#1 きっかけと始まり

4月15日。


18時45分。


高校一年生の俺は、薄暗くなったグラウンドの隅で、向かいの一年生とキャッチボー

ルをしていた。


サッカーボールと同じくらいのそれは、楕円形であるがゆえに、不規則な回転でこち

らに向かってくる。


俺は胸元を使って抑え込むように捕った。


「お前、やっぱすげえな!」


隣にいる2年生の先輩が俺の捕球を評価する。


「本当にやってなかったの?」


「はい。今日で初めてです」


「へえ~」


「来週までには、決めときます」


「お前、先週も言ってたろそれ。ていうか、まだ何も言ってないだろ」


先輩が困ったように笑う。


「部活動見学の期間で、期待してる顔してたので、つい。あっ」


あなたの言うことはお見通しですよ、と言わんばかりの発言をしたことを後悔する。


しかし、目の前の恰幅のいい先輩は、笑顔のままだった。


「出雲、お前さては、モテるな?」


「いえ。別に」


色恋の話、というか女性そのものが嫌いな俺は、この手の質問をされると回答に困っ

てしまう。不愉快が顔に出ていないか心配になる。


「何でも器用にこなせそうだし、なにより察しがよすぎる」


「人並みですよ。たまたまそういう面が見えてるってだけですし」


望まない才能だ。生きていくうえで必要だっただけ。俺は心の中で独り、訴えかけ

る。


「まあまあ、謙遜しなさんなよ。来てるぜ、今日も」


「えっ」


「喜福くーん! 終わったよー!」


頭上の雲を切り裂くほど溌溂とした声が、こちらに届く。


「来るなって言ったろ」


俺は慌てて駆け寄り、知り合ったばかりのクラスメート、賀陽小春(かようこはる)を叱責する。


「いいじゃん別に! 喜福君とはもう友達なんだから」


茶髪の童顔がニコリと笑い、俺の奥に見える人たちを見渡す。


「部活、決まった?」


「いや、まだ」


えー! と大騒ぎする。いちいち感情が忙しいやつだ。


「また先延ばしにしてるのー? ダメだよ、入らないなら入らないって、ちゃんと言

わなきゃ。私から言ってあげようか?」


「いらねえよ」


冷たく応じる俺にもしつこく付きまとう彼女。教師でもないくせに俺にお節介を焼

く。


ラグビー部の先輩たちに挨拶してから、グラウンドを後にする。


「あっ」


「どうしたの?」


「忘れ物」


教室に続く階段を上る。


「ふうん」


「付いてこなくていいよ。昇降口で待ってろ」


今日は数学のプリントがあるから、机の引き出しにしまい込んだ教科書を持って帰ら

ないといけない。教師の教えを写したノートよりも、企業が作った教科書の方が参考

になると思っている。


1人で教室までたどり着く。


廊下の窓に映る、陽光と星が混ざった空。バランスのいい夕闇をぼんやりと眺めてか

ら、スライド式のドアを開けた。


しかし、すぐさま閉めた。


こういうのは、蜜月、というのだろうか。教室の中に2人。正確には、男女が1人ず

つ。


まだ4月なのに早いな。普通の高校生って、こういうものなのだろうか。俺が異常な

のだろうか。中学でも、男子たちの猥談や、女子との会話にはかなり困った。


羨ましいな。


あんな過去さえなければ、俺だって、普通に。


教室から、破裂したような音、そして様々なものが崩れ落ちる音がした。


何事かと教室を開けると、想像だにしない光景が眼前に広がっていた。


黒髪の女子生徒が、突き飛ばされる形で、机や椅子と一緒に倒れ込んでいた。


「なんだよ…これ…」


現実感のない光景に、俺は思わず自分の顔を平手で数回叩いた。


立ち尽くしてこちらを見つめる男子生徒、だったやつが、片腕と頭を失った状態で、

俺の元へとゆっくり歩いてくる。


「逃げてっ!」


倒れていた黒髪が、苦しそうに足を抑えながら俺に言った。


その言葉を合図に、目の前の化け物は、俺に向かって走り出した。


追われる形になった。


足の速さは、同じくらい。さっきの黒髪が削ってくれたのか、相手はそこそこ命が危

うい状態に見える。


俺はさっき上がってきた階段とは違う方向へ逃げ込む。


賀陽小春の顔を思い浮かべて、今まで抱いたことのない感情になる。


「なんだよ、クソっ、クソっ!!」


こんなクソみたいな人生、いつでも終わっていい。本気でそう思っていた。


なのに、俺はいつまで経っても死ねなった。




腹違いの子供として生まれた俺は、俺を産み落とした女と父親に逃げられて、父親の

結婚相手の女の家で7歳の時から1人暮らしを始めた今年の3月まで育てられた。


あの家での扱いは、もちろん酷かった。ご飯の時は俺だけカップラーメンだったり惣

菜だったり、自分で買ってこいと100円だけを渡される日もあった。


部屋は、納戸のような場所で、エアコンもなく、夏は暑さで意識を失いかけ、冬は凍

