びには行かなかった。

 何だか嫌な予感がして、母のことが心配だったからだ。

 父の言い付けを破ったことに罪悪感があって、何も言わずに父の後ろをこっそり付いていった。



 そして私は見た。

 母が殺されるところを。



 正確に言えば、私が見たのは断片的な光景だ。

 額から血を流している母と、母を抱き抱える父、床にへたり込んで震えている奥様。

 けれどその状況だけで、6歳の子供でも何があったのか窺い知れた。

 アデルの泣き叫ぶ声が響き渡っていて、母の名を呼ぶ父の悲痛な声が聞こえていた。



 ふと廊下の先から、旦那様がいらっしゃるのが見えた。

 アデルに会いにきたのだろう。

 あまりの泣き声に、何があったのかと心配そうだった。


『旦那様、あの、母が……! 母が!! 』


 泣きながら、思わず旦那様に縋りついた。

 只ならぬ私の様子に何事かと、子供部屋の方を見た旦那様は、扉の隙間から見えた光景に、一瞬にして顔色を失くして目を大きく見開いた。


 慌てて扉を開けて入っていく旦那様から咄嗟に離れて、扉の影から震える両手を必死に握りしめて様子を窺った。


『これは……? 』

『奥様が! 奥様が妻の髪を持って振り回し、このようなことに……! 』

『本当なのか……? フィス! 』

『っだって! あいつがアデルを蔑ろにして自分の子供しか可愛がらないから! 私は悪くないわ! 』



 その言葉で、私は悟った。

 母が血を流しているのは、私の我儘が原因なんだと。

 その時はとにかく気が動転していて、父に叱られるという思いが一番強かった。

 だから、旦那様が扉の向こうから私を見ているのに気が付いて、必死にイヤイヤと首を振って私がここにいることを知られたくないと訴えた。

 旦那様はそれに気が付いたのか、その場を更に混乱させたくなかったのか、私の存在に触れなかった。


『……急いで病院へ連れていく。フィス、アデルを離しなさい。この部屋から出ないように』


 旦那様の声に、私は慌てて部屋から離れた。

 父に見られたらいけないと、きっとそう思ったのだろう。

 もしかすると母の姿を見たくなかったのかもしれない。

 今となっては、幼い頃の自分の行動を説明出来ないことも多い。


 何故、あの日あんなにも我儘を言ってしまったのか。

 何故、父以外の使用人たちを呼ぼうとしなかったのか。

 何故、あの場で母に駆け寄らなかったのか。


 何か一つでも違う行動をしていたら、結果は違ったのかもしれない。




 母の死は事故として扱われ、父も、奥様も、そして旦那様も誰1人私に真実を語る人はいなかった。

 父なりに、私が衝撃を受けるだろうと配慮したのかもしれない。

 それくらいの愛情はあったのだと、そう思いたい。

 それまで私は、両親の愛を疑ったことなど一度もなかった。

 けれどそれ以来、私は痛感することになった。



 父は、母ほど私を愛していないのだと。



 父は私と距離を取るようになり、親子でありながらまるで遠い親戚かのような、そんな関係になった。

 私は父の愛を確かめようと、必死に父に愛想を振り撒いたけれど、結果は無残なものだった。

 でもそれは仕方ない。

 私の所為で、母は命を落としたのだから。

 いっそあの日の惨事を見ていたことを伝えようと、何度も思った。

 そうすれば父も『可哀想に、辛いものを見たね』と抱きしめてくれるのでは、と何度も想像した。


 しかし同時に、『自分に罪があることを知りながら、何故これまでのうのうと生きてきたんだ』と、そう言い放つ父の姿も、容易に想像出来てしまった。

 父は母をとても愛していたから。

 娘の私よりも、ずっと。

 だから本当は、私のことを憎んでいるのかもしれない。


 私は恐ろしかった。

 これ以上、父の愛の残滓ですらも失くしてしまう勇気は、私にはなかった。



 そんな父よりも余程、旦那様の方が私を気遣ってくれた。

 幼い頃はそれを優しさなのだと思っていたけれど、長じるにつれ、きっとそれは彼の罪悪感が成したものだろうと気付いた。


 私から母を奪ったこと。

 その死の真相を闇に葬ったこと。


 旦那様はいつも、私に申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 私があの時あそこに居たことは、旦那様しか知らないはずだ。

 それを何故、父に言わなかったのだろう。

 私があの時父に知られたくないと言ったから?

