いってらっしゃい
「くっ……なんてことだ! か、体が……ッ!」
孤児院で暮らし始めてから初めての朝。
俺は、何故か体全体に押しかかる現象に足が動けずにいた。
体は二トントラックでも乗せられているかのように重く、毒でも盛られたのではないかと疑ってしまうほど不快な気分。
一歩足を踏みしめるだけで、己の体が全力で悲鳴を上げていた。
動きたくない。このまま冒険者ギルドへ行くために動かしてしまえば、己の体がどうなってしまうか考えてしまうほど恐ろしい。
どうして、こんなことに?
一体、俺の体はどうしてしまったというのだッッッ!!!
「ししょー、ソフィアさんから離れたくないからって立ち止まらないでくださいー」
そんな俺を冷たい瞳で見下すイリヤ。
最近はこの瞳を向けらる機会が増えているような気がする。
少し前までは「ししょー、凄いですっ!」って懐いてくれていたんだけども、これがもしかしなくても反抗期というやつなのかもしれない。
「ふふっ、朝からとっても仲良しですね」
そんな俺達を玄関先で見送ろうとしてくれているソフィアたんが微笑ましい瞳を向けてくれた。
そうだよ、こういう瞳を向けてほしいんだ俺は。
「イリヤさん、ハンカチは持ちましたか? お弁当も忘れてはないですよね?」
「大丈夫ですよ、ソフィアさん! 今日はお弁当ありがとうです!」
「そう言っていただけると、早起きさんして作ったかいがあります」
このやり取り、まるで親子のようだ。
きっと恐らく、ソフィアたんの溢れんばかりの母性がそう見せているのだろう。小柄な体で可愛らしい顔立ちとのギャップが今日も大変素晴らしい。
あぁ……ずっとこの推しを見ていたい。
どうにかして孤児院に留まれないだろうか?
「イズミさんも、ちゃんとお弁当は持ちましたか? 育ち盛りさんなので、足りるかどうかは分かりませんが……」
「足りないと思うので、今日は孤児院でご飯を―――」
「ししょーはそこら辺の山菜食べて昼を過ごすので十分すぎるほどです」
「…………」
「…………」
「でも、よく考えたら今日は冒険者ギルドに行かなくても―――」
「指名依頼があるって今日受付さんと約束しましたよね」
「…………」
「…………」
「あ、けど―――」
「しゃらっぷです」
どう足掻いても冒険者ギルドに行かせる気か……ッ!
「ししょー、行きたくないなら行かないでもいいです」
推しと離れたくない俺がイリヤを睨んでいると、唐突にそんなことを言い始めた。
行かなくてもいいと言うのなら行かない。せっかく推しと一緒の空間にいられるのだ、一分一秒がとてつもなく惜しい。
そうと決まれば、ソフィアたんに作ってもらった弁当は後程いただくとして、早く孤児院の中に戻ろ―――
「ソフィアたんに寄生するダメ人間になってもいいのなら」
「……ハッ!?」
しまった、そうであった。
このまま働かない選択肢を取れば、現在貯金がない俺は完全なるニート。孤児院に住まわせてもらうのであれば、情けないヒモになってしまう。
推しに養われるなどファンとして言語道断。そもそも、お金を稼がなければソフィアたんに投げ銭することも叶わなくなる……ッ!
「行こうか」
「そんなキメ顔で言わないでくれます?」
僕はキメ顔でそう言った。
「ふふっ、お仕事は大変でしょうけど頑張ってください」
「ソ、ソフィアたぁん……」
「帰ったら、温かいお食事でお迎えしないとですね!」
なんて胸が温かくなるお言葉なのだろうか。
その言葉を聞いただけで、これからなんでもできそうなほど活力が湧いてきた気がする。
今日も頑張ろう。そういう気持ちに―――
「さっさと行けよ、お兄ちゃん!」
「お姉ちゃんに迷惑はかけちゃダメだよ?」
「帰ったら鍵閉めておくからな!」
―――ならねぇじゃねぇか、邪魔すんじゃねぇよガキンチョ。胸の温かみが一瞬で冷めてしまったじゃねぇか、ケツ叩くぞゴラァ?
今度、この子達の教育を是非とも任せてほしいものだ。全力で大人の人に対する敬意と礼節を学ばせてみせるから。
「それじゃ、ししょー行きますよ!」
そう言って、イリヤは首根っこを掴んで歩き始めた。
ちなみに、首根っこは俺の首根っこである。師であるイズミさんの体を丁重に扱おうともしないその潔さにはそろそろ感服すら覚えてしまいそうだ。
「行ってきます、ソフィアさん!」
「はいっ、お気をつけて!」
あぁ……どんどん推しの姿が遠のいていく。
昨日までは遠目から眺めるだけでよかったのに、一度蜜を吸ってしまったらずっと近くにいたくなってしまう。まるでソフィアたんは恋の麻薬である。
俺はそんな名残惜しさを感じながら、イリヤに首根っこを掴まれるがまま孤児院に背中を向けた。
「イズミさんっ!」
すると―――
「行ってらっしゃいませ!」
推しが、満面の笑みを浮かべて大きく手を振ってくれた。
その姿は、可愛くて胸が弾むというよりも……温かくて、どこか自然と笑みが浮かんでしまうようなもの。
だから、俺は少しだけ振り返って小さく手を振った。
「行ってきます」
推しだからというわけではないだろう。
何故かこんなやり取りが懐かしいような気がして、少し嬉しく思ってしまった。
「……こういうの、いいよなぁ」
「ですね、ししょー」
さて、今日も一日頑張ろう。
重たかった足が、いつも以上に軽やかになった気がした。
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