第6話 茉莉のからかいと風船とジュース

 ある休日の昼下がりのこと。


 晴樹が朝食用のパンや、きまぐれで料理を作るための食材を買いに、スーパーマーケットへ向かう道のりでの出来事。


 ブランコと小さいパンダに跨って遊ぶであろうロデオ崩れみたいな遊具しか置いていないほどの寂れた公園に、一人の少年と茉莉がいた。


 彼らは不自然に上を向いており、晴樹の興味を引かせるのには十分だった。


「何しているんだ?」


 声を掛けられると思っていなかったのか、彼らはビクッと身体を震わせた。


 その後に幼稚園児と思われる少年がヒーローを見るような目で訴えかけてきた。


「風船が木に引っかかっちゃったんだ」


「なるほど」


 事態を把握し、とりあえず少年を安心させたくて頭を撫でておく。


 晴樹は生粋の一人っ子であり、自身のことを人に気を遣えないわがままな性格だと評しているので、頭を撫でるという行為が何だかお兄さんぶっている感じがして、気持ちが悪い。


 明らかに己のスピード違反で事故を起こしかけたのに、ぶつかりかけた小学生に対して「気を付けて渡ろうね」と注意しだすぐらいに矛盾を感じる。


「それで、どうして茉莉さんはここに? この子の親戚とかか?」


「違うよ。私は買い物し終わって、帰ってる途中で泣いているこの子を見つけてね、事情を聞いたら風船が木に絡まっちゃったって。何とかしてあげたかったんだけど、どうしても手が届かなくて困ってたの」


「おっけー。あの赤い風船だよな」


 確かに風船を絡めとっている木の背丈は決して低いわけではない。


 ちょうどバスケットゴールぐらいの高さだと思う。


 普通に考えれば170cmそこそこの晴樹にどうこうできる事案ではないのだが、晴樹はそれを可能にできる。


 助走距離を確保し、風船をボールに見立てて、思いっきり踏み込んだ。


 風船の下まで潜り込むと、両手を上に振り上げ、そこから一気に跳躍。


 まるでバレーボールのスパイクモーションのように風船の糸を掴み、無事に救出に成功した。


 晴樹が少年にそっと風船を手渡すと、「ありがとう、お兄ちゃん」と屈託のない笑顔で言って、パタパタと無邪気に走り去っていった。


 大人であれば「お礼に○○します」と詫びの行為を要求されるが、子どもなら感謝の言葉だけで事足りる点に、大人と子どもの境目を感じる。


 いわば許される場面が、子どもの場合は多いのだろう。


 大人と子どもを人生のプロとアマチュアで定義するのならば、大人がたまに社会的なミスをするのも、妙に生々しくて、シニカルな気分になる。


 変なタイミングで、大人であることを再認識させられた晴樹に、穏やかな目をした茉莉が言った。


「助けてくれてありがとうね。お礼にジュース奢るよ。リンゴジュースが好きなんでしょ?」


「西宮さんから聞いたのか」


「うん」


「せっかくだし今回はありがたくいただいとく。けど奢られっぱなしって何か落ち着かないんだよな。どこかの機会で今度は僕に奢らせてくれない?」


「律儀だね。じゃあ先にそこのベンチに座ってて」


 晴樹が木製のベンチに腰を下ろしている間、茉莉が近くの自動販売機でリンゴジュースとメロン味の炭酸を購入する。


 拳三つ分ほどの距離を空け、茉莉が隣に座る。


 この距離を近いと捉えるか、遠いと捉えるか絶妙に判断しかねるが、そもそも距離を意識する時点で、晴樹にとって重要なのは空間的な至福ではなく、時間的な安らぎであって、今の晴樹にとっては、一ミリの動揺もなく茉莉からリンゴジュースを受け取るだけが役割であった。