 幼い子供だから、触れなければ忘れると思ったから?

 理由は分からない。

 何にせよ、それが仮に私の為だったとしても結局、旦那様が保身に走ったのには違いない。


 私にとって旦那様の罪悪感による優しさなど、塵芥ごみのようなものだった。



 結局奥様はそのまま心身虚弱でお亡くなりになり、アデルも父親しかいなくなってしまった。

 私はアデルにとても同情した。

 母が居ないこともそうだし、旦那様の塵芥ごみのような優しさが私に降り注ぐ度、少し寂しそうな顔をするアデルが健気で愛しくて堪らなかった。

 本当のことを伝えたくとも、そうすれば『あなたのお母様は人殺しで、お父様はとんでもない嘘吐きなの』と言っているようなものだ。

 アデルがあの日のことを何も覚えていないことは、唯一の救いだった。

 真実は伝えられなくとも、私はアデルを心から愛そうと誓った。



 だから、例えアデルが私を自尊心を満たすための道具として扱ったとしても、私はそれで構わなかった。



 アデルは上手く隠しているつもりだけれど、私は常にアデルと共に居るのだ。

 アデル以上に、アデルのことを知っている。


 アデルが私を見下していても、アデルが私を引き立て役として側に置いていたとしても、私はそれで良かった。

 周りからも、色々と揶揄されていることは知っていた。

 けれど、それが私が果たすべき役割なのだとしたら、それで良いと思っていたのだ。





 やがて私は、図書室でクリフに出会った。


 私は昔から本が好きだった。

 本を読んでいれば世界中のどこにだって行けたし、何にだってなれた。

 本の中の世界はとても広くて、この狭い世界に生きている私が唯一自由になれるのが読書の時間だった。

 ジェノーレン家の図書室はとても立派で、しかも使用人たちにまで解放されている。

 そういう所は、旦那様に感謝していた。

 けれど使用人たちは皆忙しく、アデルは読書を好まないために、いつも決まって1人で本を読んでいた。

 それで特に不都合なことは何もなかったけれど、クリフに話し掛けられたあの日は、間違いなく人生で一番心躍った時だった。


『その本、好きなんですか? 面白いですよね。僕なんて徹夜で一気読みしちゃって。酷い隈ですよね』


 クリフはそう声を掛けてきた。

 その声に本から目を上げた私は、確かにくっきりと残る目の下の隈に気が付いた。

『美しい人でも徹夜をすれば隈が出来るのだな』と、そんなことに驚いたのを覚えている。



 クリフのことは前から知っていた。

 彼がジェニーレン家の屋敷にやってきた当初、とても噂になったから。

 奥様が気まぐれに拾ってきた美しい少年に、誰もが興味津々だった。

 そしてそれは、マリーとて例外ではなかった。


 それまでは特に好きだとか、惚れただとかそういった感情はなかった。

 ただ、確かに美しいな、と気になる存在ではあったのだ。

 けれどアデル付きの私と従僕のクリフは、それ程仕事上の接点は多くはなかった。


 そんな彼がまさか、図書室で出会い、私が夢中になっている本を面白いと思うなど、思ってもみなかった。


 その時私が読んでいたのは、とある女性の半生を描いた小説だった。

 貧しい生い立ちからある商会に拾われて、色々な国を旅しながら成長していく物語だ。

 私はこの主人公が羨ましくて、憧れて、とても気に入っていた。

 どちらかと言えば女性の好む話の構成だと思っていたから、まさかクリフがこの小説を読んでいるとは本当に驚いた。

 そのままポツポツと小説のことを話していると、とても丁寧に読書している様が窺えて、私はらしくなく興奮した。

