第四話 異変の始まり

「テレジア!テレジアごめん!電話貸して!」


 『カサンドラ』から一心不乱に自転車を漕ぎ、テレジアの家に着いたあたしは急いで中に入ると同時にそう呼び掛けた。

 いつもなら「またサボりに来たんだね、先に手だけは洗うんだよ」とテレジアが奥の台所から顔を出してくる筈だけど、今日は返事が無かった。おかしい。水曜日だからあたしが来ることは分かってるはずなのに……


 玄関に靴を揃えて置こうとして、来客がある事に気付く。テレジアの靴ではない、一見質素だが高級そうなパンプスだ。人柄が良い彼女と世間話をしようと時折、訪ねて来る近所のオバ様連中のモノだろう。それにしてもこんな朝早くから?


「お邪魔しま〜す」


 来客を驚かさないよう、静かに挨拶し直してリビングへと向かう。電話はリビングに1台、応接室に1台ある。応接室にあるのはダイヤル式でオシャレだし好きだけど、今は急いでいたからプッシュ式の電話を使いたかった。

 リビングに入ると奥の椅子に案の定、オバ様が一人座っていた。机には飲み掛けの紅茶とクッキー。どうやらお茶会をしていたらしい、テレジアはどこに行ったんだろう?


「あ、すいません。電話使いたくって……」


 そう言いながら近付くと、オバ様が顔を上げた……なんだ、リリーおばさんじゃん!

 リリーおばさんはあたしの家の近所、西区に住む一家のお婆ちゃんで、これまた熱心な信徒の一人だった。近所のよしみであたしにも子供の頃から良くしてくれて、いつもすれ違うと挨拶したりお菓子をくれたりする優しい人だ。

 けど今日はちょっと様子がおかしい。いつも穏やかに八の字に垂れる眉毛は鋭く吊り上がり、眉間に皺を寄せて怒ったような、笑ったような顔つきをしてる……


「う゛う゛う゛ぅ゛ーーーー」

「おばさん大丈夫?頭でも痛いの?」

「う゛う゛う゛」


 返事が無い。普段は和やかに喋るのに、返ってくるのは犬の唸り声の様な音だけ……というか、むしろイビキ?もしかして寝てる?


「リリーおばさん?寝る時に目開くタイプなのかな、おーい」


 リリーおばさんの顔の辺りに手を翳し、振ってみる。目は開いたまま……いや、瞬きした!起きてる!!


「あ゛あ゛ぅ!!!!!」

「あぶなっ!!!」


 がちん!と音を立ててリリーおばさんの歯が閉じる。明らかにあたしの手に噛みつこうとした軌道だ。

 よく見るとリリーおばさんは両腕を椅子に固定されていた。お陰で噛まれずに済んだけど、この荒れ様……さっきのフランクのおっちゃんに似てる。。

 昨夜、そんなに大規模な飲み会でも開かれたのだろうか?


「オバちゃん、もう歳なんだから程々にしなきゃダメだよ〜」


 そんな風になんでもないように宥めてみせたけど、正直に言う。あたしは結構ビビってた。フランクのおっちゃんの時もそうだったけど、運良く回避しただけでほぼノーモーションの攻撃に毎度驚く暇が無かったんだ。軽口を叩きながら、遅れてやってくる恐怖に足がすくまないように気持ちを落ち着ける……そう、とにかく電話をしないと。警察?救急車?


