3.新たな犠牲者

 ──本当に……本当に酷い事故でした。

 そう語るのは、時雨原に長く住む高齢女性である。

 この場所が開拓されたばかりの頃から長く暮らしていて、それだけにここ最近の時雨原での悲惨な事故が恐ろしくてたまらないのだという。

 その事故が起きたのは、日が沈んだばかりの時刻だった。

 亡くなったのはバイト帰りの男子大学生で、事故当時は歩道をゆっくりと歩いていた。そして、古いマンションの前を通りかかった時の事だ。彼が通り過ぎようとしたちょうどその時、突然、マンションの窓ガラスが割れ、鋭利なガラスの破片が彼の上に降り注いだ。そしてガラス片の一つが、彼の命を奪ったのだ。

 目撃者は彼女以外にも複数いたという。

 ──ひと目見て、ああ、あれはもう駄目だと分かってね。まだ若いのに可哀想でね。

 けれど、誰一人として窓ガラスが割れた理由は分からなかった。窓ガラスの割れたフロアの関係者もまた分からないと証言しているという。

 事故当時、そのフロアは無人であり、しっかりと施錠もされていた。監視カメラにも誰かが訪れた様子はなく、本当に突然、ひとりでに、窓ガラスが割れたようにしか思えないということだった。

 責任は誰にあるのか。

 表向きの議論はそこに集中した。

 けれど、若者を中心にひっそりと、まことしやかに語られたのは、今回の事故の犠牲者になった男子大学生が生前にバイト仲間たちに語ったという話の内容だった。

「やっぱりあれも化け猫らしいね」

「うそ? もう八人目でしょ? 時雨原怖すぎ!」

 放課後、教室でひそひそと語り合うクラスメイトたちの会話を盗み聞きしながら、卯月は浮かない表情で俯いた。

 単なる噂に過ぎない、等と思うことは卯月にはもう出来なかった。

 亡くなった男子大学生のバイト仲間や同じ大学の友人によれば、彼もまた時雨原の夜道で例の化け猫に会ったのだそうだ。

 走り去る黒猫を目で追うと、その先に女がいる。女は猫を抱き上げてから振り返り、じっと彼を見つめた。そこまではこれまで聞いていた通りだったのが、そこからがこれまでとは展開が違ったらしい。

 猫を出したその女は彼に近寄ってきて、すれ違いざまにはっきりとこう言ったらしい。

 ──あと一人。

 そして、彼が振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。

 卯月はしばし考え込んだ。これまでと違う点がいくつかある。まずは、その話に出てくる女が亡くなった彼に自ら近づいてきたという点だ。これまでの話では、近づいて来るなんてことはなかった。そして次に、彼女の声がはっきりと聞こえていることだ。これまでは何を言っているのかが分からないということが共通していたはずだった。

 そして最後に、亡くなった彼は会釈をしていないという点だ。

「呪いが強まっている」

 タマがそう言ったのは、考え込みながら卯月が教室を後にした時のことだった。

 単なる噂と言えば噂であるが、タマがそう判断するならば、やっぱりそうなのだろうか。卯月は悶々としながら、小声でそっとタマに訊ねてみた。

「やっぱり、そうなんですか?」

 すると、タマは低い声で唸るように返答した。

「恐らくそうだろう。だが、確信に至るには──」

 と、タマが言いかけたその時、背後から足音が聞こえた。

「卯月ちゃん!」

 突然呼びかけられ、卯月は驚いて振り返った。そこには先ほどまで教室の隅で噂話をしていた同級生のうちの一人がいた。

 彼女な懐っこい笑みを浮かべて卯月を見つめていた。

「また明日ね」

 そう言われ、卯月は惚けてしまった。

 幻覚症状に悩まされるこれまでならば、この事さえも幻覚なのではないかと不安になってしまう。しかし、卯月は実感した。今は違う。兎のお面は今日も付けている。彼女には見えないだろうけれど、自分には分かった。

 ──これは、幻覚じゃない。

 迷わずそう判断できて、卯月は自然と笑みが漏れた。

「また明日」

 そう返事をすると、同級生は嬉しそうに笑い、手を振ってくる。卯月もまた手を振って、廊下を進んでいった。

 階段へと曲がるまで、その同級生は見送ってくれた。

「なんだ。友達いるじゃないか」

 階段を降りる間にタマにそう言われ、卯月は小声で返事をした。

「優しい人なんですよ。友達かどうかって言われたら、ちょっと微妙かな。遊んだこととかないし」

「誘えばいいじゃないか」

「いいんです。暇なときに連絡を取り合う友達は他にいるので」

 卯月はそう言って、その友のことを懐かしんだ。

 彼女もまた時雨原に暮らしている。小学校と中学校が同じで、それぞれ別の高校に進学した。向こうは忙しい部活に入っているので、会う事もめっきり減ってしまったけれど、昨年は長期休みなどを利用して遊んだりもした。

「そうか、それならいいのだが」

 タマはそう言って、黙り込む。

 一方の卯月は、彼女の事を思い出してふと不安になった。

 友達が暮らしているのもまた時雨原だ。

 二万人ほどもいる住民のうちの八人といえば少なく感じるかもしれないが、だからといって次の犠牲者が家族や友人にならないとは限らない。

 まさか自分が、自分の周囲の者が、という事態はあり得るのだ。

 そうでなくとも、卯月はいまとても責任を感じていた。

「私のせいだ」

 昨日、もしも化け猫の居場所を突き止められていたならば……そう思わずにはいられなかったのだ。

 タマが教えてくれた話によれば、強い霊力を持つ協力者はタマに頼らずとも自ら化け物や霊魂の気配を追いかけることが出来るのだという。過去の二人の協力者のうち、百五十年前の女性の方はそういう力が強かったらしい。

 しかし、卯月は違う。ただ見えるだけだ。そのことが歯痒かったのだ。

「何を言う。昨日から本格的に手伝ってもらったばかりだというのに」

「でも、また人が亡くなったんですよ」

 卯月は辛かった。

 力及ばず亡くなってしまった彼に申し訳なかったのだ。

 それに、焦りもあった。

 噂によれば化け猫は「あと一人」と言ったのだ。それはつまり、まだ犠牲者は生まれるということではないのか。次の犠牲者は、自分の知っている人かも知れない。そう思うと居ても立ってもいられなかった。

 卯月は駆け足で階段を降りた。そんな彼女にタマは影から声をかける。

「焦るな。焦ってもいい結果には繋がらんぞ」

 しかし、返事はせずに卯月は下駄箱へと直行し、そのまま急いで学校を後にした。

 校内から時雨原まで登る長い階段を駆け上がって、最後には息を切らしながら門を潜ると、タマが呆れたように影の中から言った。

「焦るなというのに」

「すみません。でも、早く捜しにいきたくて」

「そうは言っても、今日のうちに見つかるとは限らんぞ。新しい犠牲が生まれたばかりだ。奴も満足してそう目立った動きはしないかもしれない」

「だからこそ、今のうちに捜すんですよ。次の犠牲者が出てからでは遅いんですから」

「確かにそれもそうだが、奴が新しい犠牲者を求める頃が一番の狙い時でもある。恐らく三、四日後くらいになるかね」

「駄目です。それじゃ、昨日みたいに取り逃がしてしまうかもしれない」

「取り逃がしたとしても、今のお前さんは襲われたりしない」

「私はそうだとしても、私の周りの人はそうじゃないでしょう?」

「それもそうだが……この時雨原にいまどれだけの人がひしめき合っている? 大勢の中の一人だ。それがお前さんの身近な人である可能性は低いだろう」

「わずかでも可能性がある限り、無視は出来ませんよ。それに……」

「それに?」

 卯月は呼吸を整えつつ、タマの潜んでいる影に向かって言った。

「たとえ知らない人だとしても、これ以上は死んでほしくないんです」

 卯月はそう言うと、呼吸を整えてすぐにまた歩き出した。

 タマはそんな卯月に呆れつつも、影の中から指示を送った。

「よし分かった。お前さんがその気なら、その根性に甘えよう。次の信号を左だ。わずかに奴の気配を感じた」

「はい!」

 返事と共に卯月は走った。長い階段はいつもならば疲れがしばらく残るものだが、何故だろう、今だけはあまりその疲労を感じることもなかった。

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