第13話 立場の逆転

 三


 評議二日目は九時から開始された。郁恵が十分前に評議室に入ると、もうすべての裁判員が着席していた。まだ裁判官三名は見えなかった。開始時間ぎりぎりまで、今回の評議の進行に対して意見交換をしているのかもしれない。はたまた郁恵に対する対処法も議論しているのかもしれない。郁恵は、立花京香に死刑判決を言い渡してやる位の重い気持ちをもって、着席した。

 郁恵は鞄の中からタオルハンカチを取り出し、机の上に置いた。ふと六番さんの表情が視界に入ってきた。昨日は、裁判官に寄り添うように郁恵の意見に反論してきた輩である。正直なところ、郁恵側の意見に引っ張るには一番手強い相手だと認識していた。しかし今朝の表情はどうしたのか。死んだ魚のような目を晒し、終始俯いている。昨日の勢いとうざったい元気はどうしたのか。

(二日酔いかな?)

 郁恵は要らぬ妄想を断ち切り集中力を高めた。 

九時ちょうど、評議室に三名の裁判官が入室してきた。

「昨日はお疲れ様でした。予定では午前中で評議を終わらせることとなっております。まずは皆さんには、ご自宅で頭の中を整理されてきたと思いますので、素直に考えて来られたことを話していただけたらと思います。皆さんのご意見を聞いた後、有罪か無罪か多数決で決め、量刑を決めていきたいと思います。よろしくお願いします。では早速、はい、六番さんどうぞ。」

荻原裁判長の声の後、六番は律儀に起立し、頭を下げた。

「六番さん、別に立たなくてもいいんですよ。」

小島裁判官の声は六番の男性には届いていないようだった。そして六番は郁恵の方を向いて、もう一度、深く頭を下げた。郁恵は驚き、急いで黙って会釈を返した。

「うまく言えないと思います。だからどうか僕の言葉を真っすぐに受け取って下さい。」

六番の昨日とはうって変わった話しぶりに、郁恵だけでなく、三人の裁判官も他の裁判員も不穏な表情を浮かべた。

「僕は四日間の裁判やこの事件に対するマスコミの報道を見て、立花京香は罰を与えたとしても執行猶予を付けてもいいんじゃないか?くらいに昨日までは考えていました。」

「六番さん、マスコミの報道は、今回の裁判に入れないで下さいね。争点の中にマスコミの報道は入っていませんよ。」

「僕が喋っています。小島裁判官は黙っていて下さい。」

「分かりました。でも・・・。」   

「先に申し上げます。僕は裁判官が信用できなくなったのです。」

室内の空気が一瞬、人々が嫌う臭いに満ちた形相を呈した。先ほどの小島裁判官と六番とのやりとりの後なので、誰も口を挟むものはいなかった。

「昨日、評議が終わった後、僕は急にお腹の調子がおかしくなり、急いでトイレに駆け込みました。昨日の暑すぎる天候のせいもあったと思います。個室に入って籠っていた時、二人の男性がトイレに入ってきました。最初誰か分かりませんでしたが、漏れてくる会話の内容と声を耳にして、小島裁判官と向井裁判官だと分かりました。僕がいることは気づかなかったんだと思います。僕は個室の一番奥にいましたし、立ち便器が並ぶ位置からは見えにくい、奥まったところですからね。でも静かだったので会話はすごく聞こえました。こんなところで何を話しているんだろうか、でも言葉が引っかかったというかと言うか、内容がちょっと気になったので、私は携帯電話で録音したんです。これです、聞いて下さい。」

 六番裁判員はiPhoneをテーブルの中央に置き、ボイスレコーダーのアプリを再生させた、中からは、小島裁判官と向井裁判官の会話がクリアに聞こえてきた。

「だから、僕は、あの教師を裁判員に入れるのを反対したんですよ。なまじ知識のある人間が入り込むと、評議の段階でまとまらなくなるし、教師なんか人前で喋るのに慣れてますから、どうしても周囲に自分の主張が強く伝わってしまう。今日のような引っ掻き回され方は、容易に想像できたはずですよ。何で萩原さんは、あんな圧力を出す教師を裁判員に決めたんでしょうね。」

「しゃーないなだろう。萩原さんも悩んだと思うよ。だってさ、まず質問状の返信率が二〇%切ってんだよ。で、なんとか返送してきた少数の中から、どうしてもできない人を引いて、呼出状を出す。何とか来てもらってそこから面接が始まる。でもそこからもできない人が出てくる。やりたくない人間はいろんな理由を付けてみんな拒否り出す。で、残ったのがあいつら。問題なのは教師だけじゃないだろ。DV感情女や、暇で雑談しに来たおっさん。ここは病院の待合室じゃねーんだよ。ほら、ちょっと間違いを指摘されるとふて腐れるおばさんもいるだろ。そして、こんな裁判なんかどーでもいいと思っている会社員。フリーランスのおっさんは、論が甘い。教師の論に絡みつくけど、絡み方が甘いからすぐに払いのけられる。あんまり賢くないんだよ。フリーランスの仕事あるのかね。」

「市民感覚から遊離してしまった裁判制度に市民の感覚を反映させることで、その中で国民一人ひとりが司法への信頼や理解を深め、分かり安い裁判を実現してゆくために提案された制度です~♪って謳っているけど、別に大半の国民は理解を深めたいとは思っていませんからね。それが数字で出てますからね。今回の評決、どうなりますかね。あらかじめ出ていた十年程度で落ち着きますかね。」

「変な判決が出たら、出たで、被告側も即日控訴するよ。で、第二審でプロが決着すりゃいいんだよ。」

 この後、手洗いの音が入り、全く会話は聞こえなくなった。トイレから出て行ったのだろう。

唇をかみしめながら、小刻みに震えている二人の裁判官が目の前にいる。


やっぱり、裁判員裁判なんて、こんなもんだった。


裁判所、検察官、弁護人による公判前整理手続の段階で争点を絞ったあと、この程度の量刑にしようかと三人の裁判官であらかじめ決めていたのだ。私たち六人の裁判員は、その量刑を導くために用意されたエキストラに過ぎなかった。


だから誰でもよかったのだ。

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