"ベリ……ベリベリ……"


 嫌な音がした。


 そう認識して振り返った時には、もう遅かった。飛び掛かる影。思わず後ろに倒れ込む。


「ぐああぁぁぁ!!!」

「きゃあああぁぁぁ!!!!」

「うちのメアリーに手ェ出すんじゃない!」


"ゴン"


 鈍い音がして、飛び跳ねたリリーおばさんの顔面にスコップが炸裂し、軽い老体があたしの太ももの上に堕ちた。


「大丈夫かい、噛まれなかったかい?」


 呆然

「テレジア……テレジアァァァァ!怖かったよぉ!!」

「おぉよしよし、泣いてる暇があったらさっさと立ちな。いつ起き上がってくるか分からないんだ」

「起き上がる……?」


 テレジアに手助けされながら立ち上がり、倒れたリリーおばさんを見る。折れた歯と血が飛び散った床。リリーおばさんはそんな中、微かに呻き声を上げていた。


「リリーは今朝5:00くらいにいきなり訪ねて来てね。酔ってた様子だったからお茶を出して話してたら、急に暴れ出したんだよ。流石のアタシもびっくりしたけどね、きっとこれはゾンビってヤツさね」

「えっ!マジで!?本当にゾンビ?初めて見た!」

「アタシも初めてだよ!映画で予習出来てて良かった、お陰で噛まれずに済んだよ……でも万が一ラリってるだけだったら殺人になっちまうから、まだ頭は潰せないねぇ。どうしたもんか……」


 あたしとテレジアはB級ホラーが好きで、よく二人で観てた。それぞれ好みが微妙に違ってあたしは殺人鬼が出る映画が好きなんだけど、ゾンビが出る映画はそんなに得意じゃない。逆にテレジアはゾンビ系やオカルト系のホラー映画が好きで、スプラッタ系は苦手だった。


「そういえば、カサンドラでフランクのおっちゃんも似た感じだったんだよ」

「他にも居たのかい!?外は別に騒がしくないし、まだ感染者が少ないだけなのかねぇ」

「あ、そういえば……」


 急いでここまで来たけど、来る途中に何人か車道を彷徨いてる人達を見掛けたのを思い出した。

 そんなに早朝って時間でもないのに、町は全体的に明け方の南区に似た治安の悪さを彷彿とさせる、そんな感じの雰囲気だった。

 そのことをテレジアに伝えると、彼女は楽しそうに独り言を呟く。


「なるほど、活発に走るタイプじゃないのかもね。獲物を見つけて襲い掛かる時だけ俊敏になるのか……或いは個体差がある?まだ日中で覚醒してないだけかもねぇ」


 テレジアは考察を始めると止まらなかった。バラバラなヒントを体系的に纏めて筋道を立てる論理的思考はまさにオタクって感じで、あたしはそれを聞くのが大好きなのだ。


「今は立て篭もりが正解かねぇ。それにしてもリリーの処遇を決めなきゃね。外に放り出すのもアレだし……2階の物置に閉じ込めようか」

「本当にゾンビだったら学校のみんなとか、父さんと母さんも心配だけど……」


 話しながらも、テレジアは淡々とタオルでリリーに猿ぐつわを掛け、テープで手脚を縛る。映画でイメージトレーニングが出来ているのか、慣れた手つきだ。


「運ぶの手伝ってくれるかい?」

「もちろん!」


 あたしが脚を持ち、テレジアが頭を持つ。2階へ上がる階段はそんなに長くないけど、高低差が生まれるので結構大変な作業になる。目標の物置は階段を上がり切ってすぐのドアだ。落としたりしないよう慎重に……


 ……あと少しでテレジアが階段を登り切る。そんなタイミングだった。


「があぁあぁっ!!!」

「!?テレジア危ない!」

「ッ!」


 リリーが急に暴れ出し、あたしは蹴飛ばされて階段から落とされた。それと同時にリリーの口が大きく開いて……


 恐らく顎の関節を外したのだろう。猿ぐつわが外れる。

 遠ざかる景色に見えたのは、リリーの上顎がテレジアの左手に当たって、テレジアが痛がる場面――


 瞬きをすると、あたしは綺麗に階段を落ち切って、キッチンの入り口……お爺ちゃんの遺影や遺品が飾られた棚のある、リビングの角っこにすっぽりと収まってた。


「メアリー!逃げて!!!」


 声に反応して階段を見上げると、テープで芋虫状態になったリリーおばさんが外れた顎をダラリとぶら下げながら迫ってくるところだった。


「きゃあぁあぁ!!!」


 一丁前にヒロインみたいな叫び声を上げて咄嗟に横転して避ける。リリーおばさんは頭から壁に激突し、蠢いている。

 あたしは漸く今、目の前で動く"コレ"が人で無い事を認識した。無我夢中で武器を探す。目の前の棚――爺ちゃんの遺品の大工道具が目に入る。咄嗟に金槌を掴んだ。


「よくもテレジアを噛んだなあぁぁ!!!」


"ゴツン!……ジュッ"


