エンドウ豆の卵とじ

ラビットリップ

第1話  大きく年の離れた教え子

九〇歳近くになった美津子は、チャイムが鳴っても、すぐに玄関へ辿り着けない。向かっている間に訪問客が帰られてしまったこともあるし、留守だと思われて配送屋がいなくなることも、ここ最近増えてきた。

特段広い家でもないが、今回も玄関までの到着に、三分以上は優にかかっていた。  

もう来客が帰ってしまったのではないか、と思いゆっくり扉を開けたとき、濃紺のワンピースに身を包んだ女性が、すっと立っていたため、美津子は軽く驚きを覚えた。

「突然お伺いして申し訳ありません。山本武先生の教え子の山口桜花と申します。新聞で先生の訃報を知りました。弔問に伺いたいと思い、すぐに先生の家に電話したのですが、電話番号が使われておらず、携帯電話も解約されていました。失礼を承知の上、事前連絡なしで弔問に伺いました。」

山口桜花と聞いて、美津子はこの名前を知っていると思った。

「暑い中、わざわざありがとうございます。狭い家で片付いておりませんが、どうぞ、どうぞ、主人も喜ぶと思います。」

美津子は手招きして、桜花と名乗った女性に、中へ入るよう促した。

桜花は何度も頭を下げた後、靴を脱ぎ、ゆっくりと美津子の後ろをついてきた。

長年にわたり年賀状の交換はしていたものの、ここ数年出しても返事が返って来なかったため、ある程度覚悟はしていたと、桜花は美津子の背に向かって話してきた。

美津子は、こんなに大きくなったのか、という感慨と共に、時代の下りを感じずにはいられなかった。

桜花は鞄から香典を取り出し、美津子に渡してきた。

「あぁ、ご丁寧にありがとうございます。さぁ、線香をあげてやってください。」

 美津子は居間に置かれた、簡素な祭壇の前に案内した。

 丁寧に線香を手向けた後、桜花は手を合わせ、しばらく遺影を見つめていた。何か会話を交わしているのかなと思い、美津子はその間に台所へ行き、お茶の支度をした。

 美津子の夫、武は数年前に誤嚥性肺炎を患い、その後は合併症を併発し、先月二十七日に亡くなった。九十二歳だった。

「ここ数年は文字も書けなくなってきて、年賀状も返せなくなったのでしょう。」

会話を終えた桜花に美津子は麦茶を差し出しながら、話しかけた。桜花は麦茶を一口含み、喉を潤すと、ありがとうございます、と呟き、顔を上げた。

「私はもう、山本先生が定年退職され、再任用の講師になってからの出会いなので、ほんと、孫のように可愛がって頂きました。

文字の書き方から文章の書き方まで、細かく指導を受け、自分が高校入試で失敗し、不本意な高校へ進学する羽目になった時も真っ先に電話をかけてきてくれ、『その高校に入ったら、弁論部に入りなさい。あなたは声も出るし、文章も書ける。そこで鍛えてもらって、悔しさを晴らしなさい。』と激励を受けました。私はたまたま運良く、そこで花開いて、数年後東京の大学へ進学することができました。きっかけを作ってくれたのは山本先生です。」

「主人、いじっかしかったでしょ。」

「元弁士ですからね。先生は、特攻隊上がりで、確か八月一七日に出撃予定の人だったんですよね。だけど、私の誕生日でもある八月十五日に戦争が終わったから命拾いをしたんだと伺いました。その縁で、特別に私は可愛がってくれたのかなと思っています。親しくなり、いっぱい先生からも戦争の話を伺いました。八月十五日になると、東京へ進学した後も、誕生日おめでとうの祝電まで送ってくれました。今、様々な国を旅して、インドネシア、ミャンマー、パラオなど遺族が建てた慰霊塔にも足を運び、手を合わるようにしています。この行動は先生の影響も大きいなと思うんです。」

「教え子で、手をあわせに来て下さったのは、桜花さんだけですよ。」

 美津子がそう言った時、桜花は少し目を曇らせた。もう一口麦茶を含んでから、意を決したように、言葉を発してきた。

「私は昔、山本先生の心を殺してしまったという思いをずっと引きずってきました。どこか山本先生へのお詫びのような気持ちもあって、各国の慰霊塔まで足を向けているのではないかと思うことがあるんです。」

 そう言うと桜花は、ゆっくりと振り返り、夫・武の遺影を正視した。

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