第4話 ホテルがないなら作ればいいじゃない

 吉田はホテリエになりたかった。

 ホテリエとはホテルで働く人のことで、昔はホテルマンと呼ばれたが、女性も多くなったので男女まとめてホテリエと呼ぶ。

 

 ただ単にホテルで働きたかったわけではない。

 ホテルの語源はラテン語のホスペス(hospes)。中世ヨーロッパの十字軍で怪我をした兵士や旅人を保護し、宿泊させていた施設で、病院(hospital)の語源にもなっている。その後、「おもてなし、客人の保護」という意味のホスピタリティ(hospitality)と言う言葉が生まれ、それから派生した施設が「ホテル」だ。

 吉田は、そんな本来の意味の、お客様をおもてなしし、お迎えする空間を整える、一流のホテリエ(hotelier)になりたかったのだ。


 吉田が就職する頃、東京オリンピックを見据え、インバウンド客を取り込もうとホテルは建設ラッシュ、外資系も参入し、就職先はより取り見取りだった。その中で吉田が選んだのは、特別に思い入れのある、創業数十年のある都心の老舗ホテルだった。

 そこで一流のホテリエになるべく研修を積もうと考えていたのに。


 吉田の夢や将来の希望は異国から来た病魔が根こそぎ奪った。

 

 最早、顔の一部となったマスク、日常的に行われる消毒や検温、第〇波と言う報道、幾度となく出される緊急事態宣言、その度に鳴り響く、または画面で通知されるキャンセルの連絡。


 レストランやバー、結婚式や宴会と言った大きな稼ぎも失ったホテルだったが、手を拱いていたわけではない。元々観光のためのホテルだったが、TV会議割などでビジネス客を取り込もうと務め、昼食に持ち帰りの弁当を作ってみるなどして、GoToトラベル、県民割に望みを繋いだ。

 離職する職員も多い中、増える業務、少ない給与にも歯を食いしばっていた。何とかなると思っていた。だって、歴史もあり、客室は百を超え、それなりに有名な超一流ホテルだったのだ。


 だから、廃業になった時のショックは大きかった。


 新型コロナの影響で利用客が激減し、計画されていた施設の老朽化や耐震改修などの資金を調達することが難しく、負債ばかりが膨らんでいた。経営陣は残ってくれた従業員の退職金が捻出できなくなる前にと、倒産を決めた。


 吉田はフロントで最後の客を送り出し、いつものようにカウンター掃除した後、従業員と供にホテルを出た。夕闇の中、一度だけホテルを振り返った。外観はいつものように歴史を感じさせたたが、いつもなら宿泊客の灯が幾つかついている窓は真っ暗だった。


 この、窓の灯を見るのが好きだったな、と思った。吉田はホテルに一礼し、二度と振り返らなかった。


「これがこの世界のホテル!?」


 本日の宿泊先は三階建ての煉瓦造りの建物だった。王都から一日の距離にあるこの交通の要所で、有力な商人や貴族たちが泊まる高級宿らしい。確かに他の施設に比べれば立派だった。一階には馬を繋ぐ厩があり、最上階の三階は貴族令息や未亡人たちが案内されていた。吉田も含め使用人たちが案内されたのは下の階だ。

 家具など殆どない。広い寝台には汚れたシーツがかけられており、その上に老若男女が殆ど裸の状態で身を寄せ合って寝ている。近くにはおまるがあった。夜中はこれで用を足せと言うことだ。


 戸惑っている内に蝋燭の火はすぐに消された。夜の灯は贅沢品なのだ。

 暗闇で視覚が閉ざされると他の感覚が研ぎ澄まされる。特に刺激されるのは嗅覚と聴覚。眠る人々の中には酷く悪臭を放つ人もいる。一緒に眠るのは勘弁だと、吉田は支給された使用人用の上着を自分の肩にかけ、床に座り込んだ。そこですら、泥と埃でズボンが汚れた。暗闇の中、寝返りの音、鼾や呻き声が聞こえる。


