魔女見習い
まず監獄に来たことを他言無用と念を押すマクシミリアンに、言ったところで誰も信じないだろうし、頭がおかしいと笑われるだけだろうと思いつつ、ヒューゴは神妙な面持ちで首を縦に振る。どう考えても、真っ当な手段で会いに来たわけがない。
時間が限られているので、単刀直入に香水について尋ねるべきだとわかっている。けれども、やはりマクシミリアンはどうしても確かめたいことがあった。
「ヒューゴ、今日はお前に尋ねたいことがあってきた。だが、その前に俺に言いたいことがあるなら正直に聞かせてくれないか」
罪人に対してもこうやって真摯に向き合おうとするのがマクシミリアンだ。よくも悪くも人が良すぎる。これほどの人をどうして信じられなかったのかとヒューゴは、過去の自分を張り倒してやりたくなった。
居住まいを正して、ヒューゴは五年前に伝えそびれた言葉を口にした。
「マクシミリアン様には、感謝の念しかありません」
本当は感謝の念なんて短い言葉では到底足りない。それでも、嘘偽りない本心だと伝えるには充分だった。だから、マクシミリアンはなぜ感謝されるのかと当惑する。
「だが、俺がお前を追い詰めたんだろう?」
ヒューゴは思わずため息をついてしまった。
(そうだった。こういうお方だった)
どういうわけか、リセール公は自分に向けられる感謝の類のものにだけ、とても鈍感だった。半分どころか、十分の一でも受け取ればましなほう。他の誰かであれば、嫌味で一種の傲慢でしかないだろうけれども、なぜか彼は懐の深さにさらに感服させられるのだった。気持ちを受け取ってもらえないから、機会があれば彼のためにできることをしよう。そう思わせるのが、マクシミリアンだった。
「僕が勝手に自分を追い詰めて自棄を起こしだだけです。大河に沈めらるのが当然だったところを、悔い改める時間をくださったのは、マクシミリアン様です。僕は、貴方に充分すぎるほど救われました」
「そうか、それはおそらく……よかったのだろうな」
真摯に訴えるヒューゴに、マクシミリアンは胸をなでおろした。恨まれてもしかたないと覚悟を決めてきたとはいえ、恨まれずにすむならそれにこしたことはない。
(あのまま無理にでも俺の手元に置くより、これでよかったのかもしれない)
なにより、自分の側にいたときよりもいきいきとしている彼の様子に、マクシミリアンのほうが救われる思いだった。
「それで、僕に尋ねたいことというのは?」
「ああ、実はある事件を調べてるところでな。ヒューゴ、お前薬とか毒に詳しかっただろう?」
「ええまぁ、そこそこ……」
と答えつつも、ヒューゴは薬学に関しては国内屈指の医者だという自負があった。
黒装束の上着の中から首に下げていた巾着袋を引っ張り出して、厚手の布に包んだ例の香水瓶を取り出した。
「これはその事件の手がかりなんだが……」
「……っ」
包の中かから黄ばんだラベルの泣き笑いの少女を目にするなり、ヒューゴの瞳孔が収縮し息を飲んだ。そして次の瞬間、リセール公の手から香水瓶をひったくっていた。
思いがけないただならぬ様子に呆気にとられるマクシミリアンをよそに、ヒューゴは瓶を開け臭いを嗅ぐだけでなく、ごくごく少量だけ含んだ口を抑えてドアの横にあった洗面器に吐き出し口をすすぐ。
「ダイジョブ?」
「大丈夫ですよ、もちろん」
すかさず駆け寄ってきたチェチェに、大丈夫だと答えつつもその顔はひどく険しかった。
呆気にとられていたマクシミリアンは、毒物だと誤解させたと慌てて弁解した。
「悪い、ヒューゴ。手がかりといっても間接的なもので、それはただの香水だ」
「知ってます」
ヒューゴは硬い声で答えると、ベッドの端に戻ってきた。もちろん、チェチェも当たり前のように彼の隣に腰を下ろす。彼女の不安そうな視線を無視して、彼は尋ねる。
「マクシミリアン様がおっしゃる事件というのは、最近のことですか?」