「ぎゃあああああああ!!!!!」


 響き渡る断末魔の叫び。根拠は無いが、倒したと分かった。リリーおばさんは叫び終わると、ピクリとも動かなくなった。


「テレジア!」

「メアリー、よくやったねぇ」

「傷見せて、大丈夫なの?」

「ごめんねぇ、お婆ちゃん噛まれちまったよ」


 テレジアの左手は、親指の根本から人差し指の方にかけて皮がめくれていた。千切れた皮膚は歯型でmの字に抉れており、傷の断面は赤い筋繊維から白い骨が覗いている。


「結構、深くまで刺さったんだね」

「油断したよ……直前まで大人しかったのは顎を外す準備をしてたんだろうねぇ」

「ごめんね、あたしがよく見てたら……」

「なにもあんたが謝るこたぁないさ。アタシの猿ぐつわが緩かったんだ。やっぱり映画はフィクションだね」


 「ははは……」と軽く笑い合う。あたしは泣くのを我慢するので精一杯だった。頭が痛い。


「メアリー、よくお聞き。ゾンビ達はただ凶暴なだけに見えて、意外と知能が高いかも知れない。まだ町が静かなのも、感染者が十分に増えてないから悟られないように動きを抑えているだけかも……」

「連携とかしてくるやつだよね。あたしの苦手なタイプのゾンビだよ」

「そうだったねぇ、けれど、敵を見くびるとどうなるかよく分かってるだろう?」

「うん。うん……」


 ゾンビに噛まれたらどうするべきか、当然あたしは分かっていた。テレジアが次に言うセリフも……


「メアリー、本当に申し訳ないけどこの家から出て行っておくれ。そしてどうか無事に、生き延びておくれよ」

「うん、分かった」

「あと伝える事は……そうだね。もしゾンビが世界中の現象として起こってるなら、この町から脱出してもあまり意味はない。寧ろロガドゥは外部からの侵入に強い立地をしているから、立て篭もりに適してる。下手に逃げようとしない事。シェルターを建てるならこの町だよ」

「うん。うん。ありがとう……」

「じゃあ、無事を祈ってるからね」

「テレジアはどうするの?」

「アタシは2階に閉じ籠ることにするよ。発症するまでの時間とか、状態の変化とかを資料として書き残したいんだよ……本当はあんたをこの家に出来るだけ居させてあげたかったけど、そういうワケだから、すまないねぇ」

「……分かった。テレジア、ありがとう。良いデータ取れるように応援してるね」

「あはは、ありがとねぇ」


 テレジアが2階の奥へと去って行く。左手の傷口を押さえながら、最後まで微笑んでいた。痛みと混乱で冷静じゃ居られないはずなのに、あたしを心配させない為に気丈に振る舞ってくれてるのが伝わった。あたしも泣くわけにはいかない。


「テレジア!大好きだよ!!行ってきます!!!」

「行ってらっしゃい!気をつけるんだよ!」


 振り向かず、一気にテレジアの家を飛び出した。辺りを見渡すと、相変わらず棒立ちした人達が彷徨いている。

 自転車に跨った。目的地は一先ず……自分の家かな。非常事態が起きた時に備えて、自室に緊急用のサバイバルバッグが置いてあるんだ。まずはアレがないと。


「絶対に、最後まで生き残ってやる」


 ハンドルと一緒に、右手に持った金槌を強く、強く握り締めた。



 

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