群狼

 一人の男が立っている。

 別段、男は怒りを発しているわけではないが心中が穏やかではない事は明白だった。


 「失礼。ここは休憩所ではないので、休むなら他の場所に行ってくれないか?」


 男の語気に熱のような物を感じる。若島は急いで立ち上がり、見田にもそれを促した。見田も不承不承に従う。


 「大久保君、何かあったのかい?」


 羽柴幸秀が駆けつけた。大久保と呼ばれた男は略式の礼を済ませる。この道場の生徒ではない事は立ち振る舞いから理解していた。


 「押忍、羽柴師範。心配をおかけして申し訳ありません。俺はこちらの二人に稽古の士気が下がるから休むなら休憩所に言ってくれないかと伝えに来ただけです」


 羽柴は困惑した様子で見田と若島を見て尋ねる。


 「そうなのかい?」


 若島がまず答えた。


 「はい。彼の言う通りだと思います。私は見田君を連れて休憩所に行きますので心配ありません」


 見田も師匠に合わせる。大久保の方を見て頭を下げた。


 「すいませんでした。以降気をつけます」


 仮にもよその流派の道場で大きな態度で振る舞うべきではない。見田は次の展開を読んで礼儀正しく振る舞った。二人は道場の出入り口に向かう。


 「羽柴師範、彼らはどこの支部の方々ですか?」


 大久保は二人の背中から既に只者ではない事を感じている。彼の見立てでは三段以上はある実力者だった。


 「向かって左が浪岡流の若島龍也、隣が最近弟子入りしたばかりの見田助六君だよ」


 羽柴は一瞬だけ事実を大久保に伝えるかどうか迷ったがほぼ問題は無いと判断して素性を明かす。


 「見田?見田とは、神野の肋骨アバラを砕いた見田助六ですか⁉」


 大久保の顔が一気に赤くなった。大久保は天眼道場内部において渕上派と呼ばれる派閥の有力者である。見田の武勇伝には羨望と嫉妬があったには違いない。羽柴に一礼するとすぐに道場内の同期生を集めて見田の話を始めてしまった。


 (あちゃあ…。早まったかな)


 羽柴はこの日、自分の口の軽さを反省した。小走りですぐに一階奥の休憩所に向かう。このまま大久保たちを放っておけば見田の包囲網が出来てしまうような状況になっていたのである。


 「すまない、見田君。ついうっかり大久保君に君の素性を話してしまった。後の話は私がしておくから裏口から逃げてはくれないか」


 休憩所に到着するなり羽柴は頭を下げて懇願する。見田はニンマリと笑い、羽柴の肩を叩いた。


 「ご安心ください、羽柴さん。俺は紳士ですからね。彼らとは上手く話し合って誤解を解いてさしあげますよ」


 「見田君、言っておくがここでケンカをするつもりなら私が承知しないぞ?」


 若島が恐い顔をして見田を諫めようとする。しかし当の見田はジーパンを脱いで胴着に着替えようとしていた。


 「はあ…。毒食わば皿まで、か。羽柴さん、悪いが私も稽古に参加させてもらうよ…。いざという時は土下座して場を収めるつもりだ」


 若島は眉を八の字にしてため息をつく。押しかけ弟子の見田の面倒を見る事になってから彼はこの手のトラブルに巻き込まれる事が多くなった。


 「むふふっ。いやあ今日は実に素晴らしいな。まさか天眼道場の武闘派の連中と一戦交えられるなんて。これも日頃の行いがいいからですね、師匠」


 「…くれぐれも暴力は慎んでくれよ。羽柴さんはここの責任者になったばかりなんだから」


 こうして見田と若島と羽柴は道場に戻った。


 ”見田が来たぞ‼”


