第四話 落下文字 ②


 暑いのは気温だけではなかった。

 後頭部。触ると骨のようなものが一つだけポコリと出ている場所の少し奥。

 脳髄とも言うべき場所が、熱を持っていた。

 落ち着かない気持ちが、熱に変換されたかのようだ。

 世間はこの感覚をなんと呼ぶのだろう。

 それを理解するには、まだ私は幼すぎるのかもしれない。


 訊いてみたいと思ったのは、昨日塚本と何を話していたのかではなく、椎元の中で私という人間がどういう立ち位置に存在しているのかという一点に限る。

 それを直接問いただすのは、痴愚そのものではないのかと、思う訳であって。

 翌日、約束の通りに椎本と放課後遊ぶことになった私は、いつも以上に椎本の表情ばかりを見ていた気がする。

 本格的な夏に入るということで、椎本と私は夏服を幾つか見繕いつつ、ショッピングモールを練り歩いていた。

 ネイビーのTシャツとフロントにスリットの入ったタイトスカートを着ている椎本は、同年代と比べて些か大人っぽい服装だ。落ち着いている雰囲気の椎本と合っている。

 私と言えば、あまりお小遣いも貰えないので、中学生だった去年の夏に買った大きめのフリルが前面についたブラウスと姉のお下がりのカーキのワイドパンツ。当時は背伸びして大人っぽい服を揃えた気分でいたのに、椎本の横にいると子供っぽい気がした。

 彼女の隣に相応しい服が欲しいという何となくの気持ちは、密かに短期バイトをしようという決意をさせた。

 一度家に帰ってから集まったので、数店回っただけで、直ぐに夕方になってしまう。

「江月、夕飯どうする?」

「んー……、食べていきたいけど、お小遣いがねー。夏休み直前から散財するのも、ね」

 フロアガイドを二人で眺める。

 高いと言うわけではないが、女子高生からしてみれば入るのも躊躇してしまいそうな店ばかりだ。

 ファミレスの一つや二つモールの中に入っていてもいいだろうに、と心の中で毒づいてみる。

「……じゃあ、私の家でご飯食べてく?ここからだったら、帰る時私の家の近く通るしね」

「え?いいの?……じゃあ、ご馳走になろう、かな」

 戸惑いは、躊躇ではなかった。

 若干の緊張と、青天の霹靂にも似た提案による高揚感が、言葉を詰まらせていた。

 断る理由などあるはずもない。それどころか、そんなにも私にとって都合の良い展開は、果たしてすんなりと頷いてしまって良いものかと、逡巡してしまうほどだ。

 彼女が暮らしている家。

 誰しもどこかに目星をつけて引いている線の内側、つまり縄張りの中に入るというのは、私にとってかなり重要なことだ。

 自分だけの空間、自分だけの場所、呼び方は色々あるかも知れないが、私も、そして椎本も、その境界だけはあやふやにせず、きっちりと線を引いているはずなのだ。

 そして、よく知らない人間や信用していない人間が、そこは土足で入り込むのを酷く嫌う性分だ。

 彼女がそれを許してくれるというのは、それだけ私は椎本の信用を勝ち取ったのだろうか。

 そう考えるだけで、純粋に嬉しいし、同時に怖くもある。

 私は、椎本と仲良くなりたいと感じていた。私にとって仲の良い友人関係というのは、互いのそういうプライベートな場所に踏み込んでも互いに何も気にならないというような関係だ。

 だけどもし、私が彼女の家にお邪魔して、互いの家に行き来するのが自然になって、自他ともに認める親友のような関係になったとして。

 そこで、私の欲求が終わらなければ、どうなってしまうのだろう。

 私はもっと深く、椎本楓という女性と深い仲になりたいと思ってしまうのだろうか。

 それがとても、怖い。

 怖いことなど、ありはしないというのに。そんなことを考えてしまう自分が、怖い。



 椎本の家は、何というか、私の家に使われるのとは違う意味として古いという形容詞がつきそうな集合住宅だった。

 木造のアパートはブロック塀で囲われており、そこに木製の板が打ち付けられていて、「曙荘」と名乗っていた。

 建て付けの悪いドアの向こうは六畳間の小さな部屋とユニットバスがあるのみで、想像の数段上をいく質素な暮らしを椎本は送っていたようだ。その僅かなスペースには不釣り合いなサイズではあるが、世間的に言えば小さな仏壇が

