未来を

請う人

「余命1ヶ月……」

「現代の医療でできる限界です。申し訳ない」


 頭を下げる白衣の男は、小難しい単語の並ぶパソコン画面とホッチキス止めの資料について丁寧に説明した後、そう告げた。


 妻と連れ添って20数年。1人娘はいつの間にか立派に成長してもうすぐ式を挙げる予定なのに。


「1ヶ月が限界なのですか?」


 乾いた唇を動かしざらついた声で医師に尋ねた。嘘だと言ってほしい、そんな淡い願いを込めて。


「1ヶ月持つか持たないか。奇跡的に1ヶ月を乗り越えられたとしても、どんなに頑張っても3ヶ月が限界です。それが、我々にできる精一杯です」


 担当医は白く染まった頭を下げて答える。無慈悲に返されたその答えは、一瞬で私を絶望へと突き落した。



 白い病室から窓の外を眺める。車いすを器用に乗りこなす人、点滴台を引きずりながらよたよたと歩く人、小さな子供を抱えながらもう1人の子供の手を引く人、幸せそうにベビーカーを押す人、腰の曲がった老人と一緒にゆっくりと歩く人。窓の向こうに見える景色は、随分と活気にあふれていた。


「享年49歳とは。100を超えてもピンピンしてる老人共がいるってのに、気の毒な事さね」


 ガラスの向こうに思いを馳せていると、ふと背後から声がした。緩慢な動作で振り返ったそこにいたのは。


「菊地くん」


 職場の同僚である菊地くんが、病室の入り口の壁にもたれかかりながらこちらをじっと見ていた。

 すらりと伸びた足をクロスさせ、気難し気に腕を組む彼は、なんとも言えないような表情をしている。笑顔でもなければ悲しんでいるようでもなく、かといって無表情という訳でもない。なんというのだろうか、『不思議な顔』としか形容できない顔だ。


「今日は休みなのかい?」

「まぁね。俺はお前さんとは違って寂しい独り身なもんでね」


 ひょいと肩をすくめた菊地くんは、そのままスタリスタリとベッドまで近づいてくると、ドサリと音を立ててベッドサイドの丸椅子に腰かけた。あまりの勢いにギィと鳴いた椅子がちょっと可哀想だ。


「そうか。すまないね、貴重な休みをこんなことに使わせてしまって」


 本人も言った通り彼は独身で、『やりたいことを楽しみつつ人生を彩ることができればそれで良い』というスタンスの人間である。 

 

 人といることが苦手な彼は、学生時代こそ彼女がいたそうだが、長続きしたためしはないらしく。『菊地くんはきっと、他人に興味がないのね』と、最後の彼女にはそう言われて振られたそうだ。それ以降、菊地くん自身も人に対する興味の希薄さにようやく気付き、そして無理に人づきあいをしなくては良いのではと考え改めたそうだ。


 そんな菊地くんの趣味は実に多岐に及ぶ。アニメ・ゲーム、アイドルに映画。それから音楽に読書、登山やキャンプなどのアウトドアまで本当に多趣味な人なのだ。仕事のない日と言えばそれのうちどれかに没頭しているのが常であり、『社畜菊地の休日、邪魔するべからず』と社内ではそんな文言まで出回る始末。普段はテキパキと業務に励み、会社へ多大なる貢献をしてくれている仕事人間への、会社からのささやかな恩返しでもある。


 だからこそ。そんな彼の休日を、私なんかの見舞いに使わせてしまっただなんて。


「すまない」


 椅子に座ったきり何も言わずにじぃっとこちらを見る菊地くん。なんとなく居心地が悪くなり、真っ直ぐなその目から逃げるように床へと視線を落とした。変わらず床は白い。腹立たしいくらいに真っ白だ。


「はぁ……。俺、お前のそういう所すっげーキライ」


 ピクリと体が揺れる。謝っただけなのに

『キライ』とは、これ如何に? 


