第十五話 鼓動に触れる ②

 横を向くと、江月がいる。

 左手と右手でお互いの温度を伝え合っている。

 ただそれだけのことが、嬉しかった。

 その嬉しさを江月に伝える方法は、何か無いものか。私は口下手だから、言葉で言っても多分上手く伝わらないだろうな。



 なんでも有名な神社らしい。屋台も並ぶ境内は多くの人で賑わっている。一応地元ではある筈なのに、こんな観光地があるなんて知らなかった。

 厳かな雰囲気は既に人の群れに食い尽くされたかのようだ。今日が祭りの日だと勘違いしても仕方がないような、楽しげな騒々しさだけが場を支配していた。

 意外と地元の観光地に詳しい江月の解説を聞きながら神社を回り終えると、次は駅前まで戻り映画館へと向かった。

 見ることにしたのは、最近話題になっている洋画で、多分途中で寝ても支障がないタイプの大雑把なアクション映画だった。映画の内容に合わせた立体音響や座席稼働、スモークなどの環境効果が売りの映画館で何かが爆発する度に、その轟音に身体を硬直させる江月が可愛くて、あまり映画の内容は覚えてなかった。



 最近は、時間が過ぎるのが早いと思うことが多い。

 秋だというのもあるが、映画館を出て辺りがすっかり暗くなっているのを見て、改めてそう思った。

「結構遊んだねぇ」

 大きく伸びをしながら、上映時間の間座りっぱなしで凝った筋肉を解していく。

「暗くなってるね。どうする?ご飯、どっかで食べてく?」

「うーん、どうしようか」

 このまま帰るのも良いが、何となく勿体ない気分だ。いや、そういう表現はそぐわない。

 ——もう少しだけ、一緒にいたかった。

「じゃあ、私の家でご飯食べてくる?」

「……いいの?」

 僅かに驚いたような表情で、江月は振り向いた。その驚き顔が少しおかしくって、思わず笑う。

「そんなに驚く?前も来たでしょ?」

「……あ、そうだね。じゃあ、そうしようかな」

 江月は少し落胆したように、言葉を詰まらせる。

 本当は彼女が何を考えていたのか、なんとなく分かっていた。私はそれを知らないふりをする。それはとても卑怯な行為であると知っていてもなお、まだ踏ん切りがつかない。

 或いは、素知らぬふりをしてでも、時間を作りたかったのかもしれない。


 江月は三回目だが、実はナンテンも既に我が家に同じ回数を訪れている。

 この事を言うと江月に悪いので、黙っている。少なくとも私から誘ったわけではないが、そうだとしても、江月は面白く思わないだろう。

 ナンテンの人懐こさは、もはや凶器に近い。人の心の隙をついて入り込んでくるのは、天性の才能なのだろうか。

 そのナンテンの食べっぷりが面白くてつい買ってしまったホットプレートの出番が早々にやってきた。帰り道のスーパーで材料を買ってお好み焼きをすることになったのだ。

 私も江月も店で食べたことはあるが、自作したことがないので、お好み焼き粉の説明文を律儀に守りながら恐る恐る焼き上げていく。

「これって広島風?」

「どっちがどっちだっけ……。キャベツが多い方が広島風だと思うから、多分そうなのかな」

 そんな曖昧な知識で作り上げたお好み焼きは、初めて作ってもそれなりに美味しく出来上がったので今度ナンテンに食べさせてやろうなんて思いながら二人で三枚を平らげた。

 粉物なので、存外に満腹感が強い。

 テレビで適当なバラエティ番組を流しながらまったりとした時間が流れる。食後恒例の、何をするにしても億劫になる時間がやってきたのだ。


 気付けば夜も更けて、時計の針は十時を回っている。ようやく満腹感も薄れ始めたが、眠気もまた襲ってきたので立ち上がってコーヒーでも淹れることにした。

「江月もコーヒー飲む?」

「じゃあ、貰おうかな」

 確か江月はブラックコーヒーはあまり飲まなかった筈だ。私は専らブラック党なので、家にはミルクポーションやらスティックシュガーの類は無いが、牛乳ならある。

 それを少し入れて江月に渡す。

「ありがとう」

「……すっかり秋だね。ホットコーヒーが美味しい季節だ」