 彼のような人が、こんなに自分と同じ感性の持ち主だとは思わなかった。

 きっと私は、目に見えて浮かれていただろう。


 今にして思えば、私は彼の罠に、面白い程綺麗に嵌っていたのだろう。



 最初のうちは、本当に楽しかった。

 彼となら幸せな家庭が築けると思ったし、いくら出身が貧民街とはいえ、彼にはそんなことどうでもいいと思わせるほどの魅力があった。

 私など、とても彼に釣り合わないのではないかと思っていたほどだ。

 私はクリフを愛していた。

 心から。

 そしてクリフも私を愛していると思っていた。

 それが、幻想だとも知らずに。



 アデルがクリフに想いを寄せていることには、気付いていた。

 けれどその頃には既に私との婚約の話が出ていたし、アデルの片思いだろうと、珍しく私は見て見ぬふりをした。

 私はアデルのことも心から愛していた。

 だからアデルの欲しがるものや、望むことは全て叶えてあげたいと思っていたし、そうしてきた。


 でも、クリフは別だ。

 クリフはあげられない。

 クリフは私の、唯一の自慢だったから。




 私とクリフが婚約してから1年経った頃。

 3人で出かける予定の日に、私は熱を出してしまった。

 だからクリフとアデルの2人で行くと言われた時、私はとても嫌な予感がした。


 頭では、これで良いと分かっていた。

 旦那様の誕生日プレゼントを手に入れるにはもうその日に買わなければ間に合わなかったし、クリフならアデルと居ても上手くやってくれるだろう。

 それでも私の本能は、これは危険だと告げていた。



 結局、私は引き留めるようなことは一切せず、2人は買い物へと出かけた。

 けれど2人が買い物から帰ってきた時、矢張り悪い予感は当たったと分かった。



 クリフはいつも通り、何の変わりもなかった。

 でもアデルは違った。

 アデルはまさに初恋が実った少女の顔そのもので、幸せいっぱいといった様子だった。

 そして同時に、私に対する蔑みの視線も濃くなったようだった。

 きっと、クリフが私よりもアデルを選んだだろう優越感に浸っていたのだと思う。


 アデルは世間知らずなお嬢様ではあるけれど、決して鈍感ではないし、事実を曲解するような意地の悪さは持っていない。

 アデルがあそこまでの態度に出るということは、その根拠となる何かがあったのだろうと思った。


 そうすると、むしろこれまでと何も変わらないクリフの方に、私は薄ら寒いものを感じた。


 試しに、2人が出かけて以来、彼が身に付けている見知らぬネクタイピンについて触れてみた。

 別に私の見たことのないネクタイピンをクリフが付けていても、何ら不思議はない。

 自分で購入することもあるだろう。

 けれどあのどこか幼さを感じるデザインは、きっとアデルの選んだものに違いなかった。


『この間マリーが熱を出した時、アデルお嬢様が買ってくれたんだ。護衛のお礼だと言ってね』


 クリフは意外にも、さらりとアデルから貰ったと打ち明けた。

 その姿には、疚しいことなど何もないように見えた。


 私の勘違いだったかしら。


 一瞬そう思ったけれど、私はふと思い直す。


 それなら何故、クリフは先にそのことを言わなかったのだろう。

 私は熱が引いた後、クリフとあの日はどうだったかと話をしたのだ。

 あの店に行ってあれを買った、あの店でこれを食べたと色々話を聞いたのに、ネクタイピンの話は何も言っていなかった。

 純粋なお礼として貰ったならば、何故あの時に話さなかったのか。

 話せないような何かが、あったのではないだろうか?


