第4話

 あくる日は引っ越しのための荷造りをすることになった。とはいえモノの少ない家だし、仕事部屋の電子機器やらなにやらはアマンダの裁量に任せきりだ。

 個人的にまとめるべき物もそんなにないから、ダンベルを置いていくことに決めたら、キャットの持ち出す荷物はバックパック一つに収まってしまった。

 アームカール、いつも通りの上腕二頭筋と前腕のトレーニング。それが終わったら腹斜筋のトレーニング。淡々としたルーティーン。

 報われてしかるべきという幻想に基づいた手続きだとアマンダは言った。アマンダが髪を切り、タトゥーを入れるように、キャットはダンベルを振っている。


 世界は自分の思っていた通りになってほしい。

 世界も、好きな人も。


「アマンダ!」

「なにー?」


 立ちあがり、仕事部屋にこもっているアマンダに呼びかけると、部屋から返事だけが返ってくる。


「向こうに行ったら、指輪を買おう」


 聞き逃されないようになるたけ大きな声で言うと、一拍置いて咥えタバコを外しながらアマンダが部屋から顔を出す。やけに深刻そうな顔なのが面白かった。別れようと言ったわけでもないのに。


「指輪を買おう。私のお金で買って、私が二つつけるから、一緒に指輪を一そろい、選びに行ってくれないか」


 キャットの金といっても元はと言えばアマンダの斡旋業で稼いだ金で、別に厳密な雇用契約があるわけでもないから同じ財布から出ているのだが、それは仕方がない。気分的なけじめの問題だ。


「形が残るのが嫌なら、死でも信仰でも何でも好きな話をしながら海に投げ込んでくれて構わないから。せめて一緒に、」


 言いながらだんだん早口になっていくのを感じて、大きく息を吸う。じっと話を聞いていたアマンダの肩がびくりと揺れる。手の中のタバコから灰が落ちる。


「指輪を買いにいってくれないか」


 前段は全部言い訳というか保険で、言いたかったのはこれだけだ。どんな形でもそこにありさえすればいいから、なにか手に触れられて目に見えるものが欲しかった。それをアマンダに与えてほしかった。



 アマンダに、そこにあるものそのものを信じてほしい。



 一拍置いて、強張っていたアマンダの体から少し力が抜ける。でも浮かべた笑みは少し強張っていた。


「死か信仰の話をしなきゃいけない?」

「だってそういうの好きだろう。嫌いか?」

「……いや、好きだよ。今好きになった」


 アマンダは大きな大きな、肺の中の空気を全部吐き出すようなため息を吐きだして、頷く。


「いいよ。あんたの指に合うやつを見にいこう」

「ありがとう」

「いいよ」


 もういちど小さく頷いたアマンダが、聞かせるでもなく「ごめん」と呟いたのは耳に入らなかったふりをする。

 別に謝らせる気はない。歩み寄ってくれただけで十分嬉しい。


「別にそういうつもりじゃなかったんだ、昨日は。記念の何かがあるのが嫌とか、そういう意味じゃなくて」

「そうか」

「あんたが痛い思いしたら嫌だよってだけ」


 たぶん違う。多分それ「だけ」じゃない。でもキャットが傷つかないようにと願ってくれているのはきっと本当だから、もう一度「ありがとう」と言った。


「キャット、もう片付け終わった?」

「ああ、向こうに持っていく荷物もまとめたよ」

「じゃあちょっとお使い頼もうかな」


 あたし片付けまだ残ってるからね、と言って、さらさらとメモを書いて渡してくる。牛乳と頭痛薬。変なお願いをしてしまった後だから、ひとりになって考え事をしたいのかもしれない。早速メモと財布をジーパンのポケットに突っ込むと、「あ、」とアマンダが言い足す。


