第十六話 白銀の酷薄 ②

 図書館は、秋という季節をなにか誤解しているのかと疑わしくなるくらいに、暖房が強めだった。

 仕方なく家で着替えてきたカーディガンを脱いで、長袖のTシャツ姿になると、目の前で歴史の勉強に勤しんでいたナンテンが唸っていることに気づいた。

「何が分からないの?」

 基本文系の私には、単なる暗記物の歴史に対して頭を悩ませる理由が分からなかった。

「漢字が並ぶと何も覚えられないっす」

「それはアンタの好きな根性で何とかする分野でしょうに。まぁ、見るだけで覚えられる人もいるけど、私は漢字の意味を覚えてから一緒に暗記したなぁ。やっぱただの単語で覚えるよりも意味と一緒の方が頭に残るしね」

 なるほど、と電子辞書を早速取り出すナンテン。素直だと教えるのも楽しい。

 一年前までのナンテンは中々の勉強の出来なさであったが、どうやら部活を引退してからそれなりに真面目にやってるらしい。

 少なくとも、当時の私よりは理解度は遥かに高い。


 ナンテンは落ち着きが無いが、集中力が無いというわけではない。

 一度集中し始めると、問題集に向かって一心不乱だった。

 そうなると私は手持ち無沙汰になる訳で、仕方ないので図書館の書架を適当に回って気になる本を読むことにした。

 いくつか見て回って、一冊の詩集に落ち着いた。

 普段読まないジャンルなので思いの外没頭してしまうと、不意にナンテンのスマホから音がした。

 とは言っても図書館なのでマナーモードにしていたが、それでも振動音は耳に入る。

「あ、江月先輩。柊が合流したいって言ってるけど、いいっすか?」

「柊?」

「あれ?先輩は知らなかったですか?入学した時は珍しい髪色だったんで結構噂になってたと思うんですけど」

 そういや、妙な髪の色の新入生が入ったという話を聞いたことがあるかもしれないが、そんなに大きな校舎じゃないのに出会ったことはなかった。

「まぁ、去年まで不登校でしたからね。先輩が嫌なら断りますけど」

「——別に構わないよ。もしあれだったら、二人とも勉強見てあげるからさ、呼びなよ」

「ありがとうございます。じゃあ、柊に場所伝えますね」

 今更だが、当時噂になっていた妙な髪色の後輩に興味が湧いていた。

 ナンテンの友人だというし、無碍にも扱えないので、ここは人見知りをぐっと抑えて先輩らしく対応しよう。

 そんなことを考えていたら、柊とやらは近くに居たらしく、すぐに姿を現した。


 あの駐輪場で出会った、不思議な少女だった。

 確かに髪色は目を引く色をしている。

「一週間ぶりだね、お姉さん」

「柊って、君のことだったんだね」

 まさか彼女だとは思っていなかった。トートバッグを肩に掛けて現れた柊は、白いワンピースと色白の肌が合わさって深窓の令嬢のような見た目だ。

 ナンテンとは真逆の雰囲気がある。

「知り合いだったんすね」

「先週一度会っただけだよ。あ、私は江月若菜。ナンテンの部活の先輩だったんだ。よろしくね」

「叶柊と申します。よろしくお願いしますね」

 軽くお辞儀をした柊から金木犀の香りがした。やはり、彼女はそういう匂いのフレグランスか何かを使用しているのだろうな。

「梔子、お好きなんですか?」

 脈絡もなく柊が問いかける。別に好きでも嫌いでもない。やや困惑気味に、「どうして?」と聞き返すと、

「梔子の匂いがしますから」

 香水なんてつけてきたかな?服の匂いを嗅ごうと袖を顔に近づけてからふと気づく。

 椎本の家のシャンプーの匂いだ。

「クチナシってなんすか?」

「花の名前だよ。春の沈丁花、秋の金木犀とならんで匂いの強い花で有名なんだよ」

 柊はナンテンにそう説明しつつ、教科書を机の上に広げ始めた。

 どうやは柊は数学を進めるらしい、カリカリとシャープペンを走らせて次々と問題を解いている。


 再び手持ち無沙汰になった。

 二人とも集中して問題を進めているからだ。とはいえ、時たま様子を伺うように柊が此方に視線を向けるのが気になる。

「ええと……どうしたの?」

 分からないところでもあったのだろうかと、声をかけてみるが、「いえ」と短く否定して再び視線を教科書に落とす。

 そんなことがありつつも、詩集を読み終えてしまったので、再び書架に戻る。


(そういえば、最近SF読んでないなぁ……)

 特別好きという訳ではないが、少なくともミステリー小説よりは読む頻度の多いジャンルである。久しぶりに何か面白いSFを読みたくなった私は、検索端末で検索をかけてみようと踵を返した。

 そのタイミングで思わず短い悲鳴を上げてしまった。

 まさか真後ろに柊が立っているとは思わなかったのだ。

「ねぇ、お姉さん。私が地底人の正体って言ったらどうする?」

 突然の問いかけに、一瞬頭が働かなかったが、椎本に対して何かよくないことを企んでいる地底人のことかと推測すると、思わず柊の肩を掴んだ。

「柊が?あの地底人なの?」

「そうよ。私が地底人」

 疑問は幾つもあった。訊くべき事も沢山ある。だというのに、言葉が出てこない。

「なんで?」

 絞り出した言葉は、圧倒的に言葉足らずだった。だがそれは全てを包含している疑問で、少しだけ不足している疑問だ。

「私は江月若菜も椎本楓も大嫌いだから。貴女達が幸せになる事を赦しはしないし、認めもしない。だから——っていうのじゃあ、納得しない?」

「する訳ないじゃない。何で私や椎本なの?私達が何かしたの?」

 すーっと、怒りが込み上げてくる。

 一つ年下の、見た目で言うならば一回り位幼く見える少女に対して、怒りを向ける。

「折角、ようやく、椎本が乗り越えられそうなんだ。私だって、椎本に幸せになってもらいたい。私が幸せにしたい。なのに、何で邪魔するの?」

 こんな事を言ったって、柊には意味のない内容だろう。むしろ逆効果なのかもしれない。

 こんな会話で、あんな恨みの篭ったメッセージを送った柊が穏便に手を引くとは思えない。

 とはいえ、それを口に出さずにはいられなかった。

「でも、これは二人のためでもあるのよ。多分、結果的には私に感謝することになると思う。私は貴女達が憎いし、大嫌いだし、私の復讐なのは否定しないけど。でも、二人の為っていうのは嘘じゃないよ」

「何が……言いたいの?」


「—————」


 その時柊が語った言葉は、確かに、私の恋を終わらせるのには十分過ぎるほどの、残酷で酷薄な真実だった。

 道理で——。

 いや、結局私は。


 どれだけ人間社会に辟易しても、どれだけ他人との関係性に価値を見出せなかった私でも、自ら死のうと思うことはなかった。

 それは単に、世界そのものには価値を見出していたし、一人孤独でも楽しんで生き続ける自信があったからだ。


 だけど、その時の私は。

 初めて、死にたいと思ってしまった。


 私の激しくて止むことのないと思っていた椎本への恋心というものは、その時、死んでしまった。

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