『案ずるより産むがやすし』

 昨夜は散々だったと、起き抜けの頭でぼんやりと考えていた。


(ああやって人の心をかき乱すところは、叔父上そっくりだ。似た者同士なのか、連れ添っているうちに、似てきたのか)


 どちらにしても、アンナにはかなわない。


 まだ暗い寝室、起きるにはまだ早すぎる。目を閉じてみるけれども、眠れそうにない。主寝室のベッドであれば、妻を起こさないよう気を遣うけれども、今は彼の寝室のベッドだ。ゴロゴロ落ち着きのない寝返りを繰り返したあとで、しかたなくベッドから這い出た。

 テラスに面した大きな窓の厚手のカーテンの隙間から、うっすらと青白い光が差し込んでいた。ガウンに袖を通しながら、彼はふらふらと吸い寄せられるように窓に向かう。カーテンの隙間に指をかけ、外をうかがう。

 思ったとおり、まだ夜明け前だ。

 丘の上と呼ばれるだけあって、リセールの街並みを見下ろす眺めはとてもいい。行政庁舎の時計塔のシルエットの輪郭は曖昧で、暗い静寂にほとんど溶け込んでいる街並みは静まり返っている。街並みの向こうの大河に目を凝らせば、うっすらと立ち上り始めた川霧の中、ヴァルト水軍の巡視船の明かりが揺れているのがわかる。

 今日は、それほど川霧はひどくなさそうだと息をつく。

 グウィン大河には、一年中川霧が発生する。大河の名前には、『白い』という意味があるらしい。大河の対岸にある壁に囲まれた神の国を統べる皇帝の白雪のような髪の色に由来していると言うのが、一番知られている由来だ。けれども、真偽はともかく幻想的な川霧が『白い』からグウィン大河なのだと、マクシミリアンは肌身に感じていた。

 東の方から白っぽくなっていく空。

 とても穏やかな朝を約束してくれそうな静かな情景。


 けれども、マクシミリアンの胸中にはどんよりと重苦しい雲が立ち込めている。

 彼は、一日のうちで早朝が一番苦手だった。


「そういえば…………」


 ずっと忘れていた。

 幼い頃――おそらく四歳か五歳の頃まで、朝になるとよく泣いていた。ギャンギャン泣きわめいて、火のついたように泣きわめいて、大人たちを困らせた。

 朝が怖かった。

 朝が来るのが、怖かった。

 怖くて怖くてわけがわからないくらい怖くて、ただひたすら泣くことしかできなかった。


 なぜ朝が怖かったのか、今ようやく理解できた気がする。


「置き去りにされた子どもは、ああいう気持ちになるんだろうか」


 昨夜、アンナが「泣きんぼう」などと言わなかったら、思い出すこともなかっただろう。

 本当に、本当の父母のことを知らなかったことに気がついて、愕然とした。

 もちろん、世間で知られている父である狂王ロベルトに立ち向かった正義感あふれる高潔な王太子クリストファーなら知っている。詩才のあるたおやかな王太子妃パトリシアなら知っている。

 けれども、彼らがどういう人だったのか、本当の意味でマクシミリアンは何も知らなかった。

 今さら、知ったところで何になるのか、さっぱりわからない。何にもならないかもしれない。


「あー最悪だ」


 今さら、父母が死んだ年齢よりも長く生きていることにも気がついた。


 情けないことこの上ない。

 情けない自分に腹が立つ。

 このままでいいわけがない。

 今さら、何になるのか。今さら……


 何もしない理由ならいくらでも思いつく。けれども、時間が解決してくれると自分を騙し続けるのは、もう限界だ。

 片手で顔を覆い、「うぅ」だの「ああ」だのうめく。


 しばらくして、黄金山脈の山嶺から太陽が顔を出し、リセールを朝に染めていく。

 朝が早い使用人たちは、すでに仕事を始めているだろう。とはいえ、人が彼を起こしに来るまでまだ時間はある。


「早起きが良いことだとは、限らんな」


 まったくと、苦笑してカーテンを開け放って寝室を出ていく。


 起き抜けのガウン姿のままで、手ぐしで髪を一つにまとめながらやってきたのは、寝室から一番近くて一番小さな書斎だった。以前、ストレス解消に小説を書き散らすのによく籠もっていたけれども、結婚後はめっきり使わなくなった。女性向けの出版社を立ち上げた妻に、ここを譲ろうかと検討したこともある。けれども、なんとなくそのままにしている。

