第二話 月下美人は満月を見た ①
満月の夜にしか咲かない花。
私の目の前にある、今にも開花しそうな白い花弁を持つ花について、地底人のお姉さんはそう教えてくれた。
月下美人という花は、そういう伝説が昔あったようだ。しかし、実際はそれはただの間違った俗説で、満月でなくとも開花する。
だが、我が家の月下美人はそんな俗説を律儀に守り続けるようで、毎年満月の夜に咲いていた。
今夜は満月だ。多分、今年も律儀に俗説に肖りつつ月の光を浴びながら咲き誇るのだろう。
この花は日本の気候を苦手としているので、屋内で育てているのだが、毎年満月の夜には外に出して花開くのを見るのが恒例になっている。
毎年の私の密かな楽しみであったのだが、今年は何故だか、それを一人で見るのは勿体ないような気がしていた。
多分そういう考えにさせた犯人は、そろそろ私の家の前に着く頃だろう。
玄関の戸棚に置かれた折り畳み傘を掴んで玄関を開ける。
予想通り椎本は家の前で庭を眺めていた。
「よっす、おはよ」
椎本ともっと友好を深めたいと考えるようになってから、距離感を計りかねている私はまたもや見誤ったようで無意識に変な挨拶が飛び出してしまった。誤魔化すように、天気の話でもしようかと空を見上げてみる。
曇ってはいるが、雨は降っていない。今年は梅雨入りしたというのに、降雨日数は少ない気がする。今日ばかりは降って欲しくないが、梅雨だというのに雨が降らないのは気分的に残念だ。雨に濡れる紫陽花を見るのが、私は結構好きだったりするからだ。
「梅雨なのに全然雨降らないなぁ」
このところ天気予報は外れ続きだ。今週も毎日降る予報ではあったはずなのに、木曜日現在まで一日たりとも雨が降った様子は無い。
月曜日から続けて傘を持っていた椎本も、いい加減愛想を尽かしたのか、それとも自転車に乗りながら傘を手に持つのが煩わしくなったのか、今日は傘を持っていなかった。
どうやら椎本は雨が降らないことは喜ばしいものだと考えているだけではなく、冷夏や暖冬が好みらしい。
彼女以外ならそれとなく話を合わせて肯定する私であったが、江月に対して無理に話を合わせるのはむしろ失礼な気がして、軽く自論を唱えてみた。
私の自堕落な季節の過ごし方に呆れたように笑う江月を見て、
「今夜の月下美人が咲く瞬間を一緒に見ない?」
と、口走りそうになる。
しかし、今日の天気は雨の予報だ。今まさにその予報が外れているとはいえ、曇天の空を見ると雨が降ってもおかしくはない。
せめて雨が降らないって確定してから、と誘うのに躊躇してしまった自分への言い訳は、予め用意されていたかのようにすんなりと私の勇気を萎ませていく。
この時ばかりは同級生達の向こう見ずにも思える屈託のない性格が羨ましく思えていた。
「うわ、雨降ってるじゃん」
クラスメイトの
体育でバレーを終えた身体には少々湿潤が過ぎるような外気に思わず塚本は不快さを表情で表現した。
平坦で凹凸の無い小柄な体躯が彼女のコンプレックスらしく、更衣室で体操着から制服に着替えている最中は私の育ち盛りっぷりにあれこれ小言を言っていたが適当にあしらった。
更衣室を出た後もぐちぐちと文句を言っていたのは確実に、校内では私と塚本と大体一緒に行動している
塚本と矢島は、私にとってクラスメイトの中でもマシな部類の人間であった。彼女達は適度な距離を保ち、馴れ馴れしくも余所余所しくもない。
教室内にそれなりに仲が良い人間が二、三人いればそれなりにトラブルや厄介事がなく円滑な学校生活が送れるというのは、これまでの人生経験から何となく得ていたので、高校に進学してすぐに彼女達と出会えたのはそれなりに
休日の度に遊ぶような仲でもなく、だからといって校舎から出れば一切連絡を取らない訳でもない。月に数度、放課後に何となく遊ぶような程良い距離感が私には最適だった。
「塚本、傘持ってきた?」
「矢嶋と違って私は天気予報を見るからな。ちゃんと持ってきている」
「あら、まだ不機嫌なの?しょうがないなぁ、昼にお弁当の唐揚げあげるから機嫌直してよ」
「私は小学生男子か。まったく……、んで、江月はボーッとしてどうした?」
二人の漫才のような掛け合いを眺めながらも、視線はどこか上の空だったらしい。
「ん?あ、ごめん、なんでもない」