「いや、三五年前だ」
「三五年前。なるほど、それならいいのです。今なら万が一の可能性もあるかと思いまして、杞憂ですんでよかったです」
「万が一の可能性?」
怪訝そうな顔をするリセール公に、かすかに苛立ったのか眉が軽く跳ね上がった。
「マクシミリアン様は、それがどういうものか、本当にご存じないのですね」
「知ってたら、わざわざお前に尋ねに来たりはしない」
何を当たり前なことを言うのだと眉をしかめつつもマクシミリアンは、彼が何か知っているのだと確信を深めた。と同時に、不可解だった。
(そんなこと、言われなくともわかるだろうに)
もしかして、ヒューゴは香水に関することを教えたくないのでは。マクシミリアンの頭によぎった疑念は、すぐに肯定された。
「関わらないほうがいいこともありますよ」
香水瓶は、まだヒューゴの手の中にある。マクシミリアンが言い返すよりも先に、ヒューゴはため息をついて頭を振った。
「僕がそう言ったところで、マクシミリアン様は関わらないほうを選択しませんよね」
「わかっているなら、早く教えてくれ」
「……承知いたしました」
残っていたためらいを捨てて、ヒューゴも腹を決めた。
「マクシミリアン様は、この香水について、その事件の現場あるいは犯人とよく似た臭いがする物だと聞かされたのでしょう」
「そうだ」
「表立って流通していないことは、ご存知ですか?」
「ああ、知っている」
そう答えて、マクシミリアンは気がついた。
フィリップは、三五年前の事件で焚かれていた香と同じ臭いがするだけで、香水よりも媚薬のたぐいと思われる香そのもののほうが重要だった。あくまでの手がかりのための手がかり。香水そのものがなんであろうと、それは重要ではなかった。あのグッドマン商会の会長でも他に手に入らないなど、怪しい点はあったけれども、マクシミリアンも香水の臭いだけが重要だと思い込んでいた。そうではなかったというのだろうか。
(香水にもなにかあるのか)
香水を取り出したときの過剰な反応が答えではないか。
不意に肌がぞわりと粟立つ。
ヒューゴの手の中の泣き笑いの少女が、急に得体のしれない不気味なものに見えてきた。
(もしかしたら、香水は間接的な手がかりなどではなかったのか……だが、それはおかしい)
十人に問えば十人が趣味が悪いと即答するに違いなくとも、香水はあくまでも香水だ。
「僕は香水に詳しいわけではありませんが、こんな趣味の悪い香水をつける人はまずいませんよ」
「…………そう、だな」
ヒューゴは仮面の善人に会ったことがなかった。そもそも、王国屈指の大商人の香水を知るような距離で付き合いがある者なんて、限られていてるに決まっている。
「ということは、香水ではないのか?」
香水としての用をなさないなら、泣き笑いの少女はなんだというのか。
「いえ、これは僕の推測ですが、もともと香水として作られたものをあの界隈が他の用途を見出したのだのかと」
「あの界隈?」
「…………花の都の教会界隈です」
「……」
まさかと、ぞわりと悪寒が走る。
いや、双子の入れ墨の話にも、フィリップが香水を入手した経緯にも、教会の影が色濃く現れていたではないか。
ラベルに描かれているのは、少女。もっと早く気づいてもよかったのに。
顔を強張らせ膝の上の拳を痛々しいほど強く握るマクシミリアンに、ヒューゴは乾いた唇を舐めて告げる。
「マクシミリアン様、この香水の本来の名称は今となっては知るすべもアリませんが、教会では『魔女見習い』と呼んでいました」
「魔女……」
「ええ、これは魔女のクスリの代用品とでもいいましょうか」
魔女のクスリ。
ほぼ確信に近い形で予想はしていたけれども、マクシミリアンは王国史上最悪の忌まわしき麻薬の名前を聞いて目を閉じ唇を強く噛んだ。
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