 我が家は暖房器具が無い。本格的な冬が来るまでには買い揃えなければと思ってはいるのだが、最悪冬用布団と毛布だけで耐えられそうなら買う必要はないかもしれない。

 それでも、やはり夜は少し底冷えする。身体を暖めるようにコーヒーカップを傾ける。胃の中に暖かな感覚が広がっていくのが少しくすぐったい。

 それと同時に私の肩に江月が体重を預けてきた。

「ねぇ、椎本。今日、泊まっていってもいい?」

「うん?別にいいよ?」

 私は逡巡することなく答えると、江月は体勢を崩して、倒れ込むように私の膝に頭を乗せた。

 膝の上から私を見上げて、手を伸ばす。

 その手は私の頬を包み込むように触れる。

「椎本、それってどういう意味か理解してる?」

 ——珍しく、江月の声は怒気を孕んでいる。

 私の曖昧な態度が、彼女を焦らしているのだろうか。でも私も、その結果の先に身を任せてみたいとも思っていた。

 望みとか想いとか、そういうのじゃなくて。

 流されるままに最後までいって仕舞えば、もしかしたら何か分かるのかもしれない。

 山頂からしか見れない景色を見るために険しい山を登る登山家がいるように。

 堕ちるとこまで堕ちなければ分かることのない気持ちもまたあるのではないだろうか。


「……それを江月が望むのなら」

 私は江月の目を見た。瞳は一切揺れることなく私を見ている。

 今度は江月が立ち上がってから私に覆い被さるように押し倒した。

 そして、吸い寄せられるかのように、江月の唇が近づいてくる。

 もう何度目のキスだろう。

 だけど、今回ばかりはキスだけで収まる気配は無い。

 お互いの舌が絡み合って、吐息すら鮮明に感じる。何度目かのキスはコーヒーの味がした。

「……電気。消すから」

 そう言って、部屋の電気とテレビの電源を江月は消した。


 既に江月は、私に是非を問い掛けてはいない。闇が支配する部屋の中で、時折アパートの前を通る車のヘッドライトで妖しく照らされる江月は綺麗だった。

 いつの間にか、江月も私も裸になっていた。自分で脱いだのか、それとも脱がされたのか。その経緯すらも覚えておらず、ただそこにある今だけを貪るように私達は肌を重ねていった。

 鋭敏になった感覚が、江月の全てを探り当てる。多分江月も同じように私の身体の信号を一つとして逃すことなく、感じているのだろう。

 目の前がチカチカするような感覚が何度も訪れて、その度に息が止まりそうになる。

 慌てて酸素を肺に入れ込むと、今度は満たされた肺の中身を全て吐き出す作業に没頭する。


 不思議なのが、時間感覚も平衡感覚も、思考能力も理性も全てがぼやけて曖昧となっていたにも関わらず、江月の鼓動だけは絶えず感じ取れたことだった。

 何時間、私と江月は肌を重ねていたのだろうか。ふわふわとした夢から覚めた時のように、一切の予兆すらなく私はハッキリとした思考を取り戻した。

 静かに寝息を立てている江月は当然のことながら全裸だ。それを見ても欲情はしないのに、江月に触れられた時——というよりも、江月が私を求めているのだと感じられた時、私は何かに駆り立てられていた。


「……ごめんね、江月」

 多分私は君の事が好きなんだと思う。私が普通の人生を送っていれば、君のことを堂々と愛せていたのかもしれない。

 だけどまだ、私には一つだけ、何かが足りていない。

 それさえ見つかれば、それさえ分かって仕舞えば。

 誰かを好きになる器官は、江月が作ってくれた。誰かを好きになる資格は、江月が齎してくれた。

 足りないものは……あと一つだけだ。


 テーブルの上のコーヒーを飲む。すっかり冷たくなっていたが、その苦味が私に教えてくれる。

 ずっと思っていたこと。

 ずっと不安だったこと。

 私に足りないものは、この大嫌いな世界で江月と最後まで生き続けるという、覚悟だけだった。


 私は再び布団に潜り込んで江月の柔肌に身を寄せる。

 規則的な彼女の鼓動が、私を酷く安心させていた。

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