第37話 ある少女の行動


   ◇


 翌日のカーバイン公爵家は慌ただしかった。

 シリルがフィオナの付き添いとしてルバート伯爵に直接縁談を断りに行ったのだが、シリルが予想していたほど揉めることはなかった。


「……あの人、本当に姉さんが好きだったんだね。姉さんの決断を歓迎するなんて言い出して、さすがにびっくりしたよ。婚約直前まで行ったのをひっくり返されたのに! 僕だったら慰謝料は五倍くらい要求するよっ!?」

「ルバート伯爵は、私が好きというよりレイティア様が好きだったと思うわよ。病弱なだけでなく、自分の意思を表に出すことのない方だったのかもしれないわね」

「まあ、そうかもしれないけどね……」


 カーバイン公爵家の姉弟は、夜会で話をしていた。

 フィオナとルバート伯爵との婚約はまだ公表されていなかったが、カーバイン公爵の動きから、フィオナに縁談が来ているのではないかという推測は立てられていた。

 それが突然動きが変わったから、八回目の婚約破棄ではないかという噂が一部で流れている。


 その密かな囁きにシリルは眉をひそめたが、フィオナは「正確な情報を掴んでいる人がいるのね」と平然としていた。

 やはり、姉フィオナは強い。

 シリルは、どうやっても消え入りそうにない姉に、改めて敬意を抱いてしまう。

 そんなことを考えていたシリルは、ふと周囲を見て首を傾げた。


「それよりちょっと気になってるんだけど、今日はいつもより若い子たちが多いね」

「王宮舞踏会の前の練習にちょうどいいのでしょうね」

「あるいは、王宮舞踏会までに相手を決めたい親たちの、婚約者候補の物色かな。……ん? あの若い令嬢は……」


 シリルは微笑みを保ちつつ、わずかに眉を動かした。

 その令嬢は、まだ十代前半ほどのほっそりとした少女だ。背は高いが、大人の女性にはなりきっていない。

 だが、まだ若いから見ていたのではない。

 あの少女は……。


 密かに身構えた時、その少女がフィオナの存在に気付いたようだ。

 はっとしたように目を見開き、連れ立っている父親と思しき人物の存在を忘れたように小走りにこちらに近づいて来る。

 さり気なく姉の前に立とうとしたシリルは、しかし首を傾げる。少女の表情は、思っていたものとちがう。

 むしろ正反対だ。

 目がキラキラと輝いていて、頬も紅潮していて……こういう顔はフィオナの周辺でよく見るタイプのような気がする。


「……あの、フィオナ様」


 フィオナより背が高い少女は、そっと声をかけてきた。

 シリルがさり気なく姉の横に立つ。

 しかしカーバイン公爵は、面白そうな顔で成り行きを見守るつもりらしい。一瞬、呑気な父に殺意を抱いたが、シリルはすぐに冷静さを取り戻す。だから、一年以内に父を追い落とす計画立案は中止した。

 母エミリアが、ジロリと夫を睨んだのを見たためでもある。


「フィオナ様は……私のこと、ご存じでしょうか」


 少女は恐る恐る、しかしはっきりとした意志を込めた顔をしている。

 フィオナはじっとその少女を見つめたが、困ったように微笑んだ。


「ごめんなさい。あなたとは初対面ではないかしら」

「もちろん初めてお会いします。でも私……アピーデル伯爵家のメディナです」

「……やっぱり」


 今は没落した伝統のある名門貴族の家名に、フィオナは眉をわずかに動かす。その横で、シリルが小さく声を上げた。

 その反応に、少女は——メディナは少しホッとした顔をした。


「よかった、シリル様はご存じみたいですね。私、ローグラン侯爵様の婚約者です。……婚約者でした」

「あら、もう婚約まで行っていたのね」


 フィオナは弟と顔を見合わせる。

 つまり、姉は婚約者がいる男に求婚しようとしたのだと考えて、シリルは心の中で頭を抱えた。


「ははは……思っていたより動きが早かったんだね。……ん? 婚約者、でした?」


 虚ろな目になったシリルは、しかしすぐにメディナの言葉に気がついた。

 少女は、小さく頷いた。


「はい。婚約者でした。でも、今日、ここに来る前に婚約は解消してほしいと言われてしまいました」

「あー、それは悪かったね。婚約はアピーデル家への援助も条件だったのだろう? ローグラン家から慰謝料を搾り取る手助けはもちろんするし、カーバイン家からも多少の援助をしましょう。いいですよね、父上」