鎮座していて、どこか椎本に似ている女性の遺影が置かれている。

「驚いたでしょ。私の家、かなり狭くて」

 自嘲する訳でもなく、どこか慣れた口調でそんなことを言う椎本に私は何も言えなかった。

「母子家庭だったんだけどさ、高校上がる前に母さんが死んじゃってね、高校からはこの家で暮らしてる」

「……良かったの?」

 思いがけずに私の口を衝いてでた言葉は、そんな短いものだった。

 来る途中に寄ったスーパーで購入した物を台所の上に置いている椎本の後姿に向かって、半ば独り言ように呟いた私の言葉の意図を当然のことながら、椎本は理解できなかったようだ。

「何が?」

「……んと、椎本ってさ、結構自分のこと、人に知られるの嫌いなのかなって思ってたから」

「あー、そうだね。あんまり他人に私自身のことを知られるのはあんまり好きじゃないかも。でも、なんでだろう。江月に対してだけは、いつまでも私自身の事を教えないっていうのは不誠実な気がしたんだよね。なんていうか、不公平って感じでさ。だって結構私、江月のこと知っちゃったしね」

 彼女が私に対して誠実であろうとしてくれているのは、嬉しい。

 彼女は殊更人に対して不誠実な人間であるという訳ではないと思うが、それでも誠実でありたいと言ってくれたのは彼女にとって私は特別な存在であるかのような気分にさせてくれる。

 多分私は照れていたのだろう。不意を突かれた椎本の私への評価に戸惑っていると、椎本は、それにさ、と言葉をさらに紡いでいく。

「私は他人に自分のことを知られるのが好きじゃないだけで、友達になら自分がどういう人間なのか知ってもらいたいタイプなんだと、思う。だってさ、こんな見窄らしい家に住んでいるなんて人には知られたくないのに、江月には私がどういうところで生活しているのか見せたくなったからね」

 それは一種の脅しではないかと、思う。

 なんてことない日常会話のような彼女の言葉は、一方通行の選択肢にも近しい。

 多分、それは私の考え過ぎで、彼女はそこまでの意図も望みも会話の中に織り交ぜてはいないのだろう。

 しかし、一方的な私の想いが、思惑と感情が明滅と繰り返し現れる何者かによって唆されているような気分にもなるのだ。

 椎本の側にいるということは、彼女の背負う何かを共に支えるということなのだ。

 それが罪でも罰でも、或いはその両方でも。


「餃子、ニンニク入れるけどいいよね?」


 ボーッとそんなことを考えていると、驚くほどの手際の良さで餃子のタネを作っていた椎本がこちらを見ていた。

 肩甲骨辺りまで伸びている射干玉の様な黒髪が、涼しげに刺す様な瞳が、小ぶりで薄い桜色の唇が、少し華奢な体躯が。

 振り返ってそう言葉をかけてきた椎本の全てが、私の視界に飛び込んだ。

 それらが彼女の背負う何かに潰されてしまったら、どんな風に歪むのだろう。


「問題なし。てかさ、包むのくらいは手伝うよ」

「いいから、お客さんは座っててよ。ほら、テレビでも見てて?」


 椎本とこんな会話を日常的に行う間柄になりたいと考えると同時に、そんなことが頭に浮かんだ。

 そして、その凄惨な可能性を、私が共に背負うことで少しでも和らげるのであれば。

 彼女の側でこうして居られる条件が、世間一般でいう友人関係の大多数に見られるような半端な関係ではなく、もっと深いものだとしても。

 無意識的にか意識的にか。私の思考は答えを探り、手繰る。

 そしてそれは唐突に、なんの脈絡もなく、躊躇いすらなく、留めどなく、答えを探り当てた。


 --そうか、私は椎本のことが好きなのか。


 小難しい理由をあれこれとこねくり回して得られたことは、ごく単純で簡単なことだった。


 嫉妬も同情も不安も恐怖も願望も、振り返れば、ただの意味を持たない文字となって、私と共に恋に落ちていくのみだった。

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