 使っていなくても、当然掃除くらいさせている。

 書斎の窓を開けて朝の清々しい空気を入れる。


「はぁ…………絶対に必要になることはないと、思っていたんだがな」


 本棚とは反対側の壁には、数十年前の領主館が描かれた絵画が飾られていた。その絵画の前で、億劫そうに床に膝をついた。絵画の下辺りの腰壁の羽目板を四枚外していく。簡単に外れるのは、そういう造りになっているからだ。築百年を超える領主館を建てた当初からあったのかはわからない。よくある仕組みの隠し収納スペースなので、人目につくのを避けたい物を隠すのに丁度いいけれども、本当に貴重な物をしまうわけにはいかない場所だった。

 そうして穴蔵のような収納スペースから引っ張り出したのは、頑丈そうな大きな革の書類鞄だった。

 引きずるように両手で窓際の机の上に置けば、ドスンと机の上のペンなどが跳ねた。


「こんなに重かったか」


 コーネリアスが亡くなる直前に譲り受けて、あそこに隠してから一度も取り出すことはなかった。


(まぁ、叔父上が亡くなられて忙しかったからな)


 忘れてしまったのかもしれない。あるいは、父母にまつわる物だからと、無意識のうちに忘れようとしていたのかもしれなかった。けれども、頭のどこかで忘れられずにいた。


『いつかお前の父と母のことを知りたくなったら、これを開けなさい。きっと役に立つ』


 そう言われたときは、絶対にそんな日は来ないと思った。

 けれども、病床の叔父が懇願するように言うから、それが生きている叔父との最後の会話だったから、どうにも捨てられずにしまったままにしていた。


 鍵はなく二箇所の留め金を外すだけで、黒い鞄を開けられる。留め金に伸ばした手は、直前でピタリと止まってしまう。


「今さらだよな、やっぱり……」


 父母のことを知る機会は、いくらでもあったのだ。父クリストファーを慕う者は多かったし、そういう者は今でもマクシミリアンに好意的に接してくれる。

 たとえば、父の乳兄弟のダニエル・ドーソン。リセールに来る前は、専属の護衛として身近にいた。陽気で口がよく回る彼は、よく父のことを持ち出して褒めたりからかってきた。

 それから言うまでもなく、叔父のコーネリアス・フォン=ヴァルトン。彼は長兄に尊敬の念を抱いてたおかげで、父母の話を我がことのように話して聞かせたがっていた。

 それなのに、マクシミリアンは耳を塞いでしまった。

 比べられたくなかったというのもある。けれども、そんな素晴らしい父母が死んで、自分のような泣き虫が生きながらえていることを責められているようで、知るのが怖かった。

 そんな幼いマクシミリアンの拒絶に、次第に父母の話題を避けてくれるようになった。

 気遣いに甘え続けた結果が、このざまだ。

 こんなことなら、もっとちゃんと知っておくべきだった。


(叔父上には、申し訳ないことをしたな)


 親不孝ならぬ、叔父不孝だろうか。

 宙をさまよっていた手は、いつの間にか力なく垂れている。


「……やっぱり、今さらだよな」


 父母を知らないから、親というものがわからない。それが、そもそも言い訳だとわかっている。

 朝の憂鬱のせいで、ここに来てしまった。それだけだ。

 いったい自分はなにをやっているのか。と、マクシミリアンが苦笑していると、突然背後から声がした。


「なんで、開けないの?」

「!?」


 声にならない悲鳴を上げて、ぎこちなく振り返るとアンナがいた。ガウン姿の彼とは違って、きっちりと身支度を終えた彼女は、気配に気がつかなかったのが不思議なくらい近くにいた。


「驚かさないでください、アンナ」

「あら、ごめんなさいね。あなたがここに入っていくのを見かけたものだから、扉も閉まっていないから入ってきちゃったのよ」


 アンナのしれっとした答えに、マクシミリアンは少しも納得できなかった。


「入ってこないでしょう、普通。それにずいぶん朝が早いようですが、こちらのもてなしに不備でもありましたか」


 最上級の客室を用意させたのにと嫌味をこめた、憮然とするマクシミリアンにアンナはつまらない質問だと肩をすくめる。


「いいえ、素晴らしく快適だったわ。こんなに寝心地がよかったのは、久しぶりでちょっと感動しちゃったくらい。あのねマックス、わたしはコニーの身の回りの世話をしていた上級使用人。周囲がどうとらえようとも、わたしがやってきたことは、そういうことよ。だから、主人の許可なく入室するのも、早起きも、習い性よ」

「……なるほど」


 アンナの主は、マクシミリアンではない。早起きはともかく、無断で入ってきたことは説明になっていないのではないか。まったく悪びれない彼女に、彼は感心するやら呆れるやらで指摘できなかった。


