化想操術師の日常

茶野森かのこ

1




たった一本の線で、世界は変わる。




イギリスのとある田舎町。澄んだ青い空の下、広々とした草原に、一本の大きな木がある。その木の下に、ノートとペンを持った少年が一人座っていた。

年齢は七才位だろうか、少年は目深にフードを被り、ぼんやりと空を見上げていたが、おもむろにノートを開くと、ペンで一本の線を引いた。すると、描いた線が突如として光り、少年の目の前に海が現れた。その海は、横から見れば縦に平たくしか見えず、大きなスクリーンに海を映しているように見える、だが、真正面から見れば、その奥行きは深く、どこまでも海が続いているように見えた。

少年は驚くでもなく、ぼんやりとその海を見つめている。

その内に、海の水がゆらりと揺らめき、止まっていたその場所から飛び出してきた。大きく腕を広げるように、まるで少年を捕らえようとするかのように。



野雪のゆき



その声に、少年が反応した。すると、今まさに少年を飲み込もうとしていた海も、そのままの状態でぴたりと止まった。


「これ見た人、びっくりするよ」


そう柔らかに声を掛ける青年を仰ぎ見て、野雪と呼ばれた少年は一度海を振り返り、再び青年を無表情に見上げた。


「ここに人は来ない」

「はは、僕ら友達いないからなー」


青年のたれ目がちの瞳が、野雪を見て優しく緩む。彼は野雪の隣に腰かけると、野雪の小さな頭をフード越しに撫でた。大きな手の感触に野雪が少しだけ目元を緩めると、飛び出していた海は、するすると元の場所に戻っていく。再び大きなスクリーンで海を見ている感覚になるが、その波は先程よりも穏やかに揺蕩い、それは、今の野雪の心情を表しているようだった。


「…俺のせいだ」


だがそれも束の間、不意に野雪が呟くと、海は飛び出しこそしないが、とどまるその中で徐々に渦を巻き、まるで嵐の海の中を覗いているみたいだった。

青年はといえば、それを目にしても驚く事なく、柔らかな眼差しをそのままに、「なんでよ」と、野雪に優しく声をかけた。


「…俺は厄介者だ」

「厄介者なら僕も同じだよ」

「俺はそうは思わない」

「僕も野雪の事を厄介だなんて思った事ないよ」


優しい声に、野雪は膝を抱えて俯いた。


「…志乃歩しのぶは、俺のせいでこうなった」

「心配してくれてるの?野雪は優しいな」


朗らかに笑えば、ギロッと大きな瞳が睨むので、青年、志乃歩は「ごめんごめん」と、また笑った。


「からかってるんじゃないよ。そもそも僕がそうしたかったから、野雪を連れ出したんだ。野雪がここに来た事を正しかったって言ってくれる人もいる。野雪が気に病む事は無いんだよ」

「…俺は、化け物だ」

「なら、僕も同じだよ」


志乃歩は野雪の手元からノートとペンを取ると、そこにさらさらと絵を描き始める。一筆書きのような鳥の絵だ。その絵が僅かに光ったかと思えば、絵の線が浮き上がり、浮き上がったその線は、徐々に実体を持っていく。ころんとしたふわふわの綿のようなものが頭を出し、それから嘴や羽、鳥の足を生やして色を持つ。鮮やかな青い背中に白いお腹、愛らしい瞳。小さな鳥は、オオルリの雄のようだ。オオルリは羽ばたくと、野雪の肩に乗り首を傾げた。


「冴エナイ顔ダナ、少年」


ピッと鳴きながらオオルリに話し掛けられ、野雪は僅かに目を瞪った。


「…喋った」

化想けそうだから、こんな事も出来るよ」

「…俺のと違う」


野雪は、目の前の海を見つめた。まだそれは、暗くどんよりとしている。


「やり方を覚えれば良いだけだ、野雪なら出来るよ。優しい人達の子供だ」


オオルリが、ピールーリーと鳴き、野雪の頭の上を軽やかに飛ぶ。


「ゆっくりで良い、時間はあるんだ。これから知っていけば良いだけだよ」


野雪はそっと志乃歩を見上げた。


「後悔があるなら、いつか、野雪と同じ思いをしてる人達を、野雪が助けてあげて」


どこまでも優しく愛情深い眼差しに、野雪は知らず内に海を閉じた。丘の上からは遠くに街並みが見える。野雪は少し迷いながら「分かった」と頷き、再び膝に顔を埋めた。


ぽんぽんと、頭を撫でる志乃歩の手が心地好い。日溜まりみたいな手、志乃歩はまるでこの青空みたいだと、野雪は思う。

海の消えた空は、どこまでも澄んで穏やかで、でも、野雪にこの空はまだ眩しすぎる。

いつか自分もこの空の下で顔を上げ、欲を言えば胸を張って生きる事が出来るのだろうかと、野雪はそんな事をぼんやりと思う。


その時まで、志乃歩は隣に居てくれるだろうか。


温かな日溜まりの中、野雪は小さく願い、そっと心を落ち着けていった。





***




それから十年の時が経ち、東京の狭い空の下で、数えるばかりの星を見上げる人がいる。



誰かの悲鳴が聞こえても、それに恐怖を抱くことも胸を痛めることもなくなった。

白いカードを指でなぞる瞳は空虚を見つめ、ただ与えられた仕事を淡々とこなしていくだけ。それでもすり減らした心は救いを求め、空を見上げれば、ささやかな星が静かに瞬いている。まるで削り取られたような夜空だが、彼女にとっては、息を吸うことを思い出させてくれる唯一の輝きだ。


そして息を吸えば、見ないふりをしていた現実が押し寄せてくる。


見えない鎖がその首に絡まって、身動きが取れないでいること。振り返れば、断ち切れる瞬間は幾つもあった。でもそう思えるのは、広い世界がある事を知った、今だからだ。


今までは、そんな事考える余裕なんてない、そもそも考える事すらしようとしない。鎖は見えない、でも確実にその首を絞め、心に忍び寄り感情を吸いとっていく。




弱い自分がただ情けなくて、やがてその意味すら忘れた頃、彼らと出会った。





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