 そう思い立つと、私の目の前でにこにこと無害そうな笑顔を浮かべているこの男が、まるで恐ろしい怪物のように思えた。


 すると、自分でも驚くほどスッと、クリフへの想いが冷めるのが分かった。

 自分自身が戸惑う程に、クリフへの恋情がどこを探して見当たらなくなってしまった。


 ああ。

 私はただ、熱病に浮かされていただけだったのか。


 そう痛感した。

 ただ初めての心の高鳴りに、酔いしれてしまっただけだった。


 だったらもう、この婚約を続ける意味はない。


 いつクリフかアデルから婚約破棄の話が出るかと思ったけれど、意外にも待てど暮らせど、そんな話は持ち上がらなかった。

 ならばと私から話を出せば良かったのかもしれない。

 しかし私はもう、全てが面倒になっていた。




『あのミルヴァスさんと婚約出来るなんて、やっぱりロビン家はこの屋敷で優遇されてるんだね』


 そう言ったのはリンジーだ。

 彼女の扱いには、本当に苦慮させられた。

 洗濯メイドのような下級メイドの仕事はさせられないし、かと言って侍女の1人として責任ある仕事を任せることは出来ない。

 そんな彼女は明らかに、私を見下していた。

 先の言葉も、要は『ロビン家でなければ私のような地味な女とあんな美男子が婚約出来るはずがない』ということだ。

 それをリンジー本人が全く認識していていないのが、非常に厄介な所なのだが。


 けれど私も、リンジーの言葉は正しいと思う。


 そもそもがおかしかったのだ。

 私のような地味で華のない女が、クリフのような美男子に愛されるなど、ある訳がなかった。






 私は毎夜、飾り棚を眺める。

 リンジーから貰った異国の品の数々を、一つ一つ眺めては、ここではないどこかに思いを馳せる。


 南国の置物を見れば、その国で過ごす人々の姿を思い浮かべたし、お香を焚けば、一瞬で私の部屋は東の国へと飛んでいった。

 リンジーには毎日困らせれてばかりだけど、こうした品々をくれることだけは、心から感謝していた。



 取り分けお気に入りの、タイル張りの小物入れの蓋をそっと開ける。

 中には、母を描いたデッサンが入れてある。

 子供の頃から、母の顔を忘れたくないと何度も何度も絵に描いた。

 そうこうする内に、私はとても上達することが出来た。

 毎日習慣のように母の顔を思い浮かべ絵にしてきた為か、今でも母の顔は鮮明に思い出すことが出来る。

 父は母を溺愛していたけれど、使用人の身分では肖像画を描いてもらうようなことは難しい。

 この私自身のデッサンだけが、母の生前の姿を遺した唯一のものだった。



「お母さん。私、何だか疲れちゃった」


 デッサン画を眺めながら、私は母に話しかける。



 誰もが、「君は恵まれてるね」と言った。

 けれど私は、一度だってそう思ったことはない。


 私はいつまでも、この屋敷に縛り付けられた、ただの鳥だ。

 羽ばたけない籠の鳥だ。



 私には夢があった。

 本の中の主人公たちのように、世界中を旅したかった。

 リンジーから貰った品々の国に、実際行ってみたかった。

 年中暑いというあの南の国の海は、どんなにキラキラと輝いているのだろう。

 聳え立つような奇峰があるという東の国の仙境は、どれほど澄んだ空気なのだろう。

 いつも目を閉じては遠い異国に想いを馳せた。



 誰かが私を愛してくれていれば、そうは思わなかったのだろうか。

 私が彼らを愛するように、彼らも私を愛してくれていれば、こんな辛さは感じないのだろうか。

 この広いようで狭いこの屋敷の中でも、幸せだと思えたのだろうか。

「ジェニーレン家に支える一族」としての足枷は、他の誰かが思う以上に、私には重たい物だった。



 籠の鳥は、ただ檻の中から広い空を見上げるだけだった。

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