「それで、開けないの?」

「ええ、まぁ……」


 その鞄をコーネリアスから譲り受けたとき、彼女もその場にいた。当然、どういうものか知っている。

 マクシミリアンの歯切れの悪い答えと、落ち着きなく宙をさまよう視線に、アンナは「情けない」とため息をついた。


「『案ずるより産むがやすし』、昨夜そう言ったのは誰だったかしら」

「俺、です」

「その言葉、今のあなたにぴったりだという自覚は?」

「……あり、ます」


 煮えきらないマクシミリアンに、アンナは首を横に振った。


「コニーが言っていたわ。あなたは、腹をくくれば必ずやり遂げてくれるけど、腹をくくるまでに時間がかかるって。本当にそのとおりだったわ」

「なんか、すみません」

「あと、本人が自覚している以上に両親を亡くしていることが、劣等感になっているともね。わたしに言わせれば、馬鹿馬鹿しいったらないわ。そんなことで、父親にふさわしいかだとか、失格じゃないかとか悩むなんて」


 ああやはりと、マクシミリアンは肩を落とした。


「……さすが、アンナ。お見通しでしたか」

「まさか! 何を言っているの、マックス」


 アンナは大仰な身振りで呆れたと嘆く。


「本気であなたの様子に、周りが気がついていないと思ってたの?」

「それは……」

「いいわ。教えましょう。わたしが予定を変更して、ここに来たのは、あなたの様子がおかしいから力になってほしいって、王妃殿下からの手紙を受け取ったからよ」

「ジャスミンから!?」


 意外な人物に、マクシミリアンは信じられないと大きな声で驚く。国外で生まれ育った王妃とアンナは、それほど親しい間柄ではなかったはず。というよりも、親しくなるきっかけができる前に、アンナが旅立ってしまったのだ。


「意外よね。わたしも、驚いたわ。でも、ジャック様の差金なら納得できるわ。コニーが愛した可愛い甥が困っているのを、わたしが放っておくわけないとでも考えたんでしょう。そう、そのとおりよ。まったく、人の動かし方をよく心得ていること」

「ハハハ……」


 もう乾いた笑いしか出てこない。


「そもそも王妃殿下に手紙で相談したのは、デボラよ」

「……」


 乾いた笑いも出てこなくなった。


「自分の妻が何をしていたのか気がつかなかったくらい余裕を失っていたのか、それともバレていないと思い込もうとしたのか、どちらでもいいわ。でも、このひと月あまりの行動はどうかと思うわ」

「……手厳しいですね、アンナ」


 机によりかかったマクシミリアンは、ぽつりぽつりと白状した。悩み始めたきっかけから、父母がいないまま親になる者は珍しくないことも、贅沢な悩みだとわかっていることも、全部。


「それこそ『案ずるより産むがやすし』だってわかっているんですけど……ドツボにはまって抜け出せなくなったというかなんていうか。だいたい、これが解決してくれるのかもわからないのに」

「でも、あなたはその鞄を開けようとした。自分の両親を知りたいと思ったんでしょう?」


 ほとんどうなだれるようにして、マクシミリアンはうなずいた。

 ツカツカと靴音を立ててやってきたアンナは、むずんと机の上の鞄の取ってを握った。


「悩み続けるなんて、まったくもってナンセンスよ。目の前に解決する手立てになるかもしれない物があるってわかっているのに、ためらう必要なんてないの。わかった?」

「あ、あの、アンナ、俺は……」

「別にあなた一人で開ける必要はないのよ。代わりにわたしが開けてもいいし、デボラに開けてもらっても、他の誰でもいいの。あなたの長所は、周囲に頼ることができるところよ。そういうところは、コニーも見習ってほしかったわ」

「でも、今さらそれを開けたところで、どうにかなるとは限らな……」

「もうすぐ朝食の時間よ、リセール公」


 鞄を手にしたアンナは、これ以上マクシミリアンにうじうじする時間を与えなかった。


「まずは、ちゃんと着替えなさい。殿方は身だしなみをおろそかにしがちだけど、身だしなみを整えるだけで心はずいぶんスッキリするものよ。それから朝食。美味しいもので腹が満たされれば、自然と前向きになれるものよ」


 それからと、彼女は不敵に笑う。


「それから、あなたの前でこれを開けてあげる。それまで、わたしが預かっているわ。そうしないと、しまわれちゃうかもしれないもの。それほどクリストファー様のこともパトリシア様のことを知っているわけじゃないけど、そんなわたしでも、お二人があなたを愛していたのは知っている。教えてあげるがないわけじゃないわ」

「アンナ……いや、わかった。急いで着替えてくるよ」


 もうこれ以上どれだけ言い訳をしても、彼女は聞いてくれないだろう。


(まぁ俺の言い訳なんか聞く価値もないか)


 それに、アンナの言う通りになるかもしれない。

 マクシミリアンは、ため息をついて自室に引き返した。

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