ただ、何となく雨が降っているのを残念に感じただけだ。勿論、そんなことを二人に言うはずもなく、曇天の空を眺めるばかりだった。
放課後。
天気予報アプリだと、十八時には雨が上がるらしいが、最近の予報の頼りなさを考えると天気が愚図ついたまま今日一日が終わることも考えられる。
チャットアプリと天気予報アプリを交互に見ながら溜息をつく。
男性アイドルのライブ動画に夢中になっていた矢嶋がイヤホンを外してこちらを見た。
「江月がスマホに夢中なんて珍しい。面白い動画でもあるの?」
塚本がどうしても手伝ってほしいというので、放課後は三人でファミレスに来ていた。手伝ってほしいというのはとあるバンドのライブチケット抽選で、つい十五分前までは三人で接続過多でなかなか繋がらなかったチケット販売ページと格闘していた。
それも何とか矢嶋のスマホが奇跡的に繋がりチケット購入まで漕ぎ着けたので手持ち無沙汰になった私達はドリンクバーの料金が勿体ないという理由で何となく時間を潰していた。
「天気、いつ回復するのかなーって」
「梅雨だしねぇ。あーホント梅雨は嫌いだな、髪、こんなんなっちゃうし」
と、矢嶋は先端が丸まっている赤みがかった茶髪を指先で摘んだ。
肩甲骨あたりまで伸びている矢嶋の髪は、どうやら湿気に弱いらしい。この時期は毎朝鏡の前で長時間髪の手入れをしているらしいが、それでも午後には毛先があちらこちらへと曲がっていくとのことだ。
私には縁のない悩みだ、と矢嶋と比べてかなり短い自分の髪の毛を手櫛で触ってみる。アプリゲームがひと段落したのか、私と同じくショートボブにしている塚本が隣に座る矢嶋の髪を手で弄る。
「ほーん。長いとそんな悩みがねぇ」
「というか、髪質かな。私も切っちゃおうかな」
椎本はどうなんだろ。
あの綺麗な大和撫子のような真黒い髪は、鎖骨の辺りで僅かに内巻きになっていることから、朝それなりにセットしているのは分かるが、朝しか見ていないのでもしかしたら放課後には湿度に負けて大変な思いをしているのだろうか。
そう思うと、鏡の前で自分の長い髪と格闘している椎本も少し見てみたい気がする。
「お、雨上がったみたいだな」
スマホで見た天気予報ではまだ雨が上がるまで時間があったはずだが、確かに窓外を見ると晴れ間が差し込んでいる。
「丁度いいし、帰るかぁ。江月と矢嶋はどうする?」
「アンタのチケット取るためにスマホの充電危ないから帰るよ」
どちらかというと動画を見ていたせいでは、と思ったが冗談交じりに恩着せがましく塚本に言うので、私も取り敢えず帰ることに同意する。
駅前の駐輪場で二人と別れる。
それまで何ともなかったはずなのに、何かが張り詰めていくのを感じた。
クラウチングスタートで走り出す直前の大腿筋の膨らみのような、或いは、今にも割れそうな風船に空気が入り続けるような。
そんな気分だった。
覚悟を決める時だと、私の意思に反して何かが急かしているみたいだ。
既にチャットアプリの画面には、椎本を誘う文面が入力されている。
送信ボタンを押すだけの動作しか、もう猶予はない。
これを押すと、張り詰めていた色々なものが弾けてしまいそうだ。
多分、以前までの私だったら、誰かを誘うことに迷ったら躊躇なく諦めていただろう。いや、そもそも誰かを何かに誘うなんて発想にも至らなかったはずだ。
そんな私が、よく雨上がりまで我慢して迷い続けたものだ。きっと、塚本と矢嶋と時間を潰していなければ、無様な言い訳を見つけ出していたことだろう。
そう考えると、三人でファミレスに居た時間は素直に楽しい時間であったのかもしれない。不安や迷いから逃げるのではなく、後回しにしただけでも成長しているのかも。
ああ、そうか。
友人と呼べるだけのクラスメイトといる時間を肯定的に捉えられる程、私は変わっていっているんだ。
それを認めた時、自然に、無意識に、送信ボタンを押していた。
私を変えたのは、椎本なのだと、理解した。
死ぬまで治らないと思っていた私の偏屈な性格を、いともたやすく変えて見せたのは、椎本だ。
既読のマークが音もなく表示される。
私の世界は、動き出していた。
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