第8話

 雪が降ったからいつもより早めに待ち合わせをした私たちは、当然いつもより早く教室に着くことになった。


 まだ教室には誰も来ていなかった。

 私はバッグを机の上に置いて、ローファーを脱いだ。


 校則だから仕方がないけれど、こんな雪が積もっている日になんでローファーで歩かないといけないんだろう、と思う。


 途中何度も転びそうになって、その度に雪羽に引っ張られた。

 雪羽は意外と体幹がいいらしく、全然動じていなかったが。


「なんで靴脱いでるの?」

「濡れたから」


 ソックスを履いてきて正解だった。

 流石に学校でタイツを脱ぐのはまずいと思うけれど、ソックスくらいならまあいいかという気がしてくる。


 私はソックスを脱いで、椅子にかけた。


「夏川」


 彼女は私の隣の席に座った。

 その視線は、私の足に向いている。


「それって……」

「ん? あー、ペディキュア。可愛いでしょ、ピンクのやつ」

「そういうの、塗ったりするんだ」

「まあね」


 雪羽はまじまじと私の足を見ている。

 ちょっと、いや、かなり恥ずかしい。人にこうやって足を見られることなんてないし、まして相手が好きな人なのだ。


 緊張で鼓動が速くなる。

 普段髪型を気にしているのは、雪羽に気づいて可愛いと言ってもらいたいからだ。でも、人に見せないペディキュアを塗ったのは、純粋に私が楽しむためだった。


 雪羽の趣味に合わなかったらどうしよう、なんて少し思う。

 でも、見られてしまったからには、隠すのも変だ。


「確かに、可愛いね」


 ぽつりと、小さな声で彼女は言った。

 彼女の言葉で一瞬体が固まって、でもすぐにその言葉の意味を飲み込んで、心がふわっとする。


 好きな人に、自分の趣味を褒められた。それだけのことなのに、さっきまで感じていた不安は全部なくなって、代わりに嬉しさが胸に満ちる。


 今はもう、恥ずかしさもない。

 むしろどんどん見てやってくださいって気分になってくる。もっと見て、もっと褒めてほしい。彼女に可愛いと言われることが、今の私にとっては何よりも嬉しいことだ。


 恋人になんてなれなくても、彼女が私を見て可愛いと言ってくれたら、それだけで。


 世界中の誰よりも幸せになれるのだから。


「そうでしょそうでしょ。ほら、もっとじっくり見てみてよ。なんなら触って見てもいいよ」

「それはしないけど」

「つまんないなー」

「……」


 会話が一度、止まる。


 まだエアコンがついていない教室は寒くて、素足を曝け出していると背筋が震えてくる。でも靴もソックスもまだ乾いていないから、履いたらもっと寒くなってしまう。


 こういう時、身を寄せ合って温めあえたらな、とちょっとだけ思う。

 寒いと言ったら、温めてくれたりしないだろうか。

 流石にそれは、求めすぎかもしれない。


「寒いね」

「うん」


 やっぱり雪羽は、寒いと言っても特に何もしてくれない。

 今日は朝から彼女と手をつなげたし、可愛いと言ってもらえた。それだけで本当は満足するべきで、これ以上は贅沢だってわかっているけれど。


 もっともっと、彼女を求めてしまう。

 そういうのが、恋の厄介なところだ。あまり変なことをしすぎるときっと、うざいと思われてしまう。


 彼女の感情は雰囲気で大体わかるけれど、時々雰囲気も表情も変わらなくなることがあるから、私はその度に不安になる。


「そろそろ、今年も終わりだね」


 彼女が言う。

 今年は始まったばかりだと思うけれど。

 彼女が言いたいのは、きっと今年度のことなのだろう。


 あと二ヶ月もすれば、クラスが替わる。そうなったら私たちは離れ離れになるかもしれなくて、友達ですらなくなってしまうかもしれない。


 そうなる前に、思い出が欲しい。

 できればこれから先も友達のままでいられるという確信も欲しいところだけど、雪羽がどれだけ私に友情を感じてくれているかわからないから、不安になる。


 手を繋いでくれたり、可愛いって言ってくれたり。

 それって、普通の友達がすることだ。