 大久保と大久保の連れが一斉に色めき立った。個々の想いはあれど派閥の首魁の仇を横取りされたという嫉妬心が先立っている。

 見田としては極上の美女から誘いを受けた心境となっていた。


 「先ほどは失礼をした。君が見田助六君だね?」


 大久保は見田を見下ろす。体格的に見田の方が二回りほど小さい。外見だけで判断すると大久保の方が有利に見えた。


 「どうも。神野千里の肋骨アバラを砕いた見田助六です」


 見田の語尾には”俺が神野と戦っている時にお前らは何をしていたんだ?”という嘲弄の響きがあった。


 「俺は大久保勝利おおくぼしょうりだ。段位は二段、空手は小学五年生の頃から続けている。実は他の格闘技もあるんだが聞いておくかい?」


 大久保は最初から手合わせをするつもりだった。奥にいた大久保よりも背の高い男が舌打ちをしたが、大久保は無視をする。早い者勝ちというわけらしい。


 「…そういうのは組み手の中で教えてくださいよ。関西大会大学生部門V3の大久保さん♪」


 見田は既に模擬試合の場として使われる四角形のテープの内側に立っている。

 ボクシングのウォームアップよろしく身体を上下に動かしながらジャブを数発打った。


 ずん。


 大久保はわさと大きな音を立て、テープの内側に入った。門下生の奥に控える渕上派の副将 亜門清之助への”試合中は決して手を出すな”という意志表明でもあった。


 「大久保の野郎。負けたら承知せんぞ」


 亜門は吐き捨てるように言った。そして太い両腕を組んで観戦に徹する。審判役は羽柴が務める事になった。

 その日、道場に来ていた天眼道場の門下生たちは亜門と見田を見ようと稽古を放り出して結集する。

 若島はその中でどうやって羽柴に謝ろうかと考えていた。


 見田は両手を上げてキックボクサーのような構えを取った。拳の形は作らない。気前よく蹴りを飛ばす為にはどうしても拳の形は邪魔だった。

 そして踊るようにステップを踏み、大久保の初動を待つ。


 見田の集めたデータでは大久保は…。


 しゅっ。


 絹を引き裂くような音と共に大久保が突きを放つ。

 ボクシングでいうところのジャブに近い空手の突き技、刻み突きである。見田は豪快に体を傾けて是を回避した。


 「避けられた事無えんだがな…」


 大久保は得意技を避けられて不快そうに言った。


 「有名人の有名税ってヤツだよ。”大久保のソニックブロー”ってネットじゃ死語になってるかも♪」


 「ハッ」


 次の瞬間、大久保は笑った。反射神経の限界につけ入るような高速ジャブ。


 パシィンッ‼今度は避けきれない。


 見田は掌で大久保の右を受け止めた。


 「動け、大久保。ヤツはカウンターを狙っている‼」


 亜門は拳を震わせながら叫んだ。


 (それぐらいわかっている‼)


 そう言い返したい大久保だったが見田を倒すまでは口を閉じる事にした。

 ハイキック、ジャブの連打、見田の反撃を封じる為に死力を尽くした。


 「あはつ‼楽しいね、大久保さん‼」


 見田の腕は先ほどの大久保の攻撃をブロックした時に赤く腫れあがっている。常人ならば熱と激痛で降参しているほどの重傷だった。だが見田助六は止まらない。矢のような拳を避けて、正確無比な蹴り技を避けているのにも関わらず速度は倍以上に跳ね上がっているのだ。


 (これが見田助六‼戦うほどに強くなる、生粋の格闘家ッ‼)


 大久保の中で羨望と嫉妬心が燃え上がり、憎悪に変わった。


 「はいぃぃッ‼」


 渾身の上段外回し蹴り。回避速度を見越した奇襲を前にして見田は体勢を大きく崩した。


 「倒れろッ‼」


 そこから

 大久保は故意に避けられる速度でハイキックを放った。見田は焦りながら後退。距離を取って自身の反撃の準備をする。大久保は我が意を得たとばかりに流儀を変える。

 大久保が空手と出会う以前から学んでいた本来の流儀、拳法の直突きを放った。


 (俺の直突きは、ジャブより速い。さあどう捌く?見田助六ッッ‼)


