第二十五話 過多と過小
どっどっと心臓が早鐘をうった。人が近づいたからか餌を求める鯉が尾ひれを揺らして水面に波を立てた。広がった波紋があたしの足元や遠く離れた水面までをも揺らしていく。すうっと血の気が引いた頭はクラリとめまいがするようで、着いているはずの両足はどうにも地についていないようで、体は妙に冷えるし指先が震えた。喉が酷く渇いているが、これがただ冬の空気が乾いているからではないことくらいわかっている。急いでポケットの中に引き摺り込んだ左手だけが暖かくて腹が立った。
朱里ちゃん、とまたあたしを呼ぶ圭子の声にゴクリと唾を飲む。心臓がうるさいせいでその声色から感情を読むことはできない。それに何かが引っかったみたいに身体が動かなくて表情を見ることもできない。逃げ出したい、消えてしまいたいと頭の中だけが活発に叫び続けた。振り向いたらきっと、さっきまで楽しそう笑っていた女があたしを化け物を見るような目で見ているだろう。それから気味が悪い、気持ちが悪いと夫に口を開くのだ。ああ、きっとこんな体のクセに綺麗な物を見たいと願うから罰が下った。人に迷惑が掛かるからと理由をつけては死を遠ざけたせいで結局こうなった。あたしはもう終わりだ。これ以上はもう耐えられない。
「朱理ちゃん、池の周りを歩いてきたと?」
「…え?」
だが、降ってきた声は予想とは全く異なっていた。おかげで間の抜けた声がでる。喉が渇いたせいかその声はかすれていた。
「ここをぐるっと一周してきた? 冬は何にもないけど、それはそれで綺麗やったやろう?」
なおも圭子があたしに声を掛ける。あたしはなぜか声が出なかった。
「突然話しかけてごめんね。でもあんまりに楽しそうやったから」
二人はあたしの視界からはちょうど死角になる場所に座っていたらしい。圭子があまりにも優しく普通の態度で接してくるから、もしかしたら左手は見られていないのではと思い始めた。しかし「大丈夫」と有めるように話しかけるのを見ると、やっぱり見られていたのだと思う。
「…あ、あの、すごく、きれいでした…」
見られたにせよ、見られていないにせよ、これ以上押し黙っていることもできなくて何とか口を開く。早くここを、離れなくては。掠れて、震えた小さな声は情けなかったがきっと笑えていると思う。そして「それはよかった」と笑う圭子は相変わらず可愛らしくて、優しくて、何が何だかわからない。
「あたしの手…見えました…?」
何もわからなくて、思わず訊いた。
「…ええ」
だけど肯定の言葉を聞いて、より一層混乱した。見たのになぜ、この人はこうも普通なのだ。
「英彦さんが朱理ちゃんのこと心配しとったから、なんかあるとやろうなあとは思っとったし」
「すみません、車に乗ってしまって。隠していたわけじゃなくて…でもこれ、感染る病気じゃないので…ただ、本当にすみません」
申し訳なさと恐怖で唇が震える。きちんと言葉にできているだろうか。
圭子の表情を伺うのは怖くて、目は逸らしたまま謝った。しかし
「知っとるよ。目の不自由な人たちの治療に複眼症のメカニズムが活かせるかもしれんって、一時期少し話題になってたから色々調べたし」
相も変わらず圭子の言葉が優しいのはなぜだろうか。
「でも…気持ち悪くないですか…?」
「そうねぇ、驚きはするね。やけど朱理ちゃん、英彦さんは、朱理ちゃんから見て気持ち悪い? 嫌? 見かけたら、避けたくなる?」
優しく、問われた。あたしは素直に首を振る。一瞬の驚きや戸惑いは感じるかもしれないが、きっとそれだけだ。
「私にとってはね、朱理ちゃんのそれもおんなじ。驚きはするけど、病気のことちゃんとわかってるから、病気を理由に避けたりしない。それに何かが足りん人がいるなら、人より多い人がおって当たり前やん」
そう言いながら、圭子があたしの肩にそっと触れた。思わず顔を圭子に向ける。声と同じくらい、優しい顔をしていた。
「それに私もちょっと足りんけんね、人から向けられる目が嫌なの、私もよく知ってる」
そう言いながら外された圭子の左の手袋からは、第二関節の先が見当たらない小指が出てきて、思わず少し息を呑んだ。
「ちょっと、不恰好やろ。昔、農作業してる時に落としちゃった」
「不恰好…だなんて…」
「私もね、私自身が人と違うことはわかってるし、その人が怖いとか気持ち悪いとか思うのはわかる。やけどそれを顔とか言葉に出すのは違うと思うし、やめて欲しい」
優しそうな顔のまま、眉毛だけを困ったように下げる圭子の顔はどうにもあたしの涙腺を刺激する。
「その病気はある事ない事いろいろ言われとるし、私や英彦さん以上に大変やったろう。やけど大丈夫。私も英彦さんも、あなたに偏見なんかないよ。その病気のことも、周りが怖いことも知っとるから」
そう言われて涙が溢れた。
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