第3話 おめでとう


「……私に何かご用でしょうか。ローグラン侯爵」

「おや、冷たいな」


 やってきたのは背の高い男性だった。

 ただ背が高いだけではなく、まるで歴戦の騎士のようながっしりとした体形をしている。しかし、着ている衣服は極めて上質だ。


 年齢は三十歳を少し超えたくらい。南部の大領主ローグラン侯爵の足取りはゆったりしているのに、どこにも隙はない。

 やがてフィオナがいるベンチのそばで足を止めて、口の端を少し吊り上げる笑みを浮かべた。


「皆も、あなたのことをとても心配していた。だから、私が代表して様子を見に来たのだが」


 男の口の端には、薄い傷跡が走っている。

 それを睨むように見てから、フィオナはついと顔を逸らして噴水に顔を向けた。


「心配? 笑いにきた、の間違いではないかしら?」

「これはずいぶんと手厳しいお言葉だ。麗しきフィオナ嬢らしくもない。やはりカイル君との婚約解消に傷ついているのかな?」

「私は傷ついてなんかいません。そのことは、ローグラン侯爵ならよくご存じではないかしら」


 いくら公爵家の令嬢とはいえ、いささか無礼なくらいの態度だ。

 しかし、ローグラン侯爵は逆に面白そうな顔をするばかり。それがまた腹立たしくて、フィオナは冷ややかな態度のまま、目も合わさずに立ち上がった。

 これ以上、話をするつもりはない。

 そう態度で示すように、ツンと頭を上げてローグラン侯爵の横を通り抜けようとする。


「フィオナ嬢」


 あと少しですり抜けられる、と言うときに呼び止められた。

 本当は無視してしまいたいところだ。しかし相手は爵位持ちの大貴族。地位が高すぎる相手だから、フィオナはほんの少し足を緩めた。


「……まだ、何か御用でしょうか」

「残念、と言うと不興を買ってしまったようだから、別の言い方をしようか?」

「聞きたくありません!」


 思わず立ち止まって振り返ると、ローグラン侯爵は目元に落ちてくるやや癖のある漆黒の髪をかきあげていた。

 邪魔な髪がないと、微かに緑を帯びた白翡翠のような目がよく見える。同時に、あらわになった額に傷跡が見えた。

 フィオナは……不覚にも、一瞬それに気を取られてしまう。

 その一瞬の隙に気付かないわけがない。ローグラン侯爵はニヤリと笑ったかと思うと、髪から手を離して過剰なほど丁寧に礼をした。


「フィオナ嬢。通算七回目の婚約破棄、おめでとう」


 低く深い声は、耳に心地よい。

 でも言葉の内容が全てを裏切っている。同時に……フィオナを確信させる言葉でもある。

 カイルの件は、この男がまた何らかの手出しをしたのだ。そのせいでカイルが運命的な出会いをし、恋をした。


 瞬間的に苛立ったフィオナは、ぎりりとまなじりを吊り上げて睨みつけた。


「あなたこそ、先週は十五回目の婚約解消が成立したそうですわね。おめでとうございます! お祝いが遅れて失礼しました!」


 それだけ言い放って、くるりと背を向けて歩き出す。

 できるだけ足早に歩いたが、ローグラン侯爵は追いかけくることはない。ただ、楽しそうな低い笑い声が聞こえただけだった。



   ◇



 フィオナの弟シリルは、姉とは二歳差の十九歳。

 大変な美青年で、エメラルドグリーンの目が姉と共通している。

 髪の色は、シリルの方が少し温かみのあるプラチナブロンドだ。そして性格と表情はかなり違う。

 今もシリルは極めて整った美しい顔に豊かな表情をのせ、深刻そうなため息をついていた。


「……カイル、すごいことをやりましたね。僕はどうしようかと思いましたよ」

「私もどうしようかと思ったぞ。しかも別室に連れて行ったら、戸口で両膝をついて謝罪してきたのだよ。怒ったふりをしただけだと言っても、信じてくれなくてなぁ……。彼は本当にいい青年だ」