 なにかしてしまったのだろうかと考えているとトン、トンッとリズミカルな音が聞こえた。白い床から音のする方へ目を向ける。先ほどまで見ていた床からさして距離のない場所、丸椅子でドンッと座る菊地くんの足元からその音は聞こえていた。少し泥の汚れの着いたスニーカーが一定の間隔で床を叩いている。


 今の勤めている会社に入社してから20年。これは菊地くんと共にいた年月でもある。つまりどういうことか。それだけの月日を過ごしていれば互いの癖など嫌でも理解できてしまうのだ。入社の時期も同じ、上からはニコイチとして扱われることも少なくはない。お互いのことは、きっとお互いよりも分かっていて。

 彼がこの仕草をするのは、決まって何かに腹を立てて怒りを覚えている時である。しかし先ほどまでの短い会話の中、どこで彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか。全くもって分からない。


「なんで謝んの? お前、何も悪いことしてないじゃん」

「それは」

「それともなにか? 俺には見舞いに来てほしくなかったか?」

「違う!」

「じゃあ何に対する謝罪だ?」


 君の時間を奪ってしまったことに対する罪悪感だ、と。そう言えたらどれほど良かったか。けれども、それはつまり彼の厚意を無下にすることと変わらない。何も、言葉にできなかった。


「はぁ……まぁいいさ。お前のソレは今に始まったことじゃないし」


 重たいため息が聞こえる。『ソレ』が何を指すのか分からない私は視線を上げることも無く、ただずっと、床を叩く菊地くんの足元を眺めていた。気づいたら床を叩く音はずいぶんと小さく、そして緩やかになっている。


 やがて。


 トンッと小さく床を鳴らすと、それ以上は何も聞こえなくなってしまった。壁に掛けられている時計の針の進む音だけが、ただただ静かに響く。カチリ、カチリ、カチリ。寸分違わず規則正しい音を刻む秒針は、何も言わずにそっと時を報せていた。


「なぁ、怖いか?」


 唐突に告げられた問いにふと顔を上げる。彼は、菊地くんは。『なにを』とも言わずに尋ねたが、その瞳は真っ直ぐにコチラを見据えていて。


 私も分からないふりでもすればよかったものを。惚けて違う話題へと話を逸らすこともできたのに、彼の問いを、彼が何を尋ねたいのかを汲み取ってしまって。


「怖い、ですか……もちろん怖いですよ」


 掛け布団の上に置いていた両手に力を入れて、握り拳を作る。血色の悪くなってしまった柔い皮膚に刺さる爪がちょっと痛い。


「娘の結婚式を見届けて、孫を抱いて、3世代の家族写真を撮りたかった。妻とももっと一緒にいたい。年をとってお互いに『皺だらけだ』って笑い合うことが夢だったのに。両親にだって、まだなにも返せていない」


 絞り出すように胸の奥の思いを口にした。1度零れ落ちた言葉は、雲から落ちる雨のようにとめどなく溢れて、止めようにも止まらない。止め方が分からない。余命宣告を受けてから1週間、ずっとしまい込んでいた思いを、誰にも言えなかった苦しみを吐露する。


「怖くないわけ、ないじゃないですか」


 鼻の奥がツンと痛み、目のあたりがカッと熱くなる。それでも、これ以上情けない姿を見せたくなくて、そっと瞼を閉ざすと涙だけはのみ込んだ。握りこんだ拳がピリッと痛む。


「すまん。お前なら飄々と受け入れてそうだったからさ。なんかちょっと、安心した」

「なんですかそれ。『私なら』って」

「いや、まぁな」


 人の心の内を土足で踏み荒らすような、そんな菊地くんをキッと睨めば「おーこわ」と言って肩をすくめられた。怖いだなんてちっとも思っていないような、口先だけの言葉にさらに目を鋭くする。


「でもまぁ、普通はそう思うもんだよな」


 遠くの方を見つめながら菊地くんは呟く。聞かれていると思っていないのか、本当にふっと口からこぼれてしまったようなその声は、いつになく不可解そうに揺れていて。その声音になんとなく不穏なモノを感じ取った私は「どうかしたのですか」と口を開こうとした。が。


「なぁ。コックリさんって知ってっか?」


 そう問う彼の声に、問いかけようと開いた口を再び閉ざした。



『コックリさんって知ってっか? 子供の頃に流行ってた知りたいことを知れる降霊術。危ないから絶対にやるなって大人たちが口酸っぱく言ってたろ。アレと似たようなやつにさ、キクマリさんってのがあるんだ。死神みたいに命を司るらしくて、上手くいけば命が貰えるらしい。なぁ、賭けてみないか?』


 いつも通り静かな病室の中、数日前に同僚が口にした提案を思い返す。私はそもそも無神論者かつ、都市伝説や非科学的なモノには懐疑的な感情を持っている、いわゆる現実主義者である。そもそも命を与えるなんて神でもなければ出来ないはずのことだ。一介の都市伝説にそんなことができる訳ない、と一蹴しようとしたのだけれど。

