08.原点 3

「どうか、娘の病気を治してください」

 金貨が入った袋を捧げ、恰幅のよい男が額を床にこすりつける。

「幼い娘が病とは気の毒に。だが、そなたは運がいい。この子がそなたの願いを叶えてくれよう」

 ナートの隣に座る父親が、鷹揚に頷く。彼自身は何もしない――できない割にずいぶんと偉そうな態度だったが、切なる願いを抱いている者にとっては、ナートもその父も、似たような存在なのだろう。

 願いを叶えてもらった者の伝聞で、『客』は自然と集まるようになっていた。

 その頃には、一家は宿を出て大きな屋敷に移り住んでいた。護衛の数もずいぶん増えた。父親はナートの隣で偉そうにふんぞり返り、母親は――ナートはしばらく、その姿を見ていない。父が時折こぼすところによると、贅沢三昧で遊び回っているらしい。

「あの女、無駄遣いばかりしやがって」

 酒を飲み顔を赤くして、父親は吐き捨てる。ナートはそれを、ぼんやりと見るだけだった。

 大きな街に来ても、ナートはほとんど外に出してもらえなかった。昼間は『客』と会うための広間にいて、夜は、酔っぱらう父親のそばだ。

「そう言うあなたも、無駄遣いしてるんじゃなくて?」

 妙に薄着の女が父親にしなだれかかる。その女の、剥き出しの薄い肩を抱き寄せ、父親は笑う。

「俺のは無駄遣いじゃねえ。皆を労い、おまえをかわいがるために使う金は、必要なものだ」

 なあそうだろう、と父親が酒の入った器を掲げると、広い食堂のあちこちでめいめいに飲んで騒いでいた男たちが、そうだそうだ、と応じる。女はもらったばかりの腕輪を鳴らしながら、父親の器にさらに酒を注いだ。

 父親のそばに侍る女は、頻繁に入れ替わっていた。酔うとだらしなく女の胸にすがりつく父親だが、どんなに酔っていても、女が勝手にナートの手を握ろうとするのは許さなかった。そして、ナートに手を伸ばす女は、二度と屋敷に現れない。

 充満する酒や、化粧や香水のにおいにも、とっくに慣れた。父親のそばにいながら、誰もナートの存在など見えていないかのように振る舞うことにも。

 宴もたけなわになり、父親と女が寝室へ消えると、ようやくナートも眠りにつける。といっても、素面の護衛に見張られての就寝だ。

 村にいた頃は、小さな家で親子三人で身を寄せ合って眠っていた。けれど、あの小さな家を出てから、そんなことは一度もない。父親は様々な女を自分の寝室に連れ込み、母親はほとんど屋敷に戻らない。たまに戻ってくる時も、父と同じ寝室で眠ることはないようだった。ナートの寝室に来るはずもない。

 護衛という名の監視に見張られながら、大きな寝台の上でナートはひとり小さく体を丸めて、浅い眠りにつくのだ。

「おかあさん……おとうさん……」

 夢に見るのは、村で過ごしたかつてあった日々。ナートが、誰の願いも叶えられない、ただの子供だった頃。貧しくていつでもお腹は空いていたが、両親はそばにいた。お腹が空いたと泣くナートの頭を撫で、あるいは抱きしめ、あるいは抱っこをして、両親はなんとか慰め、気を紛らわせようとしてくれた。

 だが、ナートがこの力に目覚めてから、両親はナートに触れなくなった。父親は、願い事をよく考えなければいけないと言い、母親は、気味が悪いと言って。

 そんな両親と手を繋いで歩く夢を見た朝は、いつも泣いた跡があった。

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