第38話

「いたた、もっと優しくして」

「我慢して。消毒しないと傷、もっとひどくなるから。……はい、これで終わり」


 雪羽は私の膝に消毒液をかけて、最後に絆創膏を貼ってきた。

 実用性を重視しているのか、絆創膏は特に柄も何もない橙色のやつだ。膝に猫の絵が描かれた絆創膏とか貼られても困るから、いいんだけど。


 私は雪羽のベッドの上に座らされていた。

 手当を終えた雪羽が私の隣に座ってくる。しんと静まり返った部屋には二人の呼吸音だけが響いている。私はベッドに置かれている彼女の手に、そっと自分の手を被せた。


 振り払われなかったことに安心して、でも、まだ告白の返事をもらっていないから緊張する。


 雪羽は無表情に戻っているが、雰囲気がいつもと違う。彼女もまた緊張しているようで、体がいつもよりこわばっている。


 だけど、彼女が発している雰囲気は、緊張しているだけの時とはちょっと違うと思う。


 今、何考えてるんだろ。

 ……うーん。


「雪羽」


 名前を呼んだだけで、彼女は体を跳ねさせた。


「何、穂波」

「さっきの、告白だから。いつかちゃんと返事してね」

「……こくはく」

「そう。私、雪羽のことがずっと好きだった」

「なんで、今になっていきなり」

「告白するだけの自信がついたからかな。……それに、友達のままだと雪羽とずっと一緒にいられないって思ったから」


 雪羽は私のことをじっと見つめてくる。

 彼女の瞳はいつもよりも潤んでいて、思わず触れたくなるほど綺麗に見えた。


「本当に、私と恋人になりたいの?」

「うん。雪羽が私のことを初めて人混みから見つけ出してくれた時から、ずっと。ずっと雪羽のことが好きだった」

「……私、も」


 雪羽は私の手をぎゅっと握ってくる。

 彼女の顔が近づいて、普段とは比べ物にならないほどの距離で向き合うことになった。


 ここまで真剣な瞳は、初めて見たかもしれない。


「最初に話しかけてくれた時から、穂波のことが好きだった」

「ほんとに?」

「嘘、つかない。つけないよ。穂波への気持ちに、嘘はつけない」

「……そっか。そっかぁ」


 最初からずっと、両思いだったのか。

 だとしたら私たちは随分と遠回りをしたことになる。安心したらどうにも体から力が抜けて、笑みが溢れた。


 雪羽が好きだと言ってくれたのは嬉しい。でも振られなかった安堵の方が強くて、私はベッドに倒れ込んだ。柔らかな感触が背中から伝わってくる。


 よかった。本当に、よかった。


 ちゃんと雪羽と話をして、告白していなかったら、雪羽が私のことを好きだってこともわかっていなかっただろう。


 遠回りして、自分に少しだけ自信が持てるようになったからこそ、彼女の「好き」を素直に受け入れることができている。

 私は小さく息を吐いて、彼女を見つめた。


「ん? でも待って。じゃあなんで最近私のこと避けてたの?」

「……だって」


 雪羽もベッドに倒れ込んで、私と目を合わせてくる。

 彼女はどこか気まずそうな顔をしていた。


「穂波に好きな人ができたってわかったから、嫉妬した。穂波に恋人ができるかもって思ったら。私以外の人を好きになったって思ったら。……まともに話なんて、できなかった」


 雪羽がそこまで私のことを好きなんて、知らなかった。

 ハグしたり手を繋いだりはしていたけれど、彼女はいつも無表情で、あまり強い感情を見せてくれなかった。だから私は、ずっと不安だった。雪羽との関係も時間と共に薄れて、消えてしまうんじゃないかって。


「そんなに私のこと、好きだったんだ。……だったらもっと顔に出してよ。私、ずーっと雪羽とは両思いになれないんだって思ってきたもん」

「それは、私も。穂波は誰にでも笑顔見せすぎ。好きとか愛してるとか気軽に言うし、私、それにいつもイライラしてた。私の気も知らないでって」


 私たちは顔を見合わせて、笑った。


「……私たち、色々隠してきたんだねぇ」

「うん。ごめん」

「何が?」

「私、穂波に告白する勇気も、ちゃんと好きって言う勇気もなくて。だから、ごめん。……好き」

「いいけど、謝るか好きって言うかどっちかにしてよ」

「……好きだよ。好き」

「私も。これから恋人ってことで、いい?」


 雪羽は小さく頷く。私は体を起こして、雪羽を引っ張った。

 恋人同士がすることは、まだよくわかっていない。キスとか、セックスとか、そういうのしか思いつかない程度には想像力に乏しくて。でも、もし恋人になれたのなら、したいことが一つあった。