 私を見る彼の瞳があまりにも真っ直ぐだったから。賭けてみようと、否定してきたはずの非現実に縋ることを決めたのだ。


「月のない夜、丑三つ時」


 灯りを落とした病室から空を見上げる。深い夜を照らしているのは、夏空を彩る蛍のような頼りない星々の光のみ。夜の太陽たる月は今、暗闇の中に溶け切って姿も見えない。


「コップ1杯の水と酒」


 菊地くんが持ってきてくれたどこかの山の湧き水と、懐かしい地場酒。どこまでも澄んだ水を透明なコップに、馴染みある香りの濁り水を小さな徳利に、そっと流しいれる。とっとっ、と流れる水音が静かな病室内に良く響いた。


「願いを記した紙」


 手帳から引きちぎり、端を切り整えた紙を手に持つ。もう片方の手には使い慣れた万年筆を持って、手帳を台にして紙切れに筆を走らせた。そこに書き記したのはもちろん『娘の結婚式を見届けられますように』という願い。インクが乾いたことを確認してから、その紙切れを枕の下に入れる。あとは……。


「頭の中で『名』を唱えながら眠りにつく、でしたっけ」


 ゆっくりと寝具に寝転がりながら、彼が話してくれた内容を思い出す。菊地くんが提示してきた手順はこれで全てだったはずだ。


「こんなことで本当に上手くいくのでしょうか」


 未だ半信半疑に思いながらも目を閉じる。眠りに落ちる直前、チリンッという軽やかな鈴の音が聞こえたような気がした。



 ふと気が付くと、私は緑の綺麗な野山の中にいた。


「ここは、夢の中でしょうか」


 1人呟くも誰も声を返してはくれない。サァーと過ぎる風とな腸の声だけが、なんとなく「そうだよ」肯定してくれている気もするも、あまりに現実味のあるその鳴き声と風の肌触りに薄ら寒くなり、思わず腕をさする。


「おや」


 手に触れた服の感触により、改めてここが夢の中だと認識した。なぜなら今の私が身に着けている服が、病院着ではなく着慣れたスーツだと気づいたから。まぁ、気が付いたら森の中という時点で「あ、これは夢だな」となんとなくは勘付いていたのだけれども。


「どうしたものか」


 四方八方どこを見ても目に優しい柔らかな緑。道らしい道もなければ、獣道さえも見当たらない。菊地くんは「寝ればキクマリと会える」と言っていたのだけれど、人も影も見当たらない。どこに目を向けても聞こえるのは森の声と、どこまでも温かな緑のみ。う~ん、と唸りながら考え込む。


 どれくらいの間そうしていただろうか。数分の出来事かもしれないし、もしかしたら数時間や数日経過していたかもしれない。夢の中というものはそういうものだ。


 片手を顎に当てて考え込んでいると、背後からカサリと葉の揺れる音がした。風に揺れる音ではない、明らかにナニモノかの手によって揺れたような音が。

 よもや熊でも出たかと内心焦りながら、振り向こうと体に力を入れるも体が動かない。まずいと思いつつも冷や汗を流すことしかできなかった。


「そう怖がらないで。別に食い殺したりはしないからさ」


 くつくつと笑いを含んだ声がする。歌うような囁くような、不思議な声が。


「ふむ。残り僅かの命を伸ばしてほしい、か」


 何かを口にしたわけでもないのにこちらの心を暴くその声は、きっと菊地くんの言っていた『キクマリ』なのだろう。もっとおどろおどろしいものをイメージしていたのに、我々と同じく人の言葉を扱うソレにちょっと拍子抜けだ。


「君は欲の少ないヒトだね。もったいないくらいの謙虚さだ。どうせなら永遠くらい願えばいいのに」


 背後の声は相変わらず楽しそうに笑いを含みながらそう続ける。


「……もし、もし本当に命を貰えるとして。何らかの代償が伴うはずです。それを考慮すれば永遠を望むことはつまり、とんでもないリスクを負うことを指します。加え、永遠は人間が手にするにはあまりに重く、そして烏滸がましいもの」