 少なくとも友達だってことは、疑わなくていいはずだけど。

 問題はそれがどれくらいの友達かってことで。


「そうだね。もう私たちも二年生だ」

「うん。……最初に夏川が声かけてくれた時のこと、覚えてる?」


 雪羽はどこか遠い目をしていた。

 それほど昔のことじゃないはずだけれど、遠い昔のことのようにも感じられる。


 でも、私はちゃんと彼女と初めて話した時のことを覚えていた。


「覚えてるよ。私が雪羽のとこ行って、絡んだ」

「そう。あの時は、びっくりした」

「私もちょっと強引だったかなって反省してる」

「反省は、しなくてもいいけど」


 雪羽は少しだけ、私の方に椅子を寄せてくる。私は足を伸ばして、彼女の椅子に踵を乗せた。

 雪羽は特に、嫌がる素振りを見せない。


「……嬉しかった。夏川が、話しかけてくれて」

「え」


 こんな言葉を雪羽が口にしたのは、初めてだ。基本的に私は彼女に冷たくあしらわれているから、少し驚く。


 こういう時でも表情が変わらないところが、雪羽らしいと思うけれど。


「私、結構雰囲気が怖いって言われるから。自分から話しかけても怖がられるし。夏川が来てくれたおかげで、ちょっとは怖がられなくなった」

「なになに、今日はめっちゃ褒めてくれるね」

「夏川が私に話しかけてくれたのは、なんで?」


 冷たい椅子の感触が足から伝わってくる。

 雪羽の視線はまっすぐ私を射抜いている。


 普段は聞かないようなことを聞いてくるのは。雪羽も、クラス替えに何か思うところがあるから、なのかもしれない。


「雰囲気かな」

「……?」

「雪羽、皆と仲良くしたいって雰囲気に出てたから」

「……そんなの、初めて言われた。私、話しかけないでオーラが出てるってよく言われるから」

「出てないよ。仲良くしてオーラが出てた。だからかな。ちょっと老婆心っていうか、お節介なところが出ちゃったっていうか、ね」

「お節介じゃないよ。……ありがとう」


 雪羽が、笑った。

 他の人にはわからないくらい、僅かに。ほんの少しだけ口角を上げて、目を細めて。その笑みを見た私は、胸の中が洗濯機みたいにぐるんぐるんして、顔が熱くなっていく。


 不意打ちだ。

 いきなり笑いかけられるなんて思っていなかったから、心の準備ができていなかった。


 だから余計に彼女の笑顔が胸にクリーンヒットして、どうしようもなく喜んでいる自分がいる。


 お節介とか、うざいとか。

 人に言われたことはないけれど、雪羽にどう思われているかはやっぱり不安だった。彼女が私に感謝してくれているのなら、良かったと思う。


 でも。

 今このタイミングでありがとうなんて言われると、一年間ありがとうさようならみたいな意図を少しだけ、感じてしまう。


 真意を確かめたい。

 一年で関係が終わるからこそのありがとうなのか、これから先も一緒にいようねのありがとうなのか。


「雪羽——」

「うー、さみー! エアコンついてないし! 冷凍庫じゃん!」

「穂波と秋空じゃん。はよーっす」


 二人きりの時間は終わりらしい。

 友達が二人教室に入ってきて、私たちに近づいてくる。


 教室のパネルを勝手に操作してエアコンをつけ、バタバタと忙しく歩いてくる二人は、全くいつもと変わっていない。


「お、穂波脚綺麗! 超美脚!」

「お前は毎日剛毛の処理に追われてるもんな」

「は? 殺すわ」


 二人のじゃれ合いを見ながら、私はそっと椅子から踵を下ろした。

 踵を乗せて、何をしようとしていたかとか。

 自分でもよくわからないけれど、朝の静かな時間は終わったのだ。


 ちらと雪羽に目を向けると、彼女は無表情に戻っていた。そして、不機嫌なオーラが出ている。


 雪羽も私と二人きりの時間を過ごしたいと思ってくれていたのだろうか。

 だとしたら、嬉しいけれど。

 ……これからどうやって、雪羽の機嫌をとろう。

 問題は山積みだった。

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