 私は雪羽を自分の胸まで引き寄せた。そのままぎゅっと彼女の体を抱きしめて、その体温を感じる。


 恋人になったら、理由なしに彼女と抱き合いたかった。

 手だって、人混みじゃなくても繋ぎたいと思ってきた。だから今、それを全部叶えたい。


 雪羽は控えめに、私の背中に手を添えてくる。

 避けられるか気にしないでいいスキンシップがこんなにも心地いいなんて、知らなかった。


 私は思わず頬を緩ませて、彼女を強く抱きしめる。

 雪羽を感じる。


 微かな息遣いとか、あったかさとか、私とは違う柔らかさとか。それを感じているだけで幸せで、今だけは何も口にしたくないと思った。


 この愛おしさは、きっと言葉にしたら胸からいなくなってしまう。だから彼女から得られる感情を胸にしまいこんで、全身に伝わる感触に集中する。


 雪羽だ。

 いつもと同じだけど、違う。

 それはきっと、お互いに好きだってわかったから。

 しばらくして、ようやく私は口を開いた。


「雪羽は、ほんとにぽかぽかだ」

「それ、何度も言ってるよね。お泊まりした時も、映画見に行った時も言ってた」

「……お泊まりした時、言ったっけ?」

「言ってた。あの時、どれだけドキドキさせられたかわかってる?」

「ドキドキ、してくれてたんだ」

「してたよ。今だってしてる」


 くっついた胸からその鼓動を感じようとしても、うまくいかない。

 だって、私の心臓もありえないくらいに鼓動を打ち鳴らしているから。

 私の鼓動がうるさすぎて、雪羽の鼓動を感じることができない。


「雪羽の鼓動、聞こえない」

「穂波のも、だけど」


 雪羽もドキドキしているのは、わかる。いつもより声が震えていて、余裕がなさそうな感じだ。


「……恋人って、何すればいいのかな」


 私はぽつりと呟く。雪羽はびくりと体を震わせた。


「そういうのは、考えなくていいんじゃない。恋人がすることじゃなくて、私たちがしたいことを少しずつしていけばいい」

「あ、大人な意見だ」

「……からかわないで」

「あはは、ごめんごめん。でも、そうだね。二人でちょっとずつ、していこうか。……雪羽が今、したいことってある?」

「……」


 雪羽は答えない。

 ないってことなのかな。


 そう思っていると、雪羽は私から体を少し離して、顔をじっと見つめてくる。


「……キス、したい」

「え」


 雪羽からそういうことを言ってくるとは思わなかった。

 私は目を丸くしてから、笑った。


「……いいよ」


 雪羽とキスするのを、想像したことが一度もないと言えば嘘になる。

 だけどキスを具体的にどうやってやればいいのかは、したことがないからわからない。じっと雪羽を見つめる。彼女は少し顔を赤くしていた。


 肩に手を置かれると、少し緊張する。

 私よりは緊張していないらしく、雪羽はそっと私に顔を近づけてくる。


 初めてじゃ、ないのかな。

 いや、うーん、でも。


 あれこれ考えていると、雪羽の顔が吐息を感じる距離まで近づいてくる。

 私はそっと、目を瞑った。


「するよ」

「……うん」


 注射の前みたいな緊張感が漂っている。でもこのドキドキは注射の時よりずっと心地良くて、胸が少し痛いのも、それでいいと思った。


 目を瞑っていても、雪羽が近づいてきているのがわかる。


 距離が完全に埋まったら、どれだけ柔らかい感触がするのだろう。そう思っていると、硬いものと硬いものがぶつかるような音がして、口が痛くなった。

 思わず目を開けて、口を押さえた。


「いったぁ!」

「……うぇ」


 雪羽は眉を顰めて、私と同じように口を押さえていた。

 それを見て、ぷっと噴き出す。


「ふ、ふふ……あはは! 雪羽、がっつきすぎ!」

「だって、初めてだから」

「そっかそっか。なんか慣れてる風だったからびっくりしたけど、安心した」

「……唇ではないけど、一回だけ穂波にしたことあるから」

「え」

「ほっぺたに、ちょっとね」

「それ、いつ? えー、覚えてない。なんで?」

「映画、見に行った時に」


 雪羽は微かに目を逸らして言う。

 そういえばあの時、雪羽は妙に頬を重点的に拭いてきていた。


 キスしたのを誤魔化すための行為だったのか。

 その時ちゃんと起きていたら、ここまで遠回りはしていなかったのかもしれない。


 でも、いいか。

 色々あったけど、結局恋人になれたんだから。


「私だけ覚えてないのってズルじゃん。私にもさせて」

「……無理。恥ずかしいから」

「いや、今唇にしたのに。ちょ、雪羽?」

「手当終わったから、もう帰って。受験勉強あるし」


 雪羽は私の背中をぐいぐい押してくる。


「いやいや、唐突すぎ。あー、もう! わかったから!」


 押されるままに立ち上がって、雪羽を振り返る。

 彼女は沸騰したみたいに顔を真っ赤にしていた。


 キスをしたのが恥ずかしいのか、失敗したのが恥ずかしいのか。わからないけれど、からかったらまずいんだろうと思い、何も言わず彼女の部屋を出た。


 今日は今まで見たことのなかった雪羽の表情をたくさん見ることができている。

 それが嬉しくて、愛おしい。


「手当、ありがとね。また明日」


 私は玄関まで歩いて、雪羽に言った。


「うん、また明日。……だけど、その前に」


 靴を履こうとする私の両頬を手で挟んで、雪羽は唇を合わせてきた。


 私の方は準備ができていなかったけれど、雪羽はちゃんと歯を当てないように気を遣ってくれたのか、今度はちゃんとキスすることができた。


 ふわりと柔らかな感触が唇に降りてきて、私は目を丸くした。


「最初のキスが変な思い出になるのは、嫌だから。じゃあ、ほんとに、また」

「う、うん。また……」


 雪羽はさっきよりもずっと顔を赤くしていたが、多分私の方が真っ赤だ。


 これ以上顔を合わせていたら変なことになりそうだったから、私はそのまま彼女の家を後にする。


 帰る途中で『大好きだよ』とメッセージを送ると、デフォルメされた犬が『了解です』と言っているスタンプが返ってきた。


 なんだかなぁ。

 つい笑ってしまう。


 恋人になったからっていきなり態度が激変するわけではないんだろうけど、雪羽はやっぱり雪羽だ。


 その次に送られてきた『私も好き』というメッセージを見て、私は目を細めた。

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