 指1本も動かせない中、清らかな緑を眺めつつ言葉を紡ぐ。どうしてか口だけは動かせるようで、背後の存在に戦々恐々しながらもなんとか声を出した。


「私はただ、娘の花嫁姿を見ることができれば、それだけで十分です」

「ふぅん」


 なんとも興味なさげな返答。言外に「面白くない」とでも言うようなその返答にちょっと腹が立つ。神なのか妖怪なのかは知らないが、やはりどうあってもヒトではない存在。ヒトである我々の思考が理解できないのだろう。ちょっとだけ、憐れに思えた。


「他の願いはどうするんだい?」


 またしても背後から声がする。他の願い、か。口に出してもないのにこうも自らのことを見透かされるのは、あまりいい気分ではない。むしろ正直言って気持ちが悪い。けれど悟られないように表情だけは取り繕った。人外相手に通用する気はしないけれども。


「諦めますよ。本来であれば娘の結婚式さえ出席できない状況だったのです。もう、それだけで十分です。多くは望みません」

「そう」


 チリンと鈴の音がする。


「じゃあ残り僅かの君に少しばかりの猶予を。期限は100と60日。君の娘の婚姻の日が君の命日だ」


 背後の存在が声を上げる。それに合わせて木々のざわめきが大きくなり、逆に鳥の声は遠く聞こえなくなっていく。


「代償は――……そうだね。もう貰ってるから、君からはなにも取らないよ」


 ざわざわと揺れる葉の音。キクマリの声が霞むほどに大きくなった葉のざわめきは、やがて私をも飲み込んだ。


「精々楽しんでね」


 暗闇に意識が引き込まれる直前、チリンッという清らかな鈴の音に雑じり、楽し気な声がした。楽しくて楽しくて仕方がない。おもちゃを与えられた子供のような、無邪気な声が。



「良かったな。娘さんの花嫁姿が見られて」


 夢の中で不思議な体験をしてからぴったり160日後。娘の結婚式で菊地くんがそう声をかけてきた。


「本当に。君のおかげだ、ありがとう」

「……キクマリはちゃんと願いを聞き届けてくれたんだな」


 ぴっちりとしたスーツに身を包んだ菊地くんは、ゆるく目を細めて笑う。普段、社内で見るスーツとは違い、しっかりと仕立てられたスーツは彼によく似合っていて。

 どうせなら菊地くん自身の結婚式もこの目で見たかったのだけれど、人の生き方に口を出すほど私もバカではない。彼は、彼の思うまま自由に生きてくれればそれで良い。


「そのようですね」

「体の病巣もいつの間にかキレイさっぱりだし、すごいな。半信半疑だったんだが、こうも上手くいくとは」

「え、君も半信半疑だったんですか? あんなに力説してきたくせに?」


 あの日のことを思い出す。病室内で彼が唐突に語りだした都市伝説。真っ直ぐな目でこちらを見ながら「疑うことは許さない」とばかりに語る菊地くんのことを。

 あんまり真剣に語っていたものだから、彼も心底キクマリを信じ切っていたと思っていたのだけれど。


「いやまぁ……本当にちゃんと『命』が貰えるかどうかは確信がなかったというか、なんというか」

「おや。まるで『いる』ことは知っていたかのような口ぶりですね。キクマリに会ったことでもあるのですか?」

「あー、まぁ。うん、知り合いが会ったって」

 歯切れの悪い返答に首を傾げる。常日頃からハキハキと喋っている印象はないが、それでもここまで歯切れが悪いのも珍しい。これ以上は深く言及しない方が良いだろう。


 菊地くんから視線を外し、ぐるりと会場内を見渡す。


 華やかな会場、主役の2人は中央で幸せそうに笑い合っていて。親戚、新郎新婦の友人関係者一同も、新郎新婦に中てられてか同じように幸せそうにしている。

 私の隣でグラスを傾けている彼も、もちろん。


「本当にありがとう、菊地くん」

「どうしたよ、改まって」

「いえ、なんとなくですよ」


 娘の結婚式をこの目で見るという夢は叶った。妻と娘に伝えたいことはすべて伝えた。身辺整理もほどほどに出来ている。最後にできていなかったのは、彼への挨拶くらいだ。


 私は明日には死んでいるけど、君は長生きしてね。そう口にすればそれだけで済むのだけれど、それを直接伝えるのは流石に憚られる。

 だからこそ。

 

 ありがとうの言葉に全てを込めて。


 首を傾げる彼には少し申し訳ないが、これが私からの最後の言葉。


 どうか、どうか。君が幸せに一生を過ごせますように。

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