「いや、父上。普通の『いい青年』は、婚約者がいるのに別の女性に心を奪われたりしないものじゃないですか?」

「そうか? 心の動きなど、どうしようもないものだろう」


 息子シリルと話しているカーバイン公爵は、諦めたような目で天井を見上げながらため息をついた。

 かつて、カーバイン公爵は不実な娘の婚約者に激怒して公爵軍を動かそうとした。そんな熱く激しい父親も、五度目の婚約解消が成立した頃にはいろいろ達観していた。


 シリルも、姉の幸せを切に願う純真な少年だった。しかし三度目以降の婚約解消の話し合いに同席するようになり、慰謝料の効率のいいむしり取り方を身につけてしまった。ついでに、姉の縁談相手のあらゆる情報を集める抜け目のない政治家になりつつある。


 そんな家族に不満はない。フィオナ自身が似たようなことを考えているから、そんなものだとしか思わない。


(……私のこう言うところがダメなのかしら。言い逃れができないと言うか……でもお互いに恋愛感情はなかったし……)


 ひらり、と扇子を動かして、その陰でそっとため息をつく。

 それとほぼ同時に、弟シリルはすらりとした体を丸め、大きなため息をついた。


「プライドを捨てて『好きな人ができたから婚約破棄してくれ』なんて、よく言ったよなぁ。あの覚悟はすごいと思う。しかも掲示された慰謝料、カイルの個人資産の六割以上ありそうだよ。どうする、姉さん。受け取る?」

「いらないわよ。好きな人と結婚するとしても、お金は大事でしょう?」

「そうだよね。姉さんならそういうと思ったよ。でも……いや、なんでカイルまで恋なんてしちゃうかなぁ!」


 愚痴めいた言葉と共に、母親に似た繊細な美貌が歪む。さらにシリルはプラチナブロンドをぐしゃぐしゃとかき乱した。

 そうしていると、絶世の美青年の切なげな表情になっているが、手元にあるのはカイルが用意したという慰謝料に関する書類。

 シリルは、先ほどからずっとその書類を眺めている。

 姉の破談に頭を抱えつつ、掲示された条件の吟味は淡々とやっていた。


「姉さんも見る? この慰謝料として掲示された金額、本当にすごいから。僕たちが強欲なら間違いなく受け取るよ? さらに強欲だったら、ゴネて上積みさせるよ!? こんなに支払ってしまうと、婚約辞退を勝手に申し出たと言うことでハブーレス家に縁を切られたら、カイルは間違いなく破産一直線だと思うんだけど、正気を疑いたくなるね!」

「受け取らないから問題ないわ。それにハブーレス伯爵家のご両親だって、私のことはよく知っているから、カイルと縁を切るまではしない……と思うんだけど」


 途中で不安になってきたのか、フィオナはそっと母を見る。

 優しげな面立ちがシリルとそっくりの美しい女性は、眉を動かして困ったような顔をした。


「それがねぇ、ハブーレス家のローザは泣いて謝罪してきたのよ。不肖の息子カイルとは縁を切る、追い出す、相手の女も殺すからって」

「殺す……って、えっ、母上、それは止めてくれましたよね!?」

「もちろん止めましたよ。こういう事態は織り込み済みでしたからね」


 カーバイン公爵夫人エミリアは、ほうっとため息をついた。

 おっとりした母の返事に、シリルはあからさまに安心した様子を見せた。

 フィオナもほっとする。

 カイルは真面目すぎて事態を必要以上に目立たせてしまったけれど、悪人ではない。むしろ誠実すぎる人なのだ。


 ただ、いろいろ率直に結婚後の話をしてきたつもりだったのに、愛人に関することは話し合っていなかった。

 それが心残りというか、後悔している。

 その辺りまできちんと話していれば、フィオナの考え方を理解してくれただろうから、こんな混乱は起きなかったはずだった。

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