「うむ。アピーデル家とは常々懇意になりたいと思っていたところだ」

「いいえ、それは必要ありません。ローグラン侯爵様から十分すぎるくらいの慰謝料の申し出がありましたから」


 そうか、それはよかった。

 そうつぶやき、シリルはふと首を傾げた。

 ならば、なぜわざわざこの少女はここに来たのだろう。喧嘩を売りにきたのかと思ったが、フィオナを見る時の目はキラキラしすぎている気がする。


「ですから、フィオナお姉様。もうあの方を拒まなくてもいいんですよ!」

「…………ん?」


 シリルは首を傾げたまま、少女を見た。

 キラキラした目をした少女は、胸の前で手を組み、フィオナをうっとりと見ている。

 ……こういう顔の令嬢たちは見たことがある。極めてよく見ている。

 今夜も、チラチラとフィオナの様子を気にしながら遠巻きにしている。


「……あ、これはもしかして……」

「私、ずっと心苦しかったんです! 従姉妹からフィオナお姉様のお話をいっぱい聞いて、いつかお会いしたいとずっと思っていたのに、私が憧れのフィオナお姉様の想い人と婚約することになるなんて……。フィオナお姉様があの方を拒んだと聞いた時は、申し訳なさで熱を出してしまいました。でも、あの方はとうとう覚悟を決めたみたいですよ! 私との婚約は解消されましたから、ローグラン侯爵様はフリーになりました! だから、幸せになってくださいませっ!」


 少女は一息にそう言うと、くるりと振り返って大きく手を振った。


「ローグラン侯爵様! フィオナお姉様はこちらですよ!」

「……あー、やっぱりこういうのだったか……」


 シリルは虚ろに苦笑した。

 そっとフィオナの様子をうかがうと、なんだか不機嫌そうだ。

 姉の視線をたどると、向こうの壁際に背の高い男がいた。黒い髪をかき上げ、視線を床に落としているが、口元が笑みの形になっている。

 やがて、髪から手を話したローグラン侯爵が顔を上げる。シリルと目があうと、わずかに苦笑を見せてから、ゆっくりとこちらへと歩き出した。


 メディナの声に振り返っていた貴族たちが、道を開けていく。

 あからさまにがっかりしている人々もいるが、修羅場が始まるかもしれないと期待していたのだろう。

 様々な視線が集まる中を、ローグラン侯爵はゆっくり歩く。

 まるで、睨んでくるフィオナの姿を堪能しているように。


「あの男、また笑っているわっ!」

「それは……まあ、笑うだろうね……」

「こちらに来るのはいいけれど、歩きながらまだ笑っているわよ!」

「……姉さん、多分だけど、ローグラン侯爵は元々はけっこう笑う人だと思うよ。普段は表情を抑えているだけで」


 シリルはため息をつく。

 そっと周囲を見る。

 いつの間にか、メディナは少し離れたところに移動していた。

 そして当然のように、勢いよく派手に立ち回った少女を、独身の青年たちが熱心に見ている。


 メディナについては、もう心配する必要はないだろう。

 ローグラン侯爵が十分な慰謝料を用意しているだろうし、カーバイン公爵家からも多少の迷惑料を出すことになるだろう。

 そして数日中に、アピーデル伯爵家には結婚の申し込みが何件も来るはずだ。


「ははは……姉さんはさすがだなぁ……」


 シリルは口の中でつぶやく。

 そして、気配を消しながら姉から少し離れた。

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