「ちょっと表の掃除するから、裏口から出て」

「うん」


 外出時はいつでも身に着けているガンホルスターをつけ、ジャケットを羽織る。銃が無かったから、なんてみじめな言い訳をしながら死にたくはない。


「じゃあ行ってくる。すぐ戻るよ」


 めったに使わない裏口まで、律儀にアマンダは見送りの為か顔を覗かせる。


「ありがとう」


 扉を閉める間際、アマンダの声が震えていた気がした。

 速く行って帰った方が良いだろうとなんだか気が急いて、小走りに角を曲がる。

 そもそも何故「裏口から出て」なんて言ったのだろう。玄関なんか掃除するのか。昨日の夜はもう出ていくんだから皿なんか洗うなと言っていたくせに。



 嫌な予感がした。



 勢いよく方向転換すると、すれ違った人にぶつかりかけて怒鳴られる。知ったことか。

 全速力でもと来た角を曲がりなおした瞬間。

 重い炸裂音と共に、炎と瓦礫が舞った。

 一瞬の沈黙を置いて路地に瓦礫が降り、悲鳴が聞こえる。

 キャットの家が、両隣の家を巻き込んで跡形もなく崩れている。

 アマンダのいるはずの家が。

 パニックを起こして逃げ出す人々の波が、立ち尽くしたキャットを押し流すように向かって来る。人にぶつかり、よろけて、ようやく呆けていた意識が引き締まる。


「どけ!」


 吠えるように叫び、人を突き飛ばす勢いで走る。

 ランチャーでも撃ち込んできたのか。カルテルの連中はいよいよ手段を選ぶ気が無くなったのだろう。

 警戒心が足らなさすぎた。何がボディーガードだ。

 まだもうもうと土煙の立つ中に飛び込む。

 キャットたちの家だったものが、瓦礫の山に変わっていた。ショックで崩れそうになる膝を叩いてなんとか踏みとどまる。

 アマンダはこれに勘づいて、キャットを逃がしたのか。目をつけられているのは自分だからと。

 キャットを傷つけまいとして。


「アマンダ!」


 呼んでも応える声は無い。血の気が引く。もしかしてこの瓦礫の下に、埋まっているのか。咄嗟に掴んでどけようとした瓦礫で手のひらを擦りむいた。


「アマンダ、」


 いない。どこにも。倒れている様子もない。跡形もなくなった家を見回す。どこかに、どこにいるんだ。

 焦った脳裏に、いつかの会話がよぎる。仕事部屋の地下。もしかしたら。

 扉の残骸を跨ぎ、部屋だったはずの瓦礫の山に触れる。地下には空間があるはずだが、埋まってしまっている。


 大きなコンクリ片を抱えて、ぐっ、と力を込める。擦り切れた手から血が滲む。腕と背中の筋肉が軋む気がした。抱きかかえられる気の無いものは倍重く感じる。普段のアマンダのなんと協力的なことか。

 ようやくわずかに動いたそれを、ひきずってどかす。途方も無さへの絶望感と、わずかな達成感が同時にやってくる。鍛えていてよかった。


 祈りとかルーティーンとかそんなややこしい話じゃない。壁があったらよじ登るとか、荷物があったら持ち上げるとか、そんな話だ。たかが体だ。そのためのものだ。

 持ち上げる。投げ捨てる。掴んで、持ち上げて、どける。持ちあがらないものは引きずり、転がす。抉れた床の中で、妙にきれいに保たれた、床板に偽装された四角い地下室の扉が覗く。扉を叩いて、呼びかけようとして、頭が回らなくなる。手を動かすためにすべてのエネルギーが使われているのかも、と思うとすこし笑えた。


 少し歪んだ扉の取っ手を掴んで、強引に引き開ける。

 目の前で目を見開いているひとの名前が分からない。分かるけれども無数に思い浮かんでしまってどれが正しいのか選べない。


 見ろ、たかが体だ。このためのものだ。

 あなたが頭を抱えるような代物じゃない。

 形が無ければ困るけど、でもあなたを後に回してまで綺麗に守るようなものじゃない。大事なのはどこにあってどんな機能をしているかだ。

 別になんだっていいじゃないか、形なんて。どれだけ崩れようが。あなたがサンタフェで出会ったケイトリン・ギアードと、このキャットを並べて眺めたらあんまりにも違うからきっと笑ってしまう。

 だってこんなに逞しくはなかっただろう?


 変わらないものなんかない。

 いいじゃないか、失われさえしなければ。


 口に出している余裕なんか無かった。でも後で全部言ってやろうと思った。

 いまはちょっと、そんな場合じゃない。


「キャット」


 梯子をよじ登って出てきた彼女が、恐る恐るキャットに抱き着く。


「キャット、もうちょっとだけ頑張れる?」

「ああ」

「ディミトリに車を用意させてる。じき向かって来る」

「よかった」

「どのみちいったんここを離れた方がいい」

「そうだな」


 手を引かれるように立ちあがり、歩き出す。

 荷物はキャットの尻ポケットに入っていたメモと財布しかない。たいした話じゃない。ふたりいるから、はした金とパスポートだけで旅に出るよりはマシだ。

 人ごみに紛れるように走って、どこかの商業ビルの駐車場に入る。瓦礫で手足が傷ついて汗だくのキャットを、奇怪な目で人が見る。

 片隅に停まっているニッサンのシルバーのステーションワゴンの助手席の扉を彼女が開いてキャットを押し込むと、自分は運転席へと滑りこむ。

 背もたれに背中を預けて息を大きく吸うと、やっと目眩が収まるように、脳まで酸素が回ったように、運転席に座った人の名前を思い出した。


「アマンダ」


 口に出すと、アマンダが振り向いてにやりと笑った。そのことに胸が詰まって、瞬きしたら涙が流れそうで身動きが取れなくなってしまう。


「あたしが運転するよ、さすがに疲れたでしょ」

「うん」


 頷くこともできなくて、馬鹿みたいに小さな返事をする。


「あは、タバコ、忘れてきたな」


 頬を引き攣らせたように無理やり笑い、アマンダは車のエンジンを入れた。

 少しだけ、助手席で休ませてもらおう。運転はアマンダに任せて。ちゃんとした車ならアマンダだってちゃんと運転できるのだから。



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