 大久保はこれで終わりと思っていた。十九歳、全身全霊を込めて入れ込んできた空手と拳法両方の修行が報われたと考えていた。

 だが彼はこの直後、己の見通しが甘かった事を思い知らされる事になる。


 「いひっ‼もらいぃぃッ‼」


 見田は狂喜していた。思うままに敵が攻めてきたというのだから仕方の無い事なのだろう。

 払い受けで大久保の突きを打ち上げ、烈火の如き肘当てで大久保の巨体を吹き飛ばす。


 「なっ‼…中国拳法だと⁉」


 観戦に徹していた亜門が声を思わす声を出す。今の見田の戦術は形意拳の頂心肘だった。相手を己の得意とする間合いに引き入れ、肘当てで一気に吹き飛ばす。


 「あははっ‼一本でしょ、今のは‼ねえ?」


 「一本‼見田君、開始線の戻って‼」


 羽柴は己の目にした光景を未だに信じられないでいる。体格で大久保に劣る見田が、彼を肘当て一発で場外に吹き飛ばしたのだ。


 「へいへい」


 見田はニヤニヤと笑いながら開始線まで戻る。一方、肘を鳩尾に食らった大久保は起き上がれない。腹を抑えながら唸っている。どれほどの意志を込めようとも大久保は身動き一つ取れないでいた。


 「無念…ッ‼」


 そうやって耐えられるだけ耐えた後、大久保は地面に膝をついて倒れた。


 「大久保ッ‼」


 そこに亜門が乱入してくる。


 「仮にも空手道を邁進する者が、戦いの場で他国の武術を使うとは…ッ‼その無節操さ、どうやら恥という言葉を知らんようだな」


 亜門は気を失った大久保を余人に任せて見田の前に立つ。

 見田は愉悦を隠しきれずに笑っていた。


 「へっ‼の王道を征く、天眼道場のお坊ちゃまには俺の喧嘩空手は刺激的だったかな?」


 次の相手を食らう為に煽る。


 (安い挑発だ。この俺もヤツの獲物にすぎないというわけか)


 亜門の眉がピクリと動く。これは仇討ちだ。正当な仕返し。目の前で弟分をやられた男が暴発しただけの事。


 「渕上派は実戦に重きを置く。大久保の学生空手と俺の本物の空手を一緒にしない事だな…」


 男の背中から龍が立ち昇った。それを見上げる見田は猛虎の化身か。


 「あのさ、勿体ぶりおじさん。さっさと見せてくれよ?かつては重爆って呼ばれた亜門清之助の空手をさ」


 見田は拳を形を解いて低い姿勢で構えた。

 亜門清之助はまだ動かない。見田が謀らずとも亜門の間合いに入ってしまった事に気がつくまでじっとしているつもりだった。


 亜門の間合いは広い。背丈、手足が生まれつき長いというのも原因だが真の理由は別にある。五感を駆使して敵の存在を察知する間合いが広いのだ。


 「にひっ‼ここでも届くのかな」


 見田は不気味に笑う。亜門の拳は外部の人間から如意棒と呼ばれていた。数年前、異例として亜門はヘビー級ボクサー ジョージ・アンダーソンのスパーリングパートナーとして選ばれた経験がある。

 ジョージは天眼道場に通う友人から亜門の噂を聞いており、客として優遇しつつスパーリングの相手を依頼した。

 その結果ジョージは亜門という男を認め、タイトル防衛に成功する。

 さらにインタビュアーには「今回のタイトル防衛は亜門清之助とのスパーリングによってもたらされた物であり、彼こそが日本において唯一私のベルトを脅かす人間である事には違いないだろう」と語っていた。


 (コイツ、俺の事を知っていたか…)


 亜門は己の経歴がどうというつもりは毛頭ない。だが見田が亜門の戦法を知っているならば容赦する必要は無い。


 「後悔するなよ、小僧」


 そう言った後、亜門は進みながら右のローキックを放った。

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