 乾いた風と共に木の葉が年老いていく季節なので、受け取った缶ジュースが中途半端に冷たかった。


「ありがとう」


「いえいえ。私だってちょうど千円札を崩したかったんだよね」


 晴樹は疑問に思った。


 まあ、小銭が欲しくなる時があっても不自然ではないのだが、茉莉の言い方がどこか意味ありげに聞こえたので、晴樹は尋ねた。


「何か理由でもあるのか?」


 茉莉はまるで独力で作った秘密基地に初めて友達を招待する時のように、照れくささを含む、もったいぶった口調で答えた。


「実は私ね、変わった貯金をしているの」


「変わった貯金?」


「そう。自分の幸せを見つけたら十円。誰かの幸せを見つけたら百円っていうルールを設けて、毎日ジャムの瓶に貯金しているの」


「すごく人道的な試みだな」


「ふふっ。人道的ってすごい変なワードチョイスだね」


「そうか?」


「そうだと思う。私は好きだからいいけど」


 好き、という言葉にいちいち五臓六腑をかき乱されるような感覚に陥る自分があまりにも童貞甚だしくて、逆に脳みそが冷える。


 冷静になれたから、茉莉の聖母のような語りが耳に入った。


「こうでもしないと人って幸せに気づけないよねって、私はそう思うの。記録にも記憶にも残るのはいつだって不幸ばっかり。世の中が不安や孤独なことで溢れているから、幸せっていう感情が胡散臭く見えるし、胡散臭く思われて孤独になりたくないから、みんな不幸に見せたがるの」


「茉莉さんだってよっぽど変じゃないか?」


「変だね。ご名答」


「でも、僕は……わかるな、そういう感覚」


 冗談でも「好き」と意趣返しをすることができなかった。


 真剣な話に水を差せないという気遣いではなく、単に茉莉に対して「好き」という言葉を投げかける行為が恥ずかしかっただけで、それがまた自己嫌悪を加速させる。


 茉莉はメロン味の炭酸を飲んで、言った。


「晴樹さんも探してみたら? 幸せって意外とその辺に落ちてるものだよ。さっき風船取ってもらった子の顔とかね」


「なるほどな。にしても落ちてるのに下を向いて生きがちな僕らは気づけないんだもんな。いっそのこと目線の高さまで浮かび上がってくれたら上向いて生きられるものなのか」


「面白い考え方するね。勉強になったし帰ったら十円玉チャージ決定だ」


「茉莉さんの判定緩くない?」


 ハハッ、と脊髄反射で晴樹は笑った。


 茉莉の前で見栄を張らずに気の抜けた状態で笑ったのはこれが初めてかもしれなかった。


 茉莉は「リンゴジュースおいしい? 一口飲ませて?」と流れるように求めてきたので、事の重大さを理解せず「いいぞ」と言って、缶を手渡した。


 手渡した瞬間に、間接キスという名のアルゴリズムが組まれたことを察知し、後悔。


「私のも飲む?」


 そう言って、茉莉がメロン味の炭酸を見せびらかしてきたが、晴樹は間髪入れずにノーを提示した。


 とはいえ、手元に残ったリンゴジュースを飲み干そうと思ったら、どう足掻いても口をつけなければならない。


 二十歳を超えた男が間接キスぐらいでビビッてどうする、と童貞のみっともないプライドが応援団のウェーブみたいに押し寄せてきて、唐突に覚悟を決める。


 グイッと童貞らしく口をつけて、缶を斜めに傾けた。


 しかし、飲み口からは一滴たりともリンゴジュースが流入してこなかった。


 まるで小悪魔が描かれたパズルのピースが嵌まったような嫌な予感を抱き、茉莉を一瞥すると、案の定クスッと微笑んでいた。


「全部飲んじゃった」


「……全部飲むなよ、たち悪いな」


 ホントにたちが悪い。


 あると思っていたのになかった時の違和を、唇に感じ反射的に手で拭う。


 そしたら今度は手の該当箇所に同様の違和を感じて、刹那のためらいを持ってズボンで軽く拭った。


 そこまでしてようやく何事もなかったと自分を騙せるのではないかと思い込むことにした。


 茉莉が晴樹の顔を下から覗き込むようにして、聞いた。


「今、幸せ?」


「……茉莉さんにジュース飲まれたから不幸だな」


 そんな負け惜しみのセリフを吐いてから、数分だけ会話して、晴樹と茉莉は別れた。


 晴樹の本来の目的はスーパーマーケットに買い物に行くことであり、それを遂行するために足を動かした。


 明日の朝から食パンにジャム塗って食べるか。

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