 木で出来た窓の隙間から、月光が部屋を照らしている。少し大きい気もするが、この月は日本に上がる月と同じものなのだろうか。この夜空は日本に繋がっているだろうか。どうすれば帰られるのだろう。

 

 ゆっくりと角度を変えていく月の光を、まんじりともせず見つめる。

 

 日本に残してきた恋人はいない。仕事が不規則かつ多忙だったせいで、学生時代の友人たちとも疎遠になっていた。かつての同僚たちとはもう二度と同じ職場で働くことはないので、シフトの迷惑をかけないのは不幸中の幸いだ。

 だが、両親はどうだろう。母はのんびりとしたところがあるので、まだ自分が国内、或いは世界から消えたことには気づいていないかもしれない。そう思うと少し笑えた。でももし、行方不明になったと知ったらどうするだろう。ドラマのように警察に届け出たり、近所でビラを配ったりするだろうか。家族はどれほど心配するだろう。帰る方法はわからなくとも、せめて無事に生きていることは伝えたい。


 日本に帰ろうと、王都にやって来る前は、この世界にやってきた当初に歩いた通りを何度も往復した。しかし何度行ってもあの、不思議な鳥居の光景には出会わなかった。


 そもそも自分は何のためにこの世界に来たのだろう。

 未亡人の言う通り、あの容姿が似ているお坊ちゃんの代わりに死ぬことだったのだろうか? 自分が身代わりになれば、あのヨシュアとか言う青年はとんでもない英雄や歴史を変えるキーパーソンになるとか? 吉田はすぐに首を振る。自分の不始末を赤の他人に肩代わりさせるような人物が大物になるとは思えない。


 では、ちゃんとした理由があれば、何か自分が納得できるような理由が、例えば神とやらがこの世界に招いたとか、この世界を救う使命があるとか、そんな大層な理由があれば、生きていけるのだろうか?


 とりとめのないことばかりが頭に浮かぶ。でも根っこにあるのは同じ疑問だ。つまり、自分はここで生きて行かねばならないのだろうか、と言うことだ。こんな、ホテルもないところで。


 一流のホテリエになるのが夢だった。夢を失っても人は生きていける。息を吸って、腹に何か入れて。でも、そんなただ生きているだけの、屍みたいな生き方、何が楽しいんだろう。


 目標が定まって居れば、道のりは辛くとも走っていける。希望するホテルに就職するため、どれほどの努力を重ねただろう。採用通知をもらった時の、あの胸が熱くなるような瞬間が恋しい。父がホテルのディナーを予約してくれ、その席で母が黒革の靴をプレゼントし、友人たちが本当にホテルが好きだね、とちょっと呆れながら後日、文房具やスケジュール帖をくれた。あの時が人生の絶頂だったと、涙が出る思いだった。


 それならば、処刑を宣言され、恩人だと思っていたガライ家に裏切られた昨日は、人生最悪の日だろうか。

 ガライ家から逃げ出してみようか? 彼らに良いように使われ、身代わりで処刑される前に。

 すぐに、無理だと結論する。

 この世界へ来た初日の二の舞になる。どうやって生計を立てると言うのだ。身分を証明するものは何もないのに。身元不明の人間を、物好きの貴族でなければ誰が拾うのだ。

 あの最低な貴族の母子から離れることはできない。少なくとも衣食住は保証されている。残念ながら自分は、彼らと運命共同体なのだ。


 その事実から逃避するように吉田は考えを巡らせる。


 仮に働けるとして、どんな仕事をするのだ。こんな不潔な、客が雑魚寝をするような宿泊施設で?


 この施設は控え目に言って最低だ。もし自分がオーナーだったら……。


 その時、吉田の脳裏に、雷のような閃きが訪れた。


 そうだ。ないなら作れば良い。自分が満足できるような職場を、一から自分の手で作るのだ。


 もう月のない窓を開ける。澄んだ空気が吉田の頬を撫でる。

 地平線が白み始めていた。徹夜明けだが、ホテル業務で慣れっこの吉田の頭はクリアだ。吉田はただ一つの決意を胸に、朝焼けを眺めていた。


 ――この理不尽な世界で、一流のホテリエになってやる!

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