えて死にかけた。


癇癪持ちだった女と、俺のことを見下す腹違いの姉。不機嫌になると俺の背中を叩

き、腹を蹴る。唇が切れて吐血しても病院には運んでくれなかった。


夜は幸せだった。それぞれが、自分の愛する男に会いに外出する。勝手なことをさせ

ないために、外からしか鍵を掛けられない部屋に閉じ込められていても、俺は1人で

あることが開放的で、愉快だった。


10歳のころから、俺は彼女たちを怒らせない立ち回りを覚えた。そうすると、自然と扱いもマシになった。晩御飯は200円になったり、冷凍餃子が出て来たりした

し、部屋に毛布と扇風機を置いてくれた。勉強机も段ボールから木に変わった。


暴力の回数もいくらか減った。


女は嫌いだ。


耳をつんざくようなあの金切り声がうるさい。自分が好意を抱く男の前では真逆の声

色を発するのが気持ち悪い。


男女平等だの、フェミニズムなどが出回っている今では、俺はきっと社会的に間違っ

ているんだろうけど、それはもう仕方がない。感覚として女という生き物が気持ち悪

い。




いつ死んでもいい、そう思っていたのに、俺は生きるためにあいつらの機嫌を取って

きた。手首に構えたカッターナイフの刃を何度も出しては引っ込めた。


女は嫌いなのに、賀陽小春に死んでほしくないと思ってしまった。


化け物から逃げた先は、行き止まりだった。


どのクラスも使っていない空き教室。4階のこの教室から見下ろす1階のコンクリー

ト。衝撃を緩和する木々も見当たらない。


詰みだ。


俺は、ついに死ぬ。


化け物が、片腕を振り上げる。ナイフのように鋭い爪が俺に襲い掛かる。


その時だった。


研ぎ澄まされた意識が、聴覚に集中した。


間一髪、俺は飛び込むようにして爪を避けた。


体勢を崩しながら、教室の背面黒板に手を伸ばす。窓が閉じられ扉も半開きになって

いるのに、空気の揺れのような音がする黒板。


「喜福くん!!」


「賀陽っ!?」


腕を伸ばしていた俺は、化け物の腹へ飛びつくようにして両腕を巻き付けた。


こいつごと、ここへ。


俺が逃げたら、賀陽が殺される。


最後の最後で、かっこつけた。


俺の大嫌いな、女という生き物のために。


爪を背中に立てられる。痛い。


でも、離さない。


「やめて、喜福くん!!!」


「大丈夫だ! 俺は! 俺は!! うぉぉぉぉぉ!!」


叫んだのは、人生で初めてかもしれない。校歌も口パクでしか歌わないくらい、声を

出すのは嫌なのに。


そして、俺と化け物は吸い込まれた。


漫画やアニメでよく見かける異空間、のような、周りの至る箇所が湾曲した紫色のト

ンネルに吸い込まれ、真っ白だった目の前の景色は、次第に灰色と化す。


石畳に着地した俺と化け物。


世界史の教科書で見かけるような西洋の剣を持った兵士たちに囲まれて、自分が異世

界に来たことを認識する。


2人の兵士が化け物を殺すと、剣を腰にある鞘にしまい込み、俺を人間離れした腕力

で拘束し、大きな城のような場所へ歩き出す。


そして、俺は裁判を受けた。


正界法第14条『侵入罪』。


他国、あるいは他世界から正界外交局の許可を得ることなく不法に侵入した場合、正

界の均衡を脅かす罪人として直ちに拘束し斬首する。


「じゃ、夜も遅いし、俺の部屋に泊まってけ。一応、俺も正界4公様の1人だから部

屋はVIPだぜ」


目の前のお調子者のおかげで、俺の処刑は保留になった。


「いや、それは大丈夫。帰って数学のプリントやらないと」


「とか言って、逃げ出すわけじゃねーよな?」


指でピストルの形を作り、その人差し指を俺の心臓に向けて「バン!」と声を発し

て、突く。


「いっ!?」


跳ね上がる心拍数。まだ心臓がついていることに安堵する。


「お前がいないところでも、ちゃんとお前のこと殺せるから、好きにしてていいよ」


処刑保留の条件として、俺は、俺が住む世界で人間に扮した魔物、そしてその元凶を

倒さなければならない。


期限は来年の3月31日。


期限内に達成できなければ、死。


「別に泊まらなくてもいいけど、また明日くらいにでもこの世界に来いよ。現世の人

間でも魔物を倒せる方法を伝授しなきゃだからさ」


「あっ、はい」


「敬語じゃなくていいっての。1個しか年変わんねえんだから」


「うん、分かった」


「それでいい」


対等に接してくれたことに喜び、「今日からよろしくな、親友!」と、聞いているこ

ちらが恥ずかしいくらいのノリで、拳を前に向けた。


だから俺も「よろしく」と言い、拳を前に差し出し、軽くぶつけた。そうしてやった

方がこの人は嬉しいだろうし、